【SERTS】scene.14 全家福防衛戦
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
※環境依存文字の入った料理名はカタカナ表記にしています。ご了承ください。
湖南省は鳳凰県に位置する鳳凰古城。ここは少数民族であるトウチャ族やミャオ族が多く暮らす名勝区で、その景観を一言で表すならば『劇中』……物語の世界のように幻想的でありながらも、どこかノスタルジックな趣きのある美しい街である。しずかに流れる沱江に沿うようにして吊脚楼 が軒を連ねており、その街並みは以前訪れた貴州省の村落にも近いが、川幅の広さやそこ浮かぶ小舟の多さやから、バンコクの水上マーケットやヴェネチアのような風情も感じられた。気候は湿潤で、四季の気温の変化は顕著だと聞く。春夏は雨が多らしく今日も雨模様だが、そんな生憎の天候でも古城の景観はすばらしく、しっとりとした灰色の空気のなか、草木の青と木造の建築群の強かな褐色が浮かび上がり、まるで街全体が荘厳な蜃気楼のようだ。
「きれいな街……」
雨打つ川面にぽつんと浮かぶ小さな遊覧船の上で、お嬢ちゃんはそう呟いてしずかに景色に魅入っている。その隣でラドレが「そだねきれいだね」と、どこか上の空で相槌を打っているのを補完しようと、俺も「そだなきれいだな」と相槌を打つが、それもまたやけに硬い声だった。ささやかな同意すら上手くゆかない俺たちの心情のシンクロ率は百パーセント。古都の遊覧という優雅なひとときは、実質、地獄への道程だった。
「こんなにうつくしい土地にその名がついているだなんて……鳳凰さんってどんな方なのかしら」
歌うようにそう言う彼女は、雨の女神と言って差し支えないほど美麗に着飾っていた。そのどこか憂鬱なブルーのドレスには雨垂れの刺繍がきらめき、ラドレがべそをかきながら操ったヘアアイロンで巻かれてアップにされた髪には、彼の涙が滲んでいるかのように真珠が散りばめられている。アイシャドウはラメのみで控えめながらも、きらきら光って睛を神秘的に潤ませていた。青と紫のパールが照るリップは落ち着いたピンク色。白い睫毛にはっと映える目尻の青いマスカラは、見るものの視線をその魚目へと視線を誘導する。……そう、俺がなにが言いたいかといえば、結局のところ『完璧』の一語に尽きる。普段ならばうっかり口を滑らせる形で求婚していたはずだが、今朝の俺は彼女に対しアクションを起こすのではなく、スタイリストのラドレを「ここまでするこたねえだろうがよ」と詰りながら、彼のファンシーな蝶ネクタイを締め上げていた。しかし「ごもっとも」と言いながらもラドレが本当に泣きそうになっていたので、それ以上は手を出せなった。痛がっている奴を叩く趣味はないし、なにより今日という日において彼は明らかに同志である。フレンドリーファイアで戦力を減らすだなんて真似はしたくない。これから向かう戦場では、可能な限りデカい男で彼女の周りを固めて相手方を威圧しまくるしかないのだ。そう、今日は『お見合い』の日だった。……お嬢ちゃんと、鳳凰とかいう俺が格で勝てなさそうな相手の。
「今どきアレンジドマリッジって、ねえ。ちょっと違うよね。いや、このあいだ観たドラマの話ね」
まったりと周囲の景趣を楽しめないのはラドレも同じなのだろう。彼が声を裏返しながら雑談を装うので、俺もそれに乗る。
「一理あるな。どうしても好きな相手と記録上でも一緒になりたいからそうするというのが現代における結婚だ。自由意志を大いに振り翳す行為でないとな。……このあいだ観たドラマの話だが」
一切観たことのない架空のドラマの話ということにして、俺とラドレは「見合いはない」ということをだらだらと主張する。その間、お嬢ちゃんは話を一切聞いていないかのように「あらおさかな」と水面を見つめて笑顔でいるが、それでもいい。意識に擦り込むのだ今のうちに……と焦っているうちに架空のヒロイン像がかなり詳細にでっち上げられていく。良家のお嬢様が主人公のその物語はオフィス・ラブがテーマだ。彼女は世間知らずだが健気で頑張り屋。でもちょっとさみしがり。そんな彼女は同期の男と先輩社員との間にトライアングラーを勃発させるが、その隙を見てライバル会社の御曹司が見合いを持ちかける……。そんなバリバリの虚像に、ラドレが「もうなんか僕が結婚したいくらいだよ」とメタい発言をぶっ込んできたので、思わずその胸倉を掴み、
「俺だって結婚したい」と張り合う。
「はあ? 僕だし。僕のほうが先に好きだったのに」「BSSはもう流行りじゃないぞ引っ込んでろ」「でもでも、冷静に考えてみて。僕が一番幸せにできそうじゃない?」「どのツラ下げて言ってんだお前は。そのツラのチャラ男が本命だった試しがねえだろドラマ界じゃ」「でもそしたらキミはなんかヒロイン庇って死にそうなオーラがムンムンなタイプだよ? やめなよ傷残して消えるの。実質勝ち逃げになるから。それってズルですよねえ!」
