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生まれた家をGoogleストリートビューで見てしまった。もう誰もいない廃屋だった。

それは私の祖母が亡くなった、ということだ。


小学生の時に両親が離婚した。

それまで母の祖父母の家、つまりは母の実家に住んでいたのだが、父は離婚後に祖父母との接触を一切するなと言った。

連絡も会うことも。借金を残し不倫の果に蒸発した母の生家、もし今後なにか母がやらかして、子供である私になにか不利益なことが降りかかるかもしれない。だから関わるなという意味で言っているのは分かった。

しかし、私は両親が私を放置している間、祖父母からごはんと少しの愛情を貰って生きていた。だから、その時の恩というと大げさだが、感謝の気持ちがある。


引っ越しをしたあと、父に内緒で数ヶ月に一度、おこづかいで公衆電話から一分にも満たない電話をかけて、話をしていた。


しかし私がでてすぐに祖父が仕事中、転落事故を起こし即死した。

子供だった私は長距離をひとりで移動できるはずもなく、葬儀には行けなかった。その後、手を合わせることも未だ出来ぬままだ。

なぜなら、祖父母は事実婚で戸籍は別。駆け落ちで一緒にいた二人だった。

どういう事情かは知ることもできなかったが、祖母は墓を建てることもせず、仏壇もおかず、お骨だけを抱いて、ひとりで暮らしていると父から聞いた。

以降、父ともうまく出来ず、私は高校卒業とともに家を出て、いまに至る。

父にも会わず、母の行方も知らない。

祖母がどうしているかも知らなかった。


年齢的にはまだ生きていても不思議ではなかったから、もしいままだ健在でいるとすれば、会いに行けるかもしれない。

ずっと抱えていた祖父母に対しての罪悪感、そして生まれ育った家と土地への望郷の想い。

いまだに憶えている電話番号を押すことは怖くて出来なかった。


Googleストリートビューでこっそり見てみようと思い立った。まだそこに家があったなら。行ってみたい。


マップ検索して、ぐるぐる視点を変えて数十年ぶりに見た生家はもう人の気配のない廃屋だった。

猫の額ほどの庭にあった畑も、植木と季節の花が萌えていた花壇も茶色と灰色になっていた。

門も木を打ち付けられバツ印の封印がされていた。

それでも分かった、正面から見える2階の窓に色あせたチェックのカーテンは私の部屋だった。

あそこで色々体験した。父と母の喧嘩、一人で夜空を見上げて怖くなって眠れなかったこと、酒乱だった祖父が真っ赤な顔で買ってきたたこ焼きを階段から部屋を覗き込みながら差し出してくれたこと、祖母がおにぎりを置いておいてくれたこと。

離婚して家を出た日の朝、あのバッテンされた門の前で号泣していた祖母、新聞紙に包まれたホカホカのたこ焼きを渡してくれた祖父の無表情な顔。


灰色の風景に、思い出だけが色鮮やかに蘇った。


画面を閉じて、もう私の帰りたいと思う場所は世界のどこにもないのだと知った。


43歳になった日のとるにたらない出来事だった。

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