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ななちゃんといた街

私はこの街が好きだ。
この家に引っ越して来てから、よくベランダに出て空を眺めるようになった。私の家は、国道246と並行する旧大山街道添いに面していて、住宅地の中にもいくつもバーやお店が並び、ベランダに出ると人の息遣いが感じられる。
みんなが家にいるとどこか独りで住む自分の孤独を感じてしまう。
でも、ここは誰かが道を歩いていたり、飲みに出ている人の影、人の生きている営みが感じられる気がして、寂しさを感じさせない。
私は、特に、夏の終わりの頃の日曜の夕暮れ時、ベランダに出て広い空を感じるのが好きだった。

おねえちゃん、げんきにしてますか?
わたしは、おばあちゃんとたのしくしています。
おねえちゃんとわかれてからいちねんたちました。
あのときは、おねえちゃんが、よるひとりでねむるまえに「ななちゃんがいない」といっては泣き、あさおきて「ななちゃんがいない」といっては泣き、おしごとからかえってから「ななちゃんがいない」と泣いていたのをおばあちゃんとみてました。おばあちゃんは、ときどき、わたしのおやつをまちがえてたべちゃいます。そういうときも、おばあちゃんはわらってます。
いまは、ほごけんといっしょにいて、おねえちゃんが寂しくないのもしっています。
でも、あのこ、おもうんだけど、おきゃくさんがきてもかくれちゃうし、
しっぽもふらないし、おきゃくさんにこんにちはともいえなくて、
それはほすととしてどうなのかとおもってます。
おさんぽにもこわくていけないみたいだけど、あのこ、大丈夫なの?

私は、2年前にこの街に、老犬のななちゃんと引っ越してきました。
ななちゃんは亡くなった祖母の犬で、94歳の祖母と二人で暮らしていたため行き場がなくなり、一人で暮らす私に白羽の矢が立った。
ななちゃんは、その1年前に癌が宣告されていて、祖母が倒れた時にはペットホテルに預けられたまま、本人も捨てられたと思ってしまったのか、ご飯も食べれず歩けなくなり、フラフラな状態になってしまっていた。
みんな、ななちゃんがもうダメかと思ったけれど、祖母が自宅療養となった時迎えに行ってからは奇跡的に復活して、色々な人に可愛がってもらうようになった。

ななちゃんは、きっと、動けなくなった祖母の異変を感じながらも、祖母の友人に預けられたり、病院に預けられたり、私と暮らしたり、色々な人のところを転々として、本当に優しい人たちに愛された。

私の両親は離婚していて、私は母に育てられたのだけど、父方の祖母が倒れた時には、動けるのが私しかいなくて、祖母がなくなる最期の半年間、私が介護をすることになった。
離婚をしていても、私は祖母が好きだったし、なんと母と祖母は大変に仲が良いという珍しい元嫁姑関係で、私が一人で大変なときは、母もよく泊まり込みで祖母の看病に来てくれた。祖母も母も、過去の禍根を引き摺らないタイプなのだろう。

何年か前に、父方の祖父が亡くなった時、お葬式に出席した母に向かって、祖母は
「どうしても親族席に座って欲しい」
と譲らなかった。
母が、いえ、私はもう佐藤の人間じゃないのでと固辞すると、
「離婚しても、あなたは私とお父さんの娘なんだから、親族席に座って欲しい」
と言われると、母もその言葉に感動して、親族の一員として参列することになった。
母は、その時の言葉をずっと忘れられないと言う。

私と祖母は食いしん坊で、二人とも食べるのが大好きで、元気な時は「美味しいね。美味しいね。」と言いながら一緒に食べるのが大好きだった。

祖母の最期は賑やかだったと思う。
祖母の友人たちと私が、シフトのように泊まり込みに行く。看護師さんやヘルパーさんが1日に3回ずつ訪れる。歩けなくなっても、最後まで朗らかで明るくて、私は、最期に一緒に過ごせた半年間、
今まで一緒に過ごせなかった月日を埋めるようにして祖母と沢山お話ができた。