ヒートアップしてふたりで揉み合っていると、船頭のオヤジが「ちょっと、兄さんたち暴れないで……」と停戦を訴えかけてくる。確かに船が不気味に揺れはじめているので、互いに手を離し一時休戦。そうだ、今回はふたり協力して御曹司をぶっ飛ばさないといけない脚本なのだ。気を取り直し、「でもやっぱり結論お見合いは……」と言いかけたところで、突如「おおーい!」とよく通る男の声がした。
「おおーい。王ちゃーん!」
「あ、シュイジャオマンだ! わほほ!」
お嬢ちゃんが嬉しそうに手を振るその先には、川沿いの遊歩道を走って追いかけてくる大男の姿。一瞬で瞳孔が開くのを感じながらその姿を睨みつけていると、ラドレが「あれが仲人ね」と俺に耳打ちをしてきた。なるほど、確かに以前写真で見た顔だ。
「わ、すげー殺気がする!」
「しませんから気にしないで! それより転ばないでください!」
笑って楽し気なふたりを横目に、ラドレが「どうどう」と俺の肩に手を置く。それを受け容れながら俺は懐からサングラスを取り出して装着すると、ラドレにも「お前もレンズを黒にしろ」と指示を出した。それから「よっしゃ、ガラ悪くいくぞー」と、妙にテンション高くレンズの色を変えた彼と、ふたりだけで小さな円陣を組む。
「ゴーゴーレッツゴーでいい?」「もっと熱く、スタイリッシュに」「ドレエット高校アメフト部ー! 魂をー、燃やせー……?」「もうとっくに灰になってる」「えっと、起死回生ー!」「おーう……?」
高校生と詐称した俺たちが間の抜けたコールで気合いを入れているうちに、どうやら船着き場に着いたようだ。終始様子がおかしかった男二人に怯えている様子の船頭にチップを渡し、例の仲人に手を取られ下船するお嬢ちゃんの背中に続く。
「改めてお久しぶりす、王ちゃん。ラドレさん。そちらは……ああ、もしかしてオオカミの絵文字さん? オレはザントンといいます」
その差した傘の中ににお嬢ちゃんを入れてくれながら、男は俺に握手を求めてきた。こうも丁寧にこられては握手を返さないわけにもいかないので、彼の手を握りながら「ハリエットだ」と、ここでも偽名を口にする。その直後、ラドレが傘を開いてくれた翳りを感じた。
「いやあ、めっちゃ綺麗すよ、王ちゃん。天女にも勝るというか」
「うふふ。あなたも今日はかしこまった格好なんですね。素敵」
「いやあ、Tシャツにジャケット羽織っただけっすよ。ワイシャツだと胸が閉まらんくて」
「あら、それはよいことですよ。胸と肩はぶ厚ければぶ厚いほどよいのです」
「えー、照れるなあ」
逸るな、ハリエット。この男は仲人であって敵ではない。……咬みつきたい衝動を堪えて、背中に手を回す。嫉妬のあまり掴んだ己の手首を握り潰しそうだが、なにもかも顔には出さないようにして控えていると、ザントンの巨体の後ろから「やほ」という声が聞こえてきたのでそちらに視線を向ける。するとひょっこり顔を出したのは、赤い傘を差した白い男だった。
「えっ、シャンスゥ? なんでここに?」
ラドレが動揺の声を上げると、そのやけに清浄な瘴気をした男はにっこりと笑って「そりゃあ私も瑞兆三人衆のうちのひとりだからね。面白そう……じゃなかった。うちの兄貴分が心配でさ」と言うと、お嬢ちゃんに歩み寄って、「もう、酷いじゃないか。私はまだキミの求婚に返事をしてないというのに」と言って彼女の手を取った。なるほど、この男は敵だ。脳内で作成した『敵フォルダ』に彼の存在をドラッグアンドドロップする。
「ふふ。これだけ放っておかれたら自然消滅、というやつですよ」
「おや、手厳しい。でもそうか、こっちは新しい彼氏? また随分とヤクザ屋さんっぽいのを……こういうのが好みかい?」
確かに、俺はスーツに着替えようとした際にラドレに「ナメられちゃ駄目だ!」と無理矢理渡された柄シャツを中に着ていた。彼の持ち物であろうそれは胸のあたりがどうしてもきつくて開放的になってしまったが、これのせいで俺は傍目には反社会的勢力に見えるらしい。
「いいえ? あっちのインテリヤクザとこっちの武闘派ヤクザはカップルなのです。放っておいて」
「あー……はいはいはい。なるほどね。そういうジャンルね」
カップル云々ではなく、「いいえ?」の一言に胸を抉られる心地になりながら、それでも俺は持ち直す。俺はまだ彼氏じゃない。しかしそれは『まだ』であるだけなのだ。この程度でへこたれていてはこの先やっていけないぞ……そう己を鼓舞しながら、今度はこちらから白い男に自己紹介をする。すると俺の手を握った彼……シャンスゥは、「わかってるから大丈夫だよ」と囁いて肩を叩いてきた。その言葉の意図するところがなんとなく理解できたので、俺は彼を『敵フォルダ』から外す。
