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価値観のお話し

価値があることに価値ってあるのかな

いつから僕は、自分に価値があるとかないとか気にするようになってしまったのだろう?今日は、なんだか、とてもナイーブな気分になってしまったので、こんな疑問が浮かんできたんです。

価値があるとは、具体的にどういうことなのかということ。思い当たれば、僕の小学生の頃が浮かんできます。当時流行ったカードゲームやシールといったものは、数が少なく、珍しいものに価値を凄く感じていました。

その時くらいから、価値があるものにこだわりを持ちだしたのかもしれません。価値があるのかないかの判断基準は、そのものの数が極端に少なく、それを手にしたい人の数が多数の場合。例えば、1000人が欲しいと言っていて、そのものがひとつしかない時に、価値はどんどん高くなるものです。つまり、需要と供給の差が大きければ大きな程、価値が高まるように感じます。

需要があっての価値だから、みんなにとって求められていないと、そのものの価値は、珍しいものであってもなくても、価値が一気に下がってしまうという考えなのです。

だからなのか、誰も必要とされていないと、自分は価値がないと考えてしまうようになったのだと思います。誰かに必要とされているから、自分に価値を感じるものだという考えだから、自分は優秀でないといけないと、次第に思い込むようになってしまうのでした。すぐに失敗してしまう僕に価値はない。会社に貢献できない僕は、価値がない。

「ほら、みてみなよ。」価値がないから、人が自分に集まってこないじゃないかって。価値がないから友人が少ないんだ。自分に価値がないから、自ら生み出す売り上げだって少ない。このような思考であった過去の僕は、自分に価値がないと思うのでした。

自分の価値がないとしてしまうものだから、人生が暗く重いものになってしまいました。そう、自分に価値がないと考えちゃうことで、希望が持てなくなってしまうからです。それが、本当に自分に嫌な思いをさせてしまったものだと、後悔が残っています。

多くの人からの承認が無ければ、自分に価値がないと考えること。本来はとても無意味なもののように思えるのです。有名だから、価値があるのか。フォロワー数が多いから価値があるのか。そうじゃないって、自分でも薄々、感じているはずなのに。

そもそも、自分に価値があるかないかなんて考えるのなんて、言い方は良くないのですが、実にくだらないように思えるのです。今は、本当の価値はそこにはないと思えるからです。僕らは生きているだけで、十分に価値があるものなのだから。人気があるから価値があるのか。ちやほやもてはやされることが、価値の代償なのか。人気がなくなれば価値が失われていくものなのか。そう自分に問いかけているうちに、そうではないと思えたのです。

本当の価値があるものとは

見ることが滅多にできない花があります。調べてみるとサギソウやハナカダイや皇帝ダリアにタイツリソウやカタクリといったもの。こうした植物は数が減ってしまい、珍しい植物になってしまっています。

その一方で、何処にでも見られるような植物も存在している。それらの植物は、みんなそれぞれ、自分は珍しいものだから価値があるからだとか、自分はそこらへんに生えているから、価値がないんだって思いながら生きてはいないと思います。桜だって、花を咲かせている時こそ、自分に価値があるなんて思いながら、春を過ごしている訳ではないはずです。みんな必死になってそれぞれ生きているのです。それをただただ、人間が勝手に価値を決めて、勝手に評価してしまっているだけなのです。

この前、道端に咲いている花を僕は長い時間かけて見てみたんです。その時に、どの花にも、美しく懸命さに心を動かされたのです。

人も同じだと思うのです。僕らは、僕らが勝手に価値を決めてしまっている。この人は人気があるから、優れているから価値が高いとか、この人はいるだけで、なんの役にもたたないから価値がないとか。見ているだけでイライラするだとか。そんな風に判断するのは見ている部分が違うと感じます。

自分は多くの人の役に立てることができるから価値がある。何かを成し遂げられたら価値が持てる。失敗ばかりの自分は価値がないとか。人に迷惑をかけたから価値がないとか。結果を残せない自分に価値がないだとか。

そうやって、自分や人に価値があるかどうかの評価を定めるのは、無駄で無意味なように思えてなりません。

こうしたことから、学んでみれば、価値があるから良いもの。価値がないものは大したものでないもの。そういう思考になる前のことを思い出してみたんです。小学生よりもっと前の頃です。

当時の記憶は、もちろんあまりありません。ですが、僕が何よりも気に入っていたものが記憶の中に鮮明に残っています。それは、ドナルドダックのお人形です。どこに行くのにも、肩見放さず持っていたみたいでした。きっと、たぶんどこでも変えるものであったに違いありません。珍しいものではなかったはずです。でも、当時の僕は、そのお人形に何よりも気に入っていただけで、どんなものよりも価値を感じていたんだと思います。本当に価値があるものかどうかは、それでいいんだと思う。自分が自分を気に入れるかどうかなんだって。それは、懸命に生きることができればこそ、自分を気に入ることが出来るものだと思うのです。だからこそ、

ただただ、懸命に生きる。懸命になれなくても、生きているだけで、十分に価値があると言えるのではないでしょうか。僕は、人間だ。花なんかさかせなくていい。今日という一日を懸命に生きること。未来も、自分が幸せに感じるように。それだけで、十分に価値があるのです。人の評価なんていくらでも後からついてくるんだから。

そう思うとなんだか、急に昨日まで頑張っていた自分に感謝することができ、「ありがとう」って言いたくなりました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー


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