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5分以上話をした人数=2人という365日

気がつけば、一年が経っていた。
この一年はとても曖昧で、ただただ毎日不安と無力感が寄り添っていた。

お久しぶりです。
前回投稿したのが去年の10月。そろそろ8月も終わる今になってやっと、noteを、というよりもネットを通じてでも、外を見ようと思えるようになりました。ミナキです。

仕事はまだ見つけられていません。
心はまだ病んでいます。摂食障害が完全復活しました。
体も連動して、心因性の全身不調と痛みが続いています。

こうなってくると、原因と因果の順番や種類さえも曖昧模糊になり、頭が飽和状態に陥っています。

それでも抜け出さねば、という気持ちだけはしつこく生き残り続けている。
なんとか方法を見つけようと、頭の中に積み上がる情報の集積所に素手を突っ込んでかき回し、行動しようと玄関の外へ出て立ちすくみ、面接や相談施設への問い合わせしようとスマホを握って、何時間も通話開始をタップできずに冷や汗をかき続けて、一日が終わったり。

もはや時間の概念や感覚もなくなって、あっと言う間に一年近く経っていました。

振り返ると、主治医の精神科の先生と内科の先生、検査などでお世話になった医療関係者の方、お店の店員さん以外、私の病を知っている2人の友人とだけしか5分以上の会話を交わしていません。

生産性皆無の生活、通院と引きこもりと徘徊しかしていない毎日、情報を極力遮断して、何に対しても興味が持てない日々では、コミュニュケーションの取りようもない訳で、当然といえば当然か、と納得しそうになったのですが、いや、本当にそうなのか?と、思い至る。

中身がない、だらだらとした会話のほうが、多かったじゃないか、友人とは。田舎を走る車窓の風景のように、変化がないようで、ちょっとずつ違う、でも代わり映えもしない話題で、時折笑って、時折あくびして、何時間もくっちゃべっていた。
それが楽しかった。

いつから、そんな会話をしていないのだろう。
友人とだけではなく、自分以外の人と話をしたい。
できれば生身の人と、向き合って、その人の非言語の部分も含めて、対話がしたい。

話を聞きたいし、聞いてほしい。

そんな想いがふつふつと、沸騰寸前のお湯の底から上がってくる気泡のように、湧いてきた。

そうして気がついたら、noteを開いていた。

お久しぶりです。ミナキです。
まだ、いました。

また話をしたいです。

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