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心理的安全性と次の時代の採用要件

この記事は三人の登場人物の対話形式で進めていきます。
りお:若手人事担当
持続的に繁栄できる強い組織になるべく、あらゆることを探求し、人事活動に活かしていきたい若手人事。少し捻くれている。
としぞう:精神科医
個人の行動変容や組織全体の行動に詳しい精神科医
わたるん:仙人
複雑な事象を整理し正確に言語化してくれる。たまにしか出てこない。

りお>
Googleの研究、プロジェクトアリストテレスでは、生産性向上に最も関連性の高い要素が『心理的安全性』であるとされました。
しかしこれは、心理的安全性が高いチームが必ず成功すると言っているわけではありません。管理職が心理的安全性を高めることに集中して頑張ったとしてもチームを成功に導けないケースも少なからずあったはずです。心理的安全性が高いとしても、チームがうまくいかないケースというのは、具体的にどんなものがあるのでしょうか。

としぞう>
もちろんです。プロジェクトアリストテレスが示した結果は心理的安全性が高い組織の方が必ず成功する!というものではなく、統計学的に成功する可能性が高い、ということに過ぎません。この結果はチームで協力するときに必要となってきますので、個人プレイの場合には必ずしも必要なわけではありません。加えてもちろん、製品がよくなければ売れませんし、景気の良し悪しにも左右されます。その他にも数え上げたらキリがない無数な要因が存在する可能性があります。
ただ、そこで全く同じチームで、状況である時、一方が心理的安全性が高く、もう一方が心理的安全性が低い時に、確率論的に心理的安全性が高いチームの方が成功するからなるべく心理的安全性を高めましょう、ということになります。もう一つ大事な点としては「我々は心理的安全性は高い」と思っているチームの方が心理的安全性は下がる傾向にあることです。「我々は心理的安全性がこんなに高いのに失敗したということは、心理的安全性が高いからといって成功するわけではないんだ、そうに違いない」と考えることで、実際は心理的安全性が低いのに気づくのを恐れている、というケースは多い気がします。

りお>
なるほど。外部環境は想定できる範囲でするしかないですよね。程度にもよりますが、未来を予測することは相当難しい。
確率論的に成功するとあらゆる統計で証明されているから高めておこうという論にはとても納得です。心理的安全性が低い時が多いかもしれないということに不安を感じ、それに気づけている状態こそが心理的安全性が高いというのは逆説的で面白いですね。

としぞう>
そうなんです。本当に宇宙の原子レベルで全ての情報を集めることができればこれが正解である!という未来予測を出すことができるかもしれません。ただ実際の未来予測が不可能であるのであれば、中途半端に未来予測になるべく近い方法はこれだ!と決めつけるよりは、柔軟に捉えていたほうが心理的安全性は高まりやすい。明確に方針は定めつつ、柔軟性を維持する言葉としてみんなで心理的安全性を意識しましょう、違和感は共有しあいましょうという文化や習慣は成功する確率を高めるのです。ただ、心理的安全性に関しても他の言葉と同じく、「心理的安全性を下げるなんてけしからん」的になってしまうと逆効果になる。統計学的に証明されているし、わかりやすいから、みんなで心理的安全性を意識する習慣を続けながら、お互い対話していい形を、どんどん変わりながらみんなで作っていきましょう!くらいのスタンスが、(直感には反するかもしれませんが、運用することを考えると)やりやすいんです。実際にそうなってみると、組織運営のしやすさを実感するはずです。

りお>
しかし、こうなってくると、やはり能力値的な採用要件はとても重要になってきますよね。心理的安全性が高くても、その人が持っている潜在力のようなもの、培ってきたスキルが、より正当に評価されるようになる気がします。一部の人にとっては残酷なことなのかもしれないなと思ったりします。心理的安全性が低い職場で求められる能力要件と高い職場の能力要件にはどんな違いがあると想定されるでしょうか?

