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哲学:現代思想の問題点⑤最後の神

§5 理性の限界、神への信仰、心の光
 
これまで、カント、ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン、そしてゲーデルを見てきた。
 
 彼らはキリスト教徒で、神を信じていた。無神論者ではない。だが特に前三者は、その著作において、理性主義を推し進め、人々を、神や霊魂や霊界から、遠ざけるような事ばかり言っていた。これは彼らの罪だろう。
 
 結果、神や霊魂や霊界などは、学問で扱わないというカントの提案は、多数決で通った。これが現代だ。そして人々は、「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」と考えるので、理性を信じるようになった。また「語りえぬものについては、沈黙しなけなければならない」というお作法も誕生した。常識だ。マナーだ。
 
 現代と時代が異なり、共産主義国家など、信仰心を持つ事を前提としない社会が多数出現する事は、彼らは想定していなかったのかも知れない。だがドイツ観念論から、共産主義も生まれている。やはり理性の落とし子だ。
彼ら三人とも、フランス革命を見て、革命の本質が暴力で、理性がその刃だったと気づかなかったのか?
 
 ヘーゲルは若い頃、馬上のナポレオン(注47)を見て、「世界精神が行く!」と叫んだ伝説が伝わっているが、フランス革命と皇帝ナポレオンは別々で、分けて考えていたのか?はたまた連続性があると考えていたのか?ナポレオンが革命を乗っ取って、帝政を始めたので、独裁者の問題点が見え難くなった事は、否めないかも知れない。
 
 理性主義は、革命を生み出し、暴力を広げた。そして今やAIによる管理社会、未来社会ディストピアが迫っている。この状況下で、必要なカンウター・パワーは何だろうか?霊性だろう。スピリチュアル・パワーだ。
 
 人間に必要なのは、インテレクチュアル・パワーと、スピリチュアル・パワーだ。理性と霊性の両方が求められる。この相反する二つの力の融合と、バランスを保つ事が、次の文明、次の千年紀を切り開く。現代文明は、理性主義を突っ走る限り、行き着く処まで行き着く。伝説のアトランティス大陸のように、滅びるだろう。
 
 アトランティス最後の一千年は、ポセイディアと呼ばれ、理神論が言論として支配していた。詳細は分からないが、これはドイツ観念論と近似値的なものだったと考えている。アトランティスは、理性主義に陥り、最後とんでもない力を手に入れて、自滅した。これは主に、英語圏に伝わる話を拾い集めて、再構成している。
 
 理性主義は、最高概念を求める。そこから演繹して、物事を考える。原理原則を立てるのは、理性主義の常だが、これが問題を起す。理性主義が立てる最高概念は、例えば、国家主権(領土保全)であり、国際法(侵略禁止)であり、人権(生存権)だ。だがそれぞれ、最高を主張し合うので、コンフリクトする。システムエラー、戦争だ。
 
 そしてお互い最高だと言い合うので、妥協の余地がない。結果、力と力がぶつかり合う世界が出現し、勝者が敗者を裁く歴史が展開する。そこに正義はあるかもしれない。だが愛はない。だから人類の幸福という観点から、この理性主義の落とし子たちを、見直さないといけない。和解とか許しが、この理性主義を克服する。

 2020年代の状況を見ていると、これが力の星と言わず、何の星と言えるのか。ジャングル・ローが支配する密林と大して変わらないだろう。行き過ぎた理性主義は、必ず残虐に堕ちる。これは何度も見て来た筈だ。では理性を抑えつつ、霊性をと言うが、どうすればいいのか?霊性とは何か?それはまず、目に見えないものを信じる事から始まる。

 目に見えないものを見、耳で聞こえないものを聞く。矛盾しているが、これが霊性の第一歩だ。目に見えているものを見、耳で聞こえるものを聞いているだけなら、何の苦労もなく、何の矛盾もない。ただの日常だ。
 
 理性もある種、目に見えない抽象的なものを扱う。理性は時間軸で、抽象的なものを捉える能力だが、霊性は空間軸で、非感覚的なものを捉える能力だ。肉体の感覚器官で、捉えられないものを捉える能力だ。
 
 高い理性と、広い霊性を兼ね備えた人。それは仏陀、キリスト、孔子、そしてソクラテスなどが代表例だろう。スェーデンボルグも付け加えてもいい。この人は近代人なので、比較的よく分かっている。高い理性と広い霊性のバランスが取れている。科学者だが、ややスピリチュアル・パワーの方が強いかも知れない。

