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さよなら東京。ようこそ、鹿男なお父さん

 父が福井から、東京へ行くらしい。

 母からそう聞かされた時、「ああ、またか」と思った。

 父は、大手企業に勤務するサラリーマンだった。父が勤めていた会社では、2〜3年おきに転勤がある。

 数年前に、ローンで家を購入してしまったこと。その他にも、子どもたちの進学などを理由に、家族は父の赴任先へついていくことができない。そのような理由から、父のみ単身赴任であちこちを転々としていた。

 私と父は、普段からあまり会話をしない。仲が悪い訳じゃないけど。父は仕事で帰りも遅いので、家にいることも少なかったように思う。

 普段から話をしないというのもあるが、父から東京の話を聞かされたことは一度もない。父の様子は、いつも母から聞かされていた。

 母から聞かされる「東京の父、近況報告」は、いずれも耳を塞ぎたくなるものばかりだった。

 職場には、京大東大卒の部下だらけで、見えない圧が凄い。宅建を、絶対に合格しなければならないという職場からのプレッシャーが怖い。

「○○さん(苗字)、まだ試験受からないんですか。ぼくが教えましょうか?」と声をかけられるが、どうも舐められている気がする。父はその都度、なけなしのプライドを盾にして断っていたそうだ。

 試験受からなきゃ。でも、どんなに頑張ってもなかなか受からない。

 飄々とした様子で合格していく、自分より随分と若い部下たちの存在が、父にはどうも眩しかったそうだ。

 東京の職場で父が配属されたのは、経理部。父はあいにく、お金の計算ができるタイプではない。

 家族に「大丈夫なの?あなた、できるの?」と聞かれると、「俺はハンコを押してるだけや」と、淡々とした口調で返答した。

 父は、何事も気にしない人だった。いや、本当は気にしていたかもしれないけれど。それを人に見せようとしないタイプ。

 人から小馬鹿にされた態度を取られても、「ふぅん」と切り返す。ちょっと、こめかみをピクピクとさせながら。

 父にとって、職場で「いい人」と見られることは誇りだったそうだ。でも母からすれば、ただの優柔不断だと、いつも眉根を寄せていた気がする。

 東京では、同僚から飲みにもよく誘われたらしい。お酒が好きで、誘われるとノーが言えない父。おまけに東京は、地方より飲食代も高い。だから、家計簿がどんどんマイナスになっていく。

 挙げ句の果てに。職場の人に誘われたお店が、まさかのぼったくりバーだったということもあった。

 煌びやかな街の中で、父は必死に踠いていたのだろうか。母から聞く「父の東京物語」は、いずれも世知辛いものばかりだった。

 そんなある日、父が東京を離れると母から聞かされる。

 理由を尋ねると、どうやら後輩の失敗を父が被ったとか。東京の優秀な人たちとお父さんは、上手くやっていけなかったなどなど。結局、どれが本当の理由かわからない位に、色々聞かされた。

 まぁ、理由なんかどうでもいい。いずれにしても、父は東京で上手くやっていけなかったのだろう。

 次の赴任先は、奈良。経理から一転。今度は、工場で作業員として働くこととなる。世間一般では、左遷と呼ばれるのかもしれない。

 父は落ち込むどころか、意気揚々としていた。むしろ「また、働かせてもらえる」と、嬉しそうだった気がする。

 奈良へ赴任してからの父は、どこか生き生きとしていたように思う。奈良に行ってからは、朝早く起きて毎日、奈良公園を散歩する。公園では、鹿と戯れるそうだ。

 鹿と触れ合っていると、どうも嫌なことを忘れられるらしい。鹿との時間が楽しいから、奈良にずっといたいそうだ。

 時折家に戻る父は、嬉しそうに鹿について話しながら、頬を緩ませていた。

 東京では色々あったけど、居場所が見つかって父は嬉しそうだった。その後、父は同じ工場で退職出向後も働き続けることとなる。家族より、鹿と触れ合う時間の方が長かったんじゃないだろうか。

 出向を終えて家に戻ってからも、「ちょっと、散歩してくる」と言って、2時間ほど戻ってこない。奈良の散歩習慣が、そのまま身についたのかもしれない。

 父は、今でもずっと健康で風邪も引いたことがないそうだ。散歩の習慣が、健康にもしかして効いているのかも。

 そんな父は、健康に対してかなり強気だ。

 母に「あなた。遺影の写真も、事前に用意しておかなきゃ」と言われても、「俺は死なんから大丈夫や」と切り返す始末。

 出世はできなかったけど。父は、奈良の赴任先で、健康という最強の武器を身につけたようだ。鹿と自然の力は偉大だと、つくづく思う。

 会社を退職した父は、ようやく自由を手に入れた。大した会話はしてこなかったけど、あの人が働き続けてきたからこそ、私は今こうして生かされているのだと思う。

 父にはこれからも、散歩や自然との触れ合いを楽しみつつ長生きして欲しいものだ。

#上京のはなし

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