としぞう>
能力値は大事ですね。ただ、この能力値も数字化されるものでも、高い低いで表されるものでもなく、どちらかというとカルチャーフィットに近いかもしれません。そして、そのカルチャーがフィットするかどうかは、アメリカと日本でも違いますし、それぞれの組織によっても違います。なかなか、心理的安全性が低い職場で働きたい!という人は少ないかもしれないですが、例えばメンタル面での強さに自信があれば、心理的安全性が低いけどめちゃくちゃ稼げるところに行って稼ぐ!という手もあるかもしれないです。ただ、メンタルが強い人もやっぱり心理的安全性が低いと辛いし、辛いことに気づかず稼いでしまうとその分、稼いだ苦労を正当化するためにお金を使ってしまったりするので、その意味ではあまり稼げないところで心理安全性が高い職場の方が気分良く働けるかもしれないです。

仙人>
カルチャーフィットとは、その人がコミット可能な体験があるか?コミットする協働の質により、協力意識を持てるか?という話ですよね。
また、各自が持つ資源の問題はメンタリティと分離できるのではなく、それ自体が文脈であり相補的な条件みたいなところがあり、ある意味生存バイアスを無慈悲に取り払うと人間が確率を高める部分は成功という意味では極めて低い。しかし、心理的安全性が高くなければリソースも見逃してしまうという所もあるので、健康増進、運動習慣みたいなものですよね。

りお>
心理的安全性は、統計学的に証明されているし、わかりやすいから、みんなで心理的安全性というものを意識する習慣を続けながら、お互い対話していい形を、どんどん変わりながらみんなで作っていきましょう!くらいのスタンスがあったとしても、そこから具体的に、組織がより良い形になるために必要なインプットがなされて、それが具体的な行動に結びつかなければ、結局組織は良くならないと思います。心理的安全性が高かったとしても、学習効率が上がらない、そもそも必要な情報をインプットし、アクションにアウトプットするという能力がなければ、組織は良くならないと感じているのですが、いかがでしょうか?

としぞう>
ですね。組織全体が車で一人一人が部品だとすると、心理的安全性とはお互いの部品が摩擦が少ない状態で噛み合っている状態になります。どんなに部品がうまく組み上がっていても、ガソリンを入れて前に進もうとしなければ何も動きません。そのガソリンとは要するに、組織のメンバーが自律的に行動しようと思っているかどうか?になるんですが、実はお互いに協力しあう行動を促進する組織に必要な条件が、心理的安全性とは別にあるんですよね。摩擦なく部品が組み合っていること、ガソリンが注入されていて組織のために積極的な行動が起きる条件が整っていること、この2つが必要になります。

りお>
能力値はどちらかというとカルチャーフィットに近いかもしれないという意味がわかりません。
能力とカルチャーフィットは粒度も違い、全く別物じゃないでしょうか。

としぞう>
ちょっと忖度した言い方になってしまったかもしれません。正確には心理的安全性の次に、能力そのものを見るよりは、カルチャーフィットの方が、その人が実際に今の職場で能力を発揮してもらえるかどうかに重要という意味です。プロジェクトアリストテレスの結果として重要なことは、生産性に個人の能力が関係していると人間は思いたくなるけど、実際は能力の高い低いなんてチームで生産性を上げるために重要じゃないよということです。これはある意味、「心理的安全性を高める能力」と言っても同じで、どの職場でも心理的安全性を高められる能力があるわけではなく、職場と個人の組み合わせに依存するということです。その意味でその人個人をみている限り採用要件の答えは出なくて、その人がいると実際に職場の心理的安全性が高くなりそうかどうか?とチーム全体の視点が重要です。

仙人>
協働できそうか?という話ですよね。協働できた方が人間、どう考えても幸福で生産的なんです。
組織協働にコミットしてない人(働かないマネージャー、意識は高いが上滑りの人事、現場に昔話を持ち込んで手を動かさない幹部)が採用で一緒にやろう!と選んだらイエスマンや使いやすい自律性のない人材、或いは協働し難い天才、口だけの人を採ることになりますよね。でも結局3割くらいしか失敗しないのは、そんな極端なコミットのない人というのはある意味事例全体人格をイメージした戯画だからでしょう。
即ち心理的安全性を高め、CDPs(コアデザイン原則:今後noteにまとめます)の具体的中身が明確になっていく組織では採用の的確性も当然高まる。というか、人材がどうと言う前に中で文句言い合ってる時点で失敗してるでしょう?笑 中がうまく協働出来ていたら、そりゃ採用もうまくいくよ、というのは当たり前ですね。
逆に、AIであろうが、天才アウトソーシング人事のプロだろうが、経営者の鶴の一声だろうが、彼らを含んで心理的安全がないような組織でうまくいきようがないですよね。。
本当にこうだったらとイメージするとやはり「あっ…」となりますね。


