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2023.12.01に生まれたよ、45歳だけどさ

寒いけれど晴天の2023年12月1日、45年かかって「私」が生まれた。

この日、とある大きな病院の精神科外来の一室で、担当してくださった先生から「アスペルガー、ASDです」と静かにはっきりと伝えられた。
その瞬間、「ASDの私」がこの世に登場し、居場所を与えられた。

大変おひさしぶりです。ミナキです。
3年前にうつとパニックで失業し、その後も迷走しつづけ、社会復帰を目指した記録のために始めたnoteですら書けなくなっていました。

noteを開き、過去の投稿を見直す気力もなく、完全に引きこもっていましたが、とある複雑怪奇なきっかけで「私、発達障害なのでは」と気づいたのが今年の夏前のこと。
今まで生きてきて、一度もその可能性を考えた瞬間はなく、気づいたのも直近で人から指摘されたからでもなく、あるポットキャストに出会って聞き始めたこと、そこで内省と俯瞰というメタ認知行動があると知ったことで変化が起きました。

「つまりメタ認知で気づけたってこと?」と問われれば、答えに詰まってしまうのですが。なぜなら、気づいたのは「メタ認知が驚くほどうまく出来ない自分がいる」ってことだから。

どうしてこんなに内省出来ないのか。
どうしてこんなに自分があやふやなのか。
なのにこだわりだけはやけに強く、自分でもコントロールできないのか。

最初はちっちゃな綻びを見つけ、そのぴょこんと飛び出した短く細い糸を、恐る恐る引っ張ってみては、「なにこれ」って愕然としたり、ぞっとしたり、納得したりを繰り返し、きれいな一枚の布に見えた心のクロスが、気づいたときにはボロボロの雑巾みたいになっていた。

そうなって、ようやく思い出したのです。
小学校に上がってすぐ、クラスにも勉強にも馴染めず、不登校になった私に、各学年の担任の先生たちが、親にも私にも「一度カウンセリングを受けたほうがいい」「相談出来るところにいきましょう」と言ってたのを。

親はなかったことにしていたし、当時の私は意味も分からなかったので、そのままスルー、不登校のままに義務教育を過ごし、高校はギリギリで乗り切った。卒業後は非正規雇用を転々として、現時点で社会からほぼ完全にドロップアウトしてしまったわけですが、「あの時の先生は、この子は普通の子と違う、どこかに問題がある(発達に)から調べたほうがいいってば!」と訴えていたのではないのか?

一度思い出すと、気になってしまう。ぐるぐる数ヶ月悩み、かといって、何でも調べられるGoogleの検索窓に打ち込むことも怖くてできない。不眠も不安も増悪し、心身ともに弱りきった末、毎月の精神科受診の際、主治医に思いきって話をしました。

「私、発達障害なんでしょうか」

先生は冷静に「どうしてそう思ったの?」と聞いてくれました。
経緯を拙いながらも説明すると、「検査を受けてみましょうか」と、すぐに調べられる病院への紹介状の用意、予約の手続きをその場でとってくれました。

てっきり思い違いだとか、考えすぎだとか指摘されると思っていた私は、あまりにすんなり事が進み、かえって焦ってしまいましたが、言い出したのは自分。そのままお願いし、とある大きな病院の精神科で発達障害の検査を受けることになりました。

これが9月。
予約がいっぱいで数ヶ月先になるはずだったのが、キャンセルや予定変更が重なり、翌月には一回目の診察が決まりました。
初回は担当の先生との面談、問診でした。時間にして二時間超。幼少期の頃、学童期、親との関係、いろいろと生育歴を含めて、かなり細かく話をしました。

過去の記事で書いた気がしますが、私は子供の頃の記憶がかなりあやふやで、覚えていないことが沢山あります。ありました。

このすっぽりと抜けている記憶をどう話たらいいのか、と最初は逡巡していましたが、先生の誘導で、だんだん口から自然と溢れ始め、それに伴い、シャボン玉が弾けたように、どーっと流れ込んできたのです。つぎはぎだった記憶が、どはっと床一面にぶちまけられたような感覚でした。

話していくうちに、涙が止まらなくなり、先生の問いに答えるのもしゃくりあげながらという、中年の成人とは思えない恥ずかしい有り様でしたが、先生は優しく容赦なく続け、全部話終えた時、二時間以上経っていました。

少しのダウンタイムを経て、「発達障害、アスペルガーであると言ってよい、と思います。知能検査を受けて、今後のために対策を考えてみましょうか」とおっしゃいました。
そして、「発達障害に伴う、PTSDの治療が必要です。合わせて考えていきましょう」とも、言われました。

知能検査、アスペルガー、PTSD。
もうすでにオーバーフローの私の脳は、この3つの単語を理解するのに必死です。心境的には「なんかドラマとかニュースとかネットでよく聞くやつ(だけど他人事)」で、「はい、わかりました。おねがいします」としか答えられず、その日は帰りました。

帰り道、記憶がおぼろげです。
たくさん泣いたせいで、頭がひどく痛み、途中で頭痛薬を飲むためにキオスクであったかいほうじ茶を買いました。
その苦さと、温度、初めて来た土地と駅のアナウンスを聞きながら、途方に暮れた秋にしては暖かすぎる日の夕方でした。


つづく。

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