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他者に何らかの" 答え"を求めているのか否か

過去のブログを掘り出してみよう第5弾。今日は2020年5月のお話。

きっかけはとある方からいただいた1つのコメント。

その時々にミモザさんの前に現れる人はメッセージを持ってきてるのかも?
というか、ミモザさんがなんらかの答えが欲しくて選んでるのかもしれませんね(^^)

ここからは自分が書いた文章。

「私が何らかの答えが欲しくて選んでいる」
という部分にハッとしました。

そこでこのブログ記事で考えたいことは以下のことです。
私は何らかの答えが欲しくて、自分に何らかの答えをくれそうな人を選んでいるのか。あるいは、探しているのか。
それとも、自分に出会ってくれた人はお互いに何らかの「選択」を繰り返して出会った人だから、その人と出会った意味を考えてその人から何かを吸収したいのか。


コメントしてくださった方がおっしゃるように、確かにもそうだと思うんですよ。
私は中高生の間は特に「先生」という大人が好きでした。そして「先生」たちから何かを吸収したいと思っていたし、何かを吸収できる能力を持った自分を追い求めていたとも思います。
自分に何かをくれる人を、くれそうな人を、自分で選んでいるのかもしれないです。

だってやっぱり「大人」が全員好きなわけではないですからね。
高校の頃はやっぱり大人が嫌いな時期があって、「サイレントマジョリティー」とかよく聴いていました笑「見栄やプライドの鎖に繋がれたような つまらない大人は置いて行け」っていう歌詞が好きでした。

一部の大人に対する反感があったからこそ、尊敬する大人からもらえる言葉や考え方は自分によく響いていたのではないか、とも思います。
そういう大人を探し求める目を、見る目を養いたいという気持ちは今も変わっていません。
もしかしたらもはや自分がもう半分大人かもしれませんけどね。
だからやっぱり、私が私に何かくれそうな人を選んでいるというのは、事実だと思うのです。


一方でです。すでに自分はその人と出会うための「選択」をどこかでしていたという考えです。
出会った人が自分に良い影響や良い考えを与えてくれる人かどうかに関わらず、その人に出会ったという事実に自分でどうにか意味を見出していこうとしている、ということです。
このコメントをもらった時、最初は自分は2かな、と思ったんですよね。
私は出会った人がどんな人かに関わらず、その人から何かを見出したいんじゃないかって。メッセージを汲み取りたいんじゃないかって。
理想は2なんですよね。相手を選ぶ能力より、相手から何かを汲み取る能力が欲しいです。

それに加えて最近「君の膵臓をたべたい」のアニメ映画を見たときに、
「私たちは皆、自分で選んでここにきたの。偶然じゃない。運命なんかでもない。
君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。
私たちは自分の意思で出会ったんだよ。」
という主人公のセリフに共感できた、というか「う〜〜〜〜ん」って唸るようなアレがあったんですよ。

伝わりますかね??笑
言葉が出なくて悶絶、というか....ハッとなって言葉が出ないというか.....自分が探していた答えが見つかった感じというか。言葉で表せない何かを感じたんですよね。
私が意図しなくとも選択を繰り返していて、相手も選択を繰り返していて。
その結果出会えたんだからきっと意味があったんだって自分がそう思いたいんですよね。
たとえその人が自分をどんなにか傷つけた人でも。


結局何が言いたいかというと、自分が相手を選んでいるにしろ、相手がメッセージを持ってきてくれているにしろ、自分が相手から何らかのメッセージを汲み取ろうとしているにしろ、このコメント1つでかなり考えさせられたということです。
そしてこれからも考え続けていきたいことの1つにもなりました。


最近少し思ったり思わなかったり何だけれど、私この頃の自分の文章が好き。この頃はもうnoteとブログの2つを両立して書いていたと思うのだが。noteに書いた文章よりもブログに書いた文章の方が鮮明に記憶に残っている。どちらの文章が"まだマシに"書けているのかということは別にして。


出会った意味ね〜。
恋愛とかで"この人は運命の人だと思う"と言っている友達を見ても素直に本当にそれは良かったね、と思えるけれど自分のこととなると話は別である。私は運命の出会いが仮に"ある"と思っていたとしてもそれを熱烈にその(運命を感じた)相手や周囲の親しい人たちに言うことはないだろう。運命の出会いをしたことがない?考えたことがない?からそう言えるだけかもしれないが。

引用でも触れているけれど、私は「相手から何かを汲み取る能力」を養いたいと思っている。ただこれを養うためには人との交流が欠かせない。この能力が十分でないままにオンライン化、コミュニケーションの希薄化が進んでしまったように感じている。
能力を養うには環境が多少厳しくなったと言えるかもしれないが、"その分やりがいが増した"と考えるのは単純すぎるプラス思考の人間になってしまうだろうか。



もしあなたなら1と2どちらですか。それとも3択目がありますか。



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