祖母は、軽い脳梗塞が原因で転ぶようになり、病院で検査をすることになると、そこから「絶対安静」と言われてしまい、その後、自分の足で歩けなくなった。
もうすぐダメになりそうな所まで来たけれど、父が無理やり祖母を退院させると、少しずつ元気を取り戻して、歩けはしないものの、喋ることは出来るようにまでなった。
でも、きっと、大好きだった美味しいものが全く食べられなくて、すごく辛かったと思う。

誤嚥性肺炎に何回かなってしまったところで、胃瘻手術をすることにした。
祖母は、手術の時、訪れた担当医の先生に「何かありますか?」と聞かれると、
「この子の姉になるのですが、孫がハワイにいるので、手術が終わったら、
ハワイで住もうと思います。」
と言っていて、お医者様は、よく聞き取れないけどなんかハワイと言ってるし、「はぁ…」という感じで、私は必死に笑いを堪えてた。

おばあちゃん、元気になったらハワイに住もうねってその前に沢山お話してたからね。

祖母は、胃瘻の手術は成功したものの、その後、心筋梗塞になってしまって、手術から2週間ほどで帰らぬ人となった。父が出張から帰ってきた翌日、病院に父が来るのを待っていたように、父が手を握ると、笑ったような顔をして亡くなりました。

きっとね、おばあちゃん食いしん坊だから胃瘻なんかで生きていくのつまらなかったんだよね。

その頃、病院の敷地の外れには見事な綺麗な藤の花が咲いていて、
まだ時々肌寒さが残る4月のことだった。

おばあちゃんは行ってしまって、ななちゃんと私は残された。

祖母が倒れた後、父は駅前に介護用のマンションを借りて、元いた家は古くて駅から遠い、40年以上祖母が住んだ家だったので、そこを取り壊すことにした。近所の人は、突然、祖母が家に戻らなくなったので、とても心配してくださっていたらしい。
私は、祖母が亡くなると、ななちゃんを連れて、最後に、ご近所の皆さんにお礼とお別れの挨拶に回った。

そこで、私は初めて知った。
祖母はこんなにも人から愛されていたんだなぁと。
「いつも、佐藤のおばあちゃんには助けられてました。子供たちが小さい頃はよく面倒を見てくれて」と言って泣いてくださる方や、
「佐藤さんのお家で咲いていた綺麗な藤を、お家が取り壊しになる前にこっそり頂いたんです。おばあちゃんが育ててたお花をどうしても残したくて」と言ってくださる方。
ああ、祖母が愛した藤の花を残してくださった方がいたなんて!!
祖母が40年暮らしたこの地で、その藤の花がずっと咲き続けるなんて、
きっと祖母も喜ぶと思います。
「ななちゃん、元気でね」
皆さん、ななちゃんにお別れを言ってくれました。

祖父と祖母が暮らした場所。
家がなくなると、まるでそこには何もなかったかのように、家族の歴史も全て消え去ってしまったような気がした。全く縁のない場所になってしまった。
それでもそこに、毎年、祖母が残した藤の花が咲く。

ずっと、祖母の看病を支えて下さった祖母の友人は私に言った。

「みっちゃん、辛いかもしれないけれど、ななちゃんを最期まで見ることが、おばあちゃんへの供養なのよ。」

私とななちゃんは、職場にも近いここで二人の生活をスタートさせた。
昼の休憩時間に家に帰って散歩をさせて、また会社に戻れるように。
何かあった時にもすぐに家に戻れるように。
それまで犬を飼ったことのない私は、訳も分からず老犬との暮らしを始めることになった。