 ヘーゲルは理性だけで、絶対知にまで届いた凄い人だが、スピリチュアル・パワーがなかった訳ではないと思う。むしろ潜在的には、大きなスピリチュアル・パワーがあったと思われる。そうでもないと、あの哲学は説明が付かない。ただそれが顕在化しないで、人生が終わっただけだ。これは時代もあるし、本人の使命もあるのだろう。

 もしヘーゲルに、霊性が芽生えて、スピリチュアル・パワーも爆発したら、とんでもない事になっていたと思う。限りなく仏陀に近づくだろう。凡人から見たら、どっちも凄すぎて、差なんて殆ど分からないだろう。
 
 シェリングは、少しスピリチュアル・パワーがある人のように思える。それはこの人の晩年の写真を見てそう思ったのだが、彼の目の輝きは、明らかに星がある。あと著作で、知的直観という事を繰り返し言っていたが、とにかくハッとさせられる鋭い言葉が多く、読んだ後、痺れるような快感がある。ソクラテスのシビレエイと同じだ。
 
 特にこの人の10代は、可能性の塊だったと思う。あまりに優秀過ぎて、大学の教授たちが、自分たちで手に負えない研究を、10代のシェリングに任せる程だった。古代ユダヤ教におけるエロ―ヒム研究がそうだが、語学的にその能力を持っていたのが、当時は10代のシェリングだけだったと言うから凄い。どれだけ光輝いていたのか。

 元々高い理性を持っていた人に、ほんの僅かでもスピリチュアル・パワーが混じると、一種の化学反応が起きて、知的爆発が始まる。元々相反する力が混じるのだから、爆発して当然である。とにかく、人から見て、「なぜそんな事が分かるのか?」「なぜそんな事が言えるのか?」「どうしてそんな事を思い付いた?」と言われるようになる。
 
 インテレクチュアル・パワーにスピリチュアル・パワーが混じり始まると、人は人を超え始める。仏教で言う処の観自在の始まりだ。最低レベルであるが、これはそうだと思う。恐らく、次の文明では、理性の高みと、霊性の広がりを持つ人間が求められる。だから次の千年紀は、今の現代人から見たら、超能力文明にしか見えないかも知れない。

 ただ霊性を磨く事に問題がない訳ではない。インテレクチュアル・パワーが落ちて、頭の弱い人間が出来上がる。理性的な人間ではなく、ちょっとおかしい人間が出来上がる事もある。社会的に生きる事ができない人が出来上がる。これは問題だ。だからインテレクチュアル・パワーも鍛えないといけいない。バランスが大事だ。
 
 ただこの二つの力は、相反する力なので、統合が難しい。殆どの人ができない。どっちか片方の人はいる。現代人は平均的に理性を重んじるので、そちら側の人ばかりいる。霊性の人は少ない。ただ霊能者というのも、結構問題がある。理性が低いので、物事を論理的に考える事ができない。複雑な物事の因果関係が解けない。
 
 霊的に何か見えても、そもそも頭が弱ければ、話にならない。だから現代では霊能者は馬鹿にされる。故に最初は、理性を鍛える方向で良いと思う。文系であれば語学、理系であれば数学だ。実学であればITか。だがどこかで、霊性にシフトしないと、理性の人になる。悪ければ、偏差値人間か、学歴人間か、肩書人間か、高収入人間になる。
 
 ここに宗教の問題もある。だが現代の宗教の99%はおかしい。伝統宗教であっても、もう病気治しもできないものが大半なので、神秘性を失っている。カトリックだけまだ死んでいないが、何かしら信仰心がないと、霊性は出て来ないだろう。山に籠って断食でもやれば、霊性は出て来るが、推奨はされない。少なくとも仏陀は否定している。
 
 大乗的であれば、伝統宗教で、小乗的であれば、個人修行となるが、現代ではどちらも危ない。安全な方法は、意外と読書にあるのではないかと思う。とにかくよい本を読む。できれば数か国語で。しかも同一の本を。徹底的に。これだけでも霊性は出て来る。本人は理性の人のつもりだが、いつの間にか、スピリチュアル・パワーも出て来る。
 
