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自らに、重なる父の面影が、切れない繋がりを知らしめる。

似ているところなんて、ない。なんて、思っていた。

他人に言われても、ピンとこなかった、面差しが親に似ているということ。

昨日、友人と出かけた先で、スマホで写真を撮られてしまった。

撮られてしまったと表現してしまうのは、私が写真嫌いだったからだが、実は年を重ねてきて、前ほど嫌ではなくなった。

心境の変化はいかに起きたかは、また別の機会として、自分を客観的に俯瞰するには、写真がいちばん手っ取り早いと気付いたから。

顔立ち、表情、姿勢、肌の具合、しわ、髪のつや。

真っ正直に【現状】を見せつけてくれるのが、写真。(動画だとさらに)

LINEで送ってくれた、小さな切り取られた世界に映る自分をみて、「あれ、どっかで見た」と懐かしさを感じた。

記憶を数秒巡らせた。

帰りの山手線の中で、アナウンスが「次は目白」と告げたのと同時に、思い出す。

「父だ」

それも、私が東京に上京する時、見送ってくれた父の顔、背格好と、重なった。

計算すれば、その時の父と今現在の私は、ほぼ同じ年齢。

気付いた刹那、「うわ」と、ひとりごちていた。

マスクに吸い込まれたつぶやきのあと、目の奥がぎゅっとなった。

次いで耳の奥、鼓膜の後ろあたりが詰まったような、閉塞感。

涙は出ないし、頬も熱くならない、汗も滲まず、震えもない。

あるのは、言いようもない、例えようもない、遮へい感というか。

周りの音がぼける。

「あれ、お父さん、こんなに小さかったん?」「もしかしてお父さん、さみしいん?」と、びっくりして戸惑った、18の私の声が、クリアに聞こえたのだ。

まさしく、小さなスマホの画面に写った私は、「ちいさくて」「さみしそう」な「お父さん」に、そっくりだった。

私は、このnoteを書き始める少し前、父に対して一方的に、関係を断つような一文を書きしたため、はがきを送った。

それから、一度もこちらからは連絡していない。

一度、スマホの番号を変更したが、その番号を伝えたのかも曖昧だけど、はがきが届いただろう以降、父からの反応は一切ない。

それが答えだと、受け取った。

もともと、私から連絡しなければ、繋がらないままだった。
それを私が切ってしまったのだから、結ばれる縁はないとおもっている。

けれど、どうしても断てない現実が、私のなかに宿っている。

私は、父と生きている。

たとえ、この先交わる道がなくても、あっても。

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