初めて引っ越してきた日の記念撮影。

ななちゃん、ごめんね。
仕事から帰ったらななちゃんがゴミを漁って、部屋中に散らかしてた時に大きな声で怒鳴ってごめんね。
しょっちゅう夜出かけちゃって、遅くまでお留守番させることもあってごめんね。
夏の暑い日に、散歩に連れて行っちゃって、ななちゃん初めて悲鳴をあげて倒れさせちゃってごめんね。
もっと一緒にいたかったのに、しょっちゅう旅行に行っちゃってごめんね。

ななちゃんは、社交的な祖母譲りか、お散歩に出るのも大好きで道端で人に声をかけられると嬉しそうに尻尾を振っていた。誰にでも愛想がよくて気散じの良い子。
不思議なのは、祖母が亡くなってしばらく、ななちゃんの表情が祖母にそっくりで(老犬だったかもしれないけど)、なんだかななちゃんに祖母が乗り移っているようだった。

ななちゃん、14歳。癌と戦いながらよく生きてくれた。

社交的なななちゃんのおかげで、私は街の人とも仲良くなることができた。
ななちゃんはお散歩に出ると、なぜか毎回じーっと立ち止まって中を見ている串揚げ屋さんがあって、そこの女将さんが出てきてくれるようになった。
聞いたら、そこの女将さんもシーズーを飼っていて、ななちゃんによく似ているという。
私は、「ななちゃんのお母さん」として、女将さんと仲良くなった。
そして、ななちゃんが老犬で、癌があり病院に通わなくてはいけないというと、何かあったときのためにと言って、動物病院を紹介してくれた。
その時に紹介してもらった先生が、ななちゃんがなくなるまで親身になって治療をしてくれることになった。

ななちゃんはお散歩が大好き。私が靴下を履くのを見ると、お散歩に行けると思って、すぐ玄関に走り出す。
祖母の看病をしていた頃は、全然お散歩行きたくなさそうだったのに、ここに引っ越してからは、この街が気に入ったみたいだった。
タッタッタッタとななちゃんは走る。楽しそうに風を切るように。

ある日、ななちゃんが倒れてしまった。
頻繁に発作を起こすようになってしまって、食べ物も食べられないようになった。
ななちゃんは食いしん坊だから、いつも私が食べている横で、自分にも下さいと吠えるような子だったのに、大好きなオヤツも食べないようになってしまった。
病院に連れて行くと、無理やり注射をさせられた時にまた発作を起こして倒れてしまった。

先生、この子、苦しそうだからやめて下さい!!

私は、心の中でこう叫んだ。
ななちゃんが行きたくない病院に行くのはどうなんだろう。
私はいくつか病院を探して悩んだ結果、ななちゃんのお友達の串揚げ屋さんが教えてくれた病院に行ってみることにした。

先生は少し偏屈で、私が待合室にいる間にも、泣きながら出てくる飼い主さんがいた。ドキドキする。。。大丈夫かな、先生。

ななちゃんの番になって診察をしてもらい、この子がもう2年近く前から癌を宣告されていること、祖母が飼っていたのだが、亡くなってしまったので私が暮らすことになり、この街へ引っ越してきたことを説明すると、
「普通は主治医の先生がいるものだから、途中からは見ないのだけど、特別な事情なので良いですよ」と言って、先生がこれから診察してくれることになった。

ななちゃん、よかったね。ななちゃんはすごいね。自分のお医者さんも自分で見つけてきたんだね。

それから、ななちゃんは食べ物も少なくなり、少しずつ体力を落としていった。
私は、弱っていくななちゃんを見るのが辛くて、
ななちゃん、無理しなくていいんだよ。
と、何回も語りかけていた。

でも、今になって思う。
私が悲しいのに耐えられなくてそんな弱いことを言ってしまっていて、本当はもっともっと希望を持ってななちゃんを励ましてあげればよかった。
もっともっと、ななちゃんのそばにいて、私が強くいなければいけなかったんだ。