 無論、前提として、目に見えないものを信じ始めるという最低レベルの信仰心は必要だ。
 
 そしてもし、夜に見る夢の内容が変わってきたら、それは兆しだ。夢から霊性が目覚める。様々な世界と繋がり、本当の世界を垣間見る。現象界では体験できない叡智界の経験だ。最初は忘れてしまうが、徐々に夢の内容を覚えているようになってくる。そうなると、起きている時に見ている世界の見方が大きく変わってくる。霊性の開花だ。
 
 特に、他の人と、夢の共時性が起きて来ると、夢の中で、様々な人と会えるようになる。その中には、もう一人の自分もいる。これがガーディアン・エンジェルと呼ばれる存在だ。人の夢にも出て、勝手な事も言うが、6割から8割程度、自分と同じ考えなので、否定できない。無意識で考えている事が出て来て、把握できるようになる。

 また薄っすらでもいいので、信仰心があれば、霊性が開けてくる。神は信じた方がいい。これは本当だ。だがカントの提案を受け入れて、ヘーゲルみたいな事を言って、ウィトゲンシュタインみたいなマナーを身に付けてはダメだ。それが現代的で、格好いいかもしれないが、理性主義に陥って、動物以下の存在になる。
 
 人間は、動物と違って、長い時間、記憶や感情を維持できる。これは動物が文明を造れず、人間が文明を造れる秘密だ。動物は、長い時間、記憶や感情を維持できない。忘れる。喧嘩した猫たちは、五分後に和解する。人間は良くも悪くも、ずっと覚えている。だから社会的な行動が取れる。すぐ忘れる生物は、社会性が保てない。
 
 だから人間は、動物よりも堕ちる事ができる。長い時間、覚えているという事は、悪い方向に転べば、動物の比ではない害が生じる。だから地獄界もある。恨みをずっと忘れない世界だ。もし見る夢が、いつもそういう世界なら、気を付けた方がいい。何か悪い事を長い時間、想い続けているから、そういう世界に行く。悪夢の世界だ。
 
 忘れる力も必要だ。理性が強くなると、記憶力も強化されて、中々忘れなくなる。恨みが出る。だが霊性の人は心が広いのか、ちょっと抜けている。だから恨み心も、時間が経つと消えている事がある。不思議だ。少なくとも理性的な人よりは、人生が楽かもしれない。とにかく行き過ぎた理性主義は、人を幸せにしない。
 
 理性を重んじると、幾つもの道筋が見えて、可能性の世界が広がるので、論理的に在り得る道なら、何でも選ぼうとする。その結果、社会的に、道義的に、非難される事でも、平気でやるようになる。現代だ。理性を重んじると、道徳性が下がる。モラルがなくなる。ずるい事を平気でやるようになる。理性は自己中心の道を選び易い。
 
 カントの信念では、道徳は必ず宗教に至るだが、その大前提として、理性的な人間は道徳的であるというものがあるが、これは本当にそうか?むしろ、理性であれこれ抜け道を考えて、狡い事をやるようにならないか?論理的に成り立つなら、何でもやるのが理性の特徴だ。道徳的である筈がない。カントの信念は、世知が足りない。
 
 またカントの提案は、狡い人にとっても、非常に都合がいい。神様も、霊魂も、霊界も全部隠れてしまう。
 
 カントは、純粋理性で捉えられないから、神や霊魂や霊界は学問で取り扱うべきではないと提案した。だがこれが本当の学問の姿なのか?真摯に世界と向き合うなら、そこに必ず神秘はある。解き明かせない謎はある。それらを前にして、純粋理性で捉えられないから、取り扱わないというのはどうなのか?大切なものを見落していないか?

 ドイツ観念論の中でも、シェリングはやや反発して、知的直観で、捉えようとしている。カントは超えられない溝のように設定したが、人間はそれを飛び越えられると主張した。最終的には、ヘーゲルが出て来て、全部塗り替えたが、誰も付いて、来れなかった。ヘーゲルの理性主義は別格で、あまりに超絶していた。誰も真似できない。
 
 次の千年紀は、このカントの提案を見直す事から始まるだろう。新しい学問は、ドイツ観念論の上には作れない。良くも悪くも、現代文明は、ニュートンとカントが立てた理性主義でできている。アインシュタインもこの延長線上にいるが、彼の相対性理論(注48)が破れる日が来るだろう。それは宇宙人の存在と、その来訪がその日となる。
 
