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自己が状況依存的につくられること 1

なぜか課題がたまりにたまっているので(というか急にやることが増えたので)手短に書きたい。今日の授業の感想を。以前 月曜は「教育原理」という授業のことを毎週書こうとか言っていたようないなかったような.....。


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◎現代における自我の構造というのは、「ケータイ的な自己のあり方」である。(部分的であり、かつ親密でありうる)
→私たちはいくつかあるうちの1つの姿を相手に見せていることになる(お互いに)。その「姿」というのは相手によって変わってくる。
この前私が書いたように、相手によって変わる姿が「仮面」を被っているということになるのかはまだまだ定かではないが。

◎SNSは「わたし」という存在の"ありよう"を分割している。例えばツイッターで複数アカウントを持つこと。似たようなメンバーのライングループがいくつもあること。それらの数だけ違う「姿」がある。「顔」がある。


自己は状況依存的につくられている

状況の中で初めて「わたし」という存在が生まれてくる。わたしの「あり方」が生まれてくる。
=集団ごとに「キャラ」がつくられている。
わたしが状況を作っているのではなくて、そういう人間関係の状況を生み出しているのではなくて、「状況がわたしを規定している」。


"キャラ"は人間関係を透明化している

キャラを演じることで各人に役割が生み出される。キャラ(ある意味ではレッテル)が安定した人間関係を作り出す。
→それぞれに「キャラ」があった方がコミュニケーションが円滑になる。相手がどんな人か予測しやすくなる。

しかし、そのキャラはその人が本当に望んでいる「キャラクター」だろうか?その人はそのキャラを"演じている"だけではないのだろうか?
→人はキャラを演じてしまうことがある。何らかのキャラを持った他者を、レッテルを貼られた他者を、人は単純化して捉えすぎている。
→誰かのことを全て理解しようとすることなんてできるはずもない。


何となく自分に与えられた「キャラ」というのは窮屈だなと思う。私はキャラを「演じている」立場のことが多かった。だからこそ相手に関して「こうである」と決めつけないようにしたいなぁとは思う。その人の「キャラ」というのは、あくまで自分を含むその集団の中で現れたその人の一部分であり、その集団や周囲の状況から作られた"その人の在り方"なのである。
その人に対して持っているイメージが間違っていることの方が多いのかもしれない。あくまで他者が見せてくれている姿なんていうのは ほんの一部分であり、その人がいくつか持っている「顔」のうちの1つなのだろう、と思う。


キャラを演じている人はサイコパスなのだろうか?いつも違うキャラを演じている人は多重人格なのだろうか?
決してそうではないだろう。でも人は親しくしている相手ほど相手の知らない部分が見えた時に、それを知りたい、他の一面をもっと知りたいという欲求を持ってしまうのだろう。恋愛なんていうものでは特に。


大人は子供に対して「理解できないものの気持ち悪さ」を抱くことがあるのかもしれない。子供の"想像力"なんてものを、大人は理解できないのかもしれない、あるいは理解し難いのかもしれない。

あなたは他者に自分のことを理解してほしいと思いますか?与えられたキャラで生きている自分ではない、どこかにあるはずの"本当の自分"なんていうものを誰かにわかってほしい、知ってほしいと思いますか?

私はなんとなく私には理解し難い一面を持っている人の方が人として好きである。裏の顔がある方が人間らしいというか人間味があるというか.....そういうのとはちょっと違うかもしれないけれど、いくつもの顔を持っていて、いくつもの在り方を持っている人間の方がむしろ普通で、それが当たり前なんじゃないかと思う。
その事実を受け入れられない人たちも、一定数いるのかもしれない。


子供の想像力を理解できなくなった時、私は「大人」になってしまうのかもしれない。それならわたしは、ずっと子供のままでいたいような気がしている。



などと今日も色々考えているわけだが、明日につづく。
感想や共有は明日のnoteを待ってからにしてくださると嬉しいです。

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