以下少し派生して会社組織に限らない話に発展

仙人>
私が自分達が助けられない、協働出来そうにない人を支援することには線引きが必要だというと、それでは本当に困った難しい人を助けられないとか言い出します。
でも、逆に、ではこれまで助けてみて一緒に飯食っても良いなと思えた被支援者は皆軽くて難しくない人でしたか?と聞くと、ハッとされます。そうではないんですよね。障害とか貧困とか、虐待にトラウマと形に囚われて形の可哀想さ、正解を追って組織内はバーンアウト、分断だらけになっていく。
会社よりも、さらに支援は協働の果ては『共に暮らす』なんですよ。で、これまで本当に苦労して支援した人で、どこか、ここまで来たら全部自己開示して近くにいて良い人も、そうでない人もいるわけです。そこを分けているのは、一緒に飯食いに行けるか?家に呼べるか?であり、それって元々の日本の組織のやり方ですよね。何がおかしいのか?と言って、結局協働への感覚でなく、形(スティグマ)で相手を差別して断る(これが普通の精神科支援の人々)と、内部に実は協働出来ない人を抱え込むことになる。内部側も健常で資格を持っているという形になってしまっているからです。
では、どこにも引っかからない人はいるのか?その人達は支援されないのか?となるかですが、そこをきちんと協働できるコミュニティ同士が支援の同心円を創り、少しずつ協働の設置面をそういう人とも探っていくのが社会保障なのです。実際のところ、そのような人は少数しかいません。また、協働可能性とはスペクトラムですから、一つダメだからどこもダメではありません。
では、古き良き日本なのか?違います。昔の日本というのはケアを家と嫁に押し付けた上澄みで組織ゴッコをしていたにすぎません。そこで能力マウントゴッコを主に男性がやっていた。これはコミュニティではなく、狩場での牽制と協力でしかありません。
では、女性コミュニティは安全なのか?違います。社会に境界を無理やり定められた家という境界ではリソースがなければ内部でのケア押し付け争いが起きるだけです。我々の時代はいよいよもっと本質的に協働するとは何なのか?を考えなければいけなくなっています。そして、その新たな習慣のもとに、協働できそうか?という感覚を育てる必要があるわけです。
あまりに合わない、協働できそうにない人ってある意味無敵なので、支援するなら固まって、固まった方の内部は安全で、マウントを避けるために、さまざまな固まりと一緒に(制度、法を持って)が基本なのです。
だから、硬直した社会保障制度はそれだけでダメで、局所最適を常に破るコミュニケーションをすべきなのです。その時に、まぁ生活の円滑性を新たなるケアの公平基準にせよと他の活動では私は言っているわけですね。
会社も、局所最適に陥って茹でガエルなので、心理的安全性を見直し、CDPs(コアデザイン原則)を明示化していくことで何を協働しているのか?がわかるから採用基準を持てるのです。という話ですよね。繰り返し、本当に協働できるのか?の感覚において、今そばにいる人より、世の中的な障害を持つ人、付き合ったこともない人の方が良いことはままありますよ。そうなると、学歴のシグナリングが偏りすぎている問題もあることに気づきます。しかし、それは漠とした一般能力としてのEQや非認知力ではなく、お互いの協働可能性の多様性と粒度なのです。
人間の歴史は、結局は豊かに、生活が無味乾燥、自動化の闇があれ、円滑になることで、その暴力性の低減が見られていったのは確かです。
元々人間は自己家畜化により、協働可能な社会性動物になったとされます。つまり、警戒や敵意・不安が人間内集団では抑制されてしまい、社会性動物が持つ親和的な形質が前景化することで、協働の幅が広がり、それが認知をも変えたのだそうです。
この、不安や警戒の部分が弱体化というか抑制変化すると、社会性動物(再生産に養育が必要な種)は元々協働的というか家畜的な性質を持っているのがより顕在化するだけというのは中々驚きですね。そして、家畜化による協働の進展がより養育の長期化を可能にし、更に家畜化する、そして協働の幅も拡大するというのが人間の協働能力の大きさの秘密なのだと言えます。
ところが、その協働により形成された外在化された知により道具が協働を自動化するようになります。
そうなると、協働に向かない奇異な親和性も生き残るようになる。そしてこれがまた外在化された知へのアクセルとしては優れた形質(余分なものが抑制されて発現した家畜化と同じ)があり、こうしたものが発達障害のような形質のゆらぎの元なのかも知れません。
外在化した知と道具によるテクノロジーにより協働しなくても警戒や不安を緩められる傾向と、実際に自動化による無味乾燥な生活の円滑化で更に進む家畜化(暴力の低減)、内集団認識の曖昧化(家族ですら内集団か曖昧で、ざっくりと同じ慣習を守っていることが協働とみなされる)の中で外れ値(慣習の違いや障害)に攻撃的になり無関心にもなる。こういう組合せの中に我々の近現代はいるように思います。
我々にはまだ古典的な集団生活に戻る冗長性が脳にはあるでしょうが、社会構造はそれを困難にします。その中で、外れ値への暴力を緩和するのは、同じ慣習を守れているように見せかけることであるため、生活上の公平を神経多様性まで拡張しケアとテクノロジーにより揃えてしまうと、障害がある意味なくなります。それだけだと人間の協働や親和性が空回りするため、多様な趣味の協働は多様化される必要があり、その際の暴力性の発生を低減するのが、生活の公平ケアでもあるという話となります。