ななちゃんは頻繁に倒れるようになってから3ヶ月間、少しずつ体力が衰えながらも最後の力を振り絞って生きていきました。
ななちゃんのお医者さんは、ななちゃんが食べられなくなると、毎日注射器でミルクを飲ませてくれて、最後には先生の飼っているパグちゃんから輸血をさせてくれて、最後の最後の1週間、私たちの時間を作ってくれました。

私の勤めている会社のボスは、愛犬家で、事情を話すと自宅で作業をして良いと言ってくれ、私は毎日、朝ななちゃんの病院に通い、少し会社に出社した後は、なるべく自宅にすぐに戻ってななちゃんの様子を見ることに。
下痢が止まらなくなって、オシメをしながら様子を見る日々。
今日は水が飲めた!今日は少し元気そうだね!
ななちゃんは、祖母とはベッドで一緒に寝ていたけれど、私のベッドでは寝ようとしなかったので、私は床に布団を引いて、少しでもななちゃんのそばで眠りました。何かあった時すぐに気がつけるように。

そしてある日、ななちゃんは水も飲めないようになりました。
もう動かしてあげるのも可哀想だから、その日は病院に電話して相談して、ミルクを飲ませてもらいにいくのもやめました。

ちょうど、その時、ななちゃん用のおしめがなくて、祖母の看病で使っていた人間用のオシメを、母がななちゃんに何かあった時使えるからと家に置いていたのを思い出し、もう自力では動けなくなったななちゃんのお尻に敷いていました。
ななちゃんはある時、ものすごく大きな呼吸をしたかと思うと、
私の手の中で、息を引き取りました。

ななちゃん、ありがとう!お空に、ピューッと駆けておゆき!!

私は大きな声でななちゃんに伝えた。

ななちゃん、ななちゃん、ありがとう。
ななちゃん、大好きだよ。

しばらく私の腕の中でななちゃんを抱いていて、お別れをした後、そういえば最後にななちゃん下痢してたなと、おばあちゃんのオシメを外して見ると、

そこには、ななちゃんの下痢が、大きなハートマークになっていました。

ななちゃんの大きな愛があった。
私は、泣きながら、うんちでできたハートマークをみて、また泣いた。

ななちゃん、最後に私にラブを伝えてくれたんだ。
笑いながら泣いた。

しばらく泣きじゃくり、ようやく落ち着いて呼吸ができるようになってから父にななちゃんが亡くなったことを伝えると、しばらくすると大きな花束を抱え、しかも、大音量のスピーカーでボサノヴァをかけながら登場した父。

何だコイツは・・・??

そうは思ったけど、私は泣きじゃくった後で頭もぼーっとしているし、流れるボサノバを聴きながら、ななちゃんがどうやって亡くなったかを父に話した。
お母さん、あなたが離婚した理由がわかります。。
空気の読めない素っ頓狂な父親だけど、父が帰ると、ボサノヴァの音楽も消えてしまって、
何だかあれはあれで、良かったのかもしれないとも思った。

ナナちゃんはたくさんのお花に囲まれて、よく二人で散歩した世田谷公園近く、葬儀車の中からお空に駆けて行った。
お骨は、祖母が眠る鎌倉のお寺の動物のお墓の中にすぐ納めてあげて、
おばあちゃんとやっと会えたねと、祖母の友人と一緒に見送りました。

これで、私のおばあちゃんへの供養が終わった。

ななちゃんと私の1年と3ヶ月はあっという間に終わってしまった。

私は来週、ななちゃんと一緒に暮らしたこの街から引っ越しをする。
おばあちゃんとななちゃんを通してたくさんの人に出会えたこと、
この街で沢山の出会いや、大きな別れがあったこと、
私はこの街が大好きだけど、引っ越しをすることにした。

私は、またいつかこの街に戻ってきたいと思う。

その時は、今よりももっと大きなベランダのある家で、
大好きなこの街の夕暮れを感じたい。

少しずつ時は経ち、人は変わっていく。
でも、私はここでななちゃんと過ごした優しい時間を忘れたくない。

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