「余計な一言」は、本当にいらない言葉なのか
「ひとこと多い」「余計な一言」と、指摘されることが多かった。
主にも親や年上の人から。
物心ついた、幼稚園〜小学生高学年あたりまで、私は「ひとこと多い」「口答えする」と、大人に眉を潜められるこどもでした。
もともとおしゃべりが得意ではなく、頭の中で、話す順序がとっ散らかっているような状態だったので、言いたいことがうまく伝えられない。
話し出して、やっと言いたいことに辿り着いた先で発した言葉が、「余計な一言」と捉えられてしまうような具合。
ようするに説明下手、感情の言語化が下手だったのです。
今でもそれはあまり変わっていませんが、「言わない選択」を取る術を取ったので、「ひとこと多い人」から「はっきりものを言わない人」「寡黙な人」になりました。
年端の行かない子供でも、言いたいことを伝えたい、話をしたい、聞いてほしい、を、賢明に言葉にしようとするたび、「お前はひとこと多い」「口答えばかり」と、紋切り口調でぴしゃりと中断させられてしまえば、傷つく。
傷つかないように、言い方を試行錯誤して、どう言えばいいのか、を、いろいろ試した記憶がある。
だけど、どうにもうまく行かない。
幼稚園や小学校で、友達が作れなかった私は、会話する相手は、親か祖父母のみだった。だけど、その家族から、対話のドアを閉められてしまった。
結果、会話ベタのまま、喋ることは悪だと、言いたいことを話す能力がないと、成長を止めてしまって、今に至る。
もちろん、大人になるにつれ、他人とのコミュニュケーションで学び、じわじわと仮りそめの技術はなんとか身につけた、ように思う。
学びの段階、主に20代は、このトライで、かなり人を傷つけた。そして私も傷ついた。信じられないくらい、ド下手だった。会話が。
言語化スキルが低すぎる。そのくせ、人と話をしたいし、同じくらい、人からの話も聴きたい欲が強い。
わかってほしい、わかりたい、でも上手くないので、相手に嫌な思いをさせてしまう、聞き下手だから話して貰えない、悪循環の負のループ。
本棚には、聞くスキルを磨く、傾聴の心得、うまい話し方、そんな本がたくさんあるし、読み込んでいる。
だけど実践に勝るものはありはしないので、全部まさしく机上の空論。
生身の人を目の前にして、いざ会話がスタートしたら、知識がすっ飛ぶ。
トライ&エラーを積み重ねて、成長していく、フィードバックしながら上手くなる、この過程を辿るには、私の柔軟性と学習能力の低さ、出会いの場へ赴けない内向的な性格が災いしまくった。
結果、40代の今になっても、小学校低学年の頃のスキルで、止まっている。
言っていいこと、悪いこと、の判断が、未だに区別出来ない。最悪の年のとり方だろう。
でも、ふと思うのです。
人に「余計なひとこと」と判断された言葉が、伝えたかったことだった、ってことがあった、と。
特に子供の頃は、一生懸命少ない語彙の中から検索し、話していくうちに辿り着いた「あ!これだ、言いたかったことは!」の足がかりが、「余計なことばかり」になってしまった、つたなさがあった。
私には、ちっとも「余計」ではなかった。
「大切」だった、「余計なひとこと」があった。できれば、あと少しだけ、先まで聞いて欲しかった。そしたら分かってもらえた、のでは、と。
余計だと切り取られた先に、言いたかった、伝えたかった、思ったこと、が、たくさん詰まっていた言葉たちの墓場が、こころの奥底で干からびていて、積み重なった厚みの上に、今の私は立っているのかもしれない。
このnoteに吐き出している文章たちも、非常にとっ散らかっているに違いないと思う。
読んでくださった方、ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。
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