これは、理屈上このような平衡があるかのように語っているだけです。従って現実にこういう世界線があるのか、とは関係ありません。社会暴力への反応というのは、基本は家畜化されたマジョリティの中で、生活が単一化したようで、実は協働で埋められていた外れ値を沢山持つ人間が、いちいち齟齬をきたす中で、齟齬の大きいものが割を食っているという状況を指します。戦争や貧困格差などの直接暴力とはまた異なります。なんでも暴力だというのは、そのような表象で呼んでいるだけの話で、粒度を高くして分けることは可能でしょう。私は何でも暴力だからアナーキズムだ!というような粒度の低い認識はしていないのです。こうした中で、暴力を低減し、新たな公平を生活の円滑さのためのケアの調整におくとしても、それは本来は複雑な協働の部分的作り直しに過ぎません。
もし、養育から身体的、親和的ケアの媒介を奪うほどのテクノロジーが生じたら一旦人間は混乱したのち、新たな人間が生き残るでしょう。少なくとも家畜化して協働と親和性をベースにした我々verの人間は、ケアの疎外に悩み、自分にできる範囲で協働を新たにしていくしかありません。その時に、生活の円滑という公平、そのための協働範囲の公平(核家族では生活できないから虐待なので、ケア支援関係を拡大する権利がある)というのが、多少道標になりうるというだけです。なので、ケア宣言においても、あそこからSDGsやら、まして、環境へのケアと言い出してしまう左派の単純思考は私は首肯できません。
社会的に決められた弱者や暴力に囚われるのではなく、自分達の行う生活協働に何らかの形でコミットできるのであれば、どんな障害があろうがなかろうがコミュニティに包摂するというやり方の方が適応的となります。制度と闘ううちに制度的になり過ぎてしまい、ケアを犠牲にしてイデオロギーに走るのではないでしょうか?自分とケアを分け合い、協働できるなんて、あまり障害がない人なのではないか?いやいや、そんなことは全くないはずです。これまで助けた人、別に社会的関係を取っ払ってもよいと思える人は全員軽く、恵まれていましたか?できることからやる、とは本来そんなふうである方が合理なのです。


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