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1. あえて今、「校則がない」と言われる学校に通っていた話をする #みらいの校則


序章

また新しいシリーズを(前のシリーズ書き終えてないのに)始めようと思う。しかも明日からまた新しいシリーズを始める予定なのに今日も始めてしまう(笑)。

日記ばかり書いていたらアクセス数があまりにも落ち込んでしまったのが少しだけショックだったので。。書く時間を曜日ごと決めたりして頑張ってみよう〜〜っと。





お題投稿第1弾

今日から始めるのは「#みらいの校則」というお題投稿だ。
第1弾はタイトルの通り、「あえて今、『校則がない』と言われる学校に通っていた話をする」という中身にしていこうと思う。


私が通っていた某公立高校は、県内にいくつかある「校則がない高校」の1つだった。とはいえ一応自称進学校であり、それなりの進学実績もあるし歴史も長い。

さて、「校則がない」と言うと多くの友達はこちらがびっくりするほど驚いてくれる。その中でも特に「私服で通う」というところは特に驚かれるわけだが、服装に関する制限がないというのはかなり「自由」というイメージにつながるだろう。

私が行きたいと思っていた高校はどこも私服高校だったから、特に意外性はなかったけれどなぁ。
まぁ服装が自由なだけあって、卒業式も袴でも振袖でもスーツでもなくゴスロリやドレスの人がいるのが普通だったし、ジャージ登校の人もなんちゃって制服の人もいた。

他にも校則がないことの象徴をいくつかあげると、
・行き帰りに買い物していい(制服じゃないしコンビニとか入りやすい)
・ピアス開けていい
・髪の毛染めていい(茶髪くらいなら、文化祭の時は何色でも可)
・整列という概念がない(式典系は入学式・卒業式以外はただ体育館の好きな場所(床)に座る)
・便所サンダル(校内上履きの事)を裸足で履いてもいい
・お菓子持ってきていい(授業の合間、デブ活してた)

があるだろうか。。。自由が当たり前すぎて、きつい校則ってなんだっけ?と感じる時期だったと思う。


自由とそれにともなう責任

高校時代に大人は良く「自由には責任が伴うんだから」と言っていた。
もちろんそれはそうで、文化祭等もかなり自由に企画を考えられたり、修学旅行が半分以上自由行動だったり.....そういうことにはいつだって「責任」というか「自己責任」がともなった。

先生の手に負えないようなことをしてしまった時は驚くほど怒られていたし、あまりにも奇抜なことをやろうとすると「ただでさえ自由にやらせてあげているんだから」と先生の大反対をくらうこともあったと思う。



ルールは自分たちでつくり、変えていくものだった

でも今思うと「校則がないことが自由につながっていた」というよりかは、「ルールを自分たちで作ったり変えたりできる環境が当たり前にある」ということが自由につながっていたのではないかと思っている。

校則がない=ルールがない=ルールを作っても良い
という方程式は成り立っていたと思うし、正式な名前は忘れたがうちの高校にはいわゆる"目安箱"のようなものがあって、誰でも意見を(どんな形でもいいから)届けようとすることができた。

もちろんA4の紙に文章をカタカタ打ったものを投稿しても良いし。
巨大な模造紙に手書きで書いても良いし。(生徒会の人が貼り出してくれる)
全校生徒で話したい議題があれば いわゆる"討論会"を(いくつか条件はあるが)大概の場合は開くことができたし。


こういうことがますます「自由」につながっていたんだろうな。
実際上であげた3つはどれも3年間通っていた中で起きた出来事だったし、私も討論会で全校生徒の前で自分の意見を述べたことがある。


結構ハードな議題を持ってくる人が多い
(例えば いくら校則がないからって髪の毛をあまり派手な色にするのはどうなのか?とか、生徒会役員の〇〇さんの発言は学生代表としてどうなのか?、みたいな。)
ということもあって、結構生徒同士でバチバチしたし これで部活に行けないことも多々あった。一応自由参加ではあるけれど、
自由に責任がともなう以上、「自分たちで学校を作っていく」という意識がある場合、参加せねばと考えてしまう気持ちがあったように思う。
そこで突然重要なことが決まるというわけではないけれど、先生方も足を運んでくださるような"ちゃんとした場"ではあったのだ。



もしかしてこれが必要なのは「会社」という場所なのかも

今就活をしている中で当時の自分を振り返って思うのは、
「もしかしてこれって、会社にも必要なことなんじゃない?」ということだ。

全員がフラットな立場で議論ができ、手をあげさえすれば何を言ってもいい(もちろん最低限の常識は必要だけれども。)。
そして何より、自分の考えを1度で多くの人に届けることができる。
そもそも議論(会議)の場を設定することを提案することができ、それを誰かに拒否されることが基本ない。

当たり前のようで当たり前ではなかったのかもしれない、今だからこそそう思えるのかもしれない。



最後に

少しまとまらない感じになってしまったけれど、「自由すぎて不自由」を感じるのが大学のような気もしていて、「自由すぎて責任から逃れられない」のが高校のように感じる。

そしてわたしは、「わたしの自由」を「誰かの自由」と繰り返しすり合わせていき、それが何度も積み重なって 1つの"組織における「自由」"ができるのかもしれない、とも今は思っている。



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