 相対性理論は、光を超える速度はない前提で作られている。だが短い時間で、広大な宇宙空間を渡らないと、人間の短い人生では、とてもじゃないが、時間が足りないので、渡れない。だが宇宙人がいて、遠い星から渡ってくるなら、どうしても光の速さを超えないと、旧約聖書のメトセラでもない限り、それは不可能な話になる。
 
 アインシュタインに従えば、相対性理論はワープの可能性を否定しているが、ブラックホールの存在は認めている。ここに理論の綻びがあるような気がする。ブラックホールがありで、ワープがなしというのは、本当か?理屈に合わないような気がする。どちらも重力に関係している。ブラックホールは極限に重く、ワープは極限に軽い。
 
 同じ現象の表裏ではないのか?そのうち誰か解き明かすだろう。
 
 なおゲーデルも、アインシュタインの相対性理論から、ゲーデル解と呼ばれる回転宇宙モデルを解いている。この宇宙モデルは、時空が回転するため、宇宙の歴史が周期的に繰り返される。過去と未来の区別が付かない。故にワープが理論的に可能だと言われている。またもやゲーデルである。この人の仕事は本当に凄い。一体何者か?
 
 なおアインシュタインは、このゲーデル解をかなり不可解と捉え、ワープが在り得る宇宙論だったので、扱いに困っていていたが、認めないという訳ではなかった。最終的には、アインシュタインはゲーデル解を受け入れた。
 
 ニュートン力学は、地球上であれば、観測する限り、十分な説得力があり、問題点が見つからない理論だった。ユークリッド幾何学を出発点とし、目に見えて、直感的に分かる理論で、親しみ易かった。だが宇宙では、ニュートン力学は、説明が困難な事象が多かった。そこで、アインシュタインの相対性理論が現われた。
 
 相対性理論は、非ユークリッド幾何学を出発点とし、目に見えない、抽象的な理論で、親しみ難かった。だが宇宙空間で観測する限り、十分な説得力があり、堅固な理論に見えた。人類は満足した。

 いや、我々は、より広大な世界を見落としている。それは寝ている時に見る夢の世界、霊界だ。これを解明して、説明しないといけない。霊界は明らかに存在する。脳の作用ではない。脳の作用であれば、夢の共時性は説明できない。なぜ、離れた場所で寝ている二人の人間が、夢の中で語り合い、起きてもなおその記憶を保持するのか?

 我々は夜、夢を見る。それは目を閉じて見る夢だ。だから肉の目で、夢を見ていない。心の目で夢を見ている。心は存在する。夢を見ている目は、肉体の目ではないのだ。そこに心がある。気が付いていない。気が付け。心は存在するのだ。脳の作用ではない。唯脳論はどこにも繋がっていない。心だけが存在する世界は、確かにあるのだ。
 
 理性を高めると、肉体の目は開くが、心の目が閉ざされて行く。心の目が開けて来ると、今度は逆に理性の目が弱くなり、現実的でなくなって行く。バランスを取れ。どちらも高めて、相反する能力を統合して行くしかない。

 これまで縷々、現代思想の問題点を指摘してきた。理性だ。心を閉ざす肉の目だ。

 過度な理性信仰は危険なだけでなく、政治的には残虐に堕ちる。そして学問の世界でも理性の限界は証明された。人類は、AIを神のように崇めて、社会の主導権を渡してはならない。システムには必ずバグが存在する。完全なシステムは存在しない。理性は全てを証明する事ができない。自己言及性のパラドックスを抱えている。

 ITをやっていれば、完全で無矛盾なシステムなんてない事は、経験的に知っている。絶対、どこかしらバグはある。時には仕様上、どうしても生じてしまう矛盾がある。ゲーデル命題だ。人間の理性には限界がある。
 
 人類が、自己言及性でパラドックスを抱えているのは、ひとえに神に到る道のためだ。それは理性では開けない扉がある事を示している。霊性こそが開く次の扉がある。それは目に見えないものを見、耳に聞こえない声に、耳を澄ます事から始まる。それが深淵の前で開けた、大いなる静けさであり、人類が最後の神の前に立つ時だ。

注47 Napoléon Bonaparte(1769~1821) France
注48 『特殊相対性理論』『Spezielle Relativitätstheorie』1905
  『一般相対性理論』『allgemeine Relativitätstheorie』1915

                                以上

哲学:現代思想の問題点➀カント

『大和の心、沖縄特攻』 軍艦神社物語1/3話


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