「よし、じゃあ行こうか。まあ、そんなに畏まらないで。団体旅行とでも思ってよ」
先導する彼に続き、皆で船着き場から移動する。目の前でザントンと談笑しているお嬢ちゃんの可憐かつ艶めかしい背中を追いながら、俺は気を張り続けても仕方がないと道中の景色を楽しむ。整備された石畳の道は歩きやすく、赤い灯籠で賑やかに飾りつけられた軒先は見ていて飽きがこない。ラドレは食べ物の店が気になるのか、漬物やトウモロコシ粉製品に興味を示していたが、果物の乗った天秤棒を持った老人と擦れ違うと特に目を輝かせた。「すごい、映画みたい」と喜ぶその横顔に、どこか気持ちが楽になりはじめているのを自覚しながら先へと進む。
時間に余裕があるからか、ゆったりとした語り口で地域の歴史や地理について説明してくれるシャンスゥの声に耳を傾けながら、地元出身の文豪の記念館や、その近辺から始まる沢山の赤い傘が頭上から吊るされた華やかな景観のエリアなども経由して、沱江の下流にある東門へと近付いていく。そしてこの地は何度も洪水に見舞われ水没してきたという話に差しかかったとき、俺はふと彼らが鳳凰の人となりについての話をしていないことに気がついた。これはもしかすると、特に前置きが不要な裏表のない誠実な性格をしているか、はたまた相当ややこしい性格をしているかのどちらかだろう。後者であってくれ……と祈っているうちに、俺たちは一軒の立派な吊脚楼の料亭に辿り着いた。朱と金に塗られた立派な看板には『礼仁鳳凰飯店』とある。
「このあたりははガンガンに観光地化されてて、飲食店は当たり外れが激しい面もあるんだけど、安心して。ここはアイツ直営の店だから。ささ、入ろう」
そう言うシャンスゥに従って、階段を上りエントランスホールへと入った。シャンスゥが受付で手続きをしているあいだ、店内を見渡す。落ち着いた内装の中に賑やかな見た目の芸術作品が華を添える、実に趣味のいい店内は、席数が少なめ。そんな余裕あるホールを、民族衣装ミックスでありながらもモダンな制服の従業員らが、よく躾けられたしずかな所作で歩き回っている。
「ふーう、高そう……」
傍らのラドレが肩を竦めるのを見て、ザントンが「まあ要人向けではあるんで……でも今日は奢りなんですし、思い切り食べちゃいましょう」とガッツポーズをする。その挙措に滲むのは単に食欲と人の良さであるので、どこか安心して横目で彼の観察をしていると、ふとお嬢ちゃんが俺の裾を引いた。
「あの、わたくしの格好は大丈夫でしょうか。どこか変なところや乱れたところはない?」
そう言って彼女はその場でくるりと回ってそのドレス姿をよく見せてくれる。このまま攫ってどこまでも遠くに行きたいほど、可愛い。爆裂と言ってもいい。しかし今日の俺にはそんな発言の自由なんてなくて、平静を装い「どれどれ」なんて呟いてみたりして彼女の髪や裾を確認する。
「リボン結び、ちゃんとなってる?」
「なってるよ」
「メイクは?」
「完璧だ」
「髪飾りは?」
「ああ、ちょっと花が取れそうだ。いま直してやる」
カーネーションを模しているであろうその白い布花の髪飾りを直してやろうと手を伸ばすと、一輪ぽろりと手のひらの中に落ちてきた。よくできたそれは生花のような質感をしていて、最近の生地は凄いなと感心したりもする。
「お待たせ。上の階に行こう」
手続きを終えて戻ってきたらしいシャンスゥの声に、俺は焦って「すぐだ。すぐに直してやる」と髪に触れようとしたが、それは彼女の手によって制された。花を取り上げた彼女は、それを俺の胸に挿してひらりと背を向ける。
「お嬢ちゃん」
掴めなかった手首の、その華奢な細さのぶんだけひらいている俺の手。その先で彼女は「なあに」と、俺の未練がましい声に応えて歩きはじめる。だが、やっぱり見合いをやめてほしいとも、愛しているとも言えずに、俺はただ「可愛いよ」と言って彼女を讃えることしかできない。
「ふふん。かわゆいのはもう知ってる」
背中でそう言って、彼女はザントンに、俺意外の男にエスコートされていく。己の諦めの良さが怖くて、『諦めの悪い男』を振り返ってみると、ラドレは「起死回生! ファイト、オー!」とひとり前方に拳を突き出して奮起し、シャドウボクシングをしながら階段を上っていった。
武装した黒服が守るその個室の奥には、背の高い男の後姿があった。窓の外を眺めていたらしい彼は、シャンスゥの「連れてきましたよー」という間延びした報告に素早く振り返り、勿体ぶらずにその容貌をこちらに開示する。鳥類らしくぱっちりとした鋭い眼差しは、髪と同じく炎の色だ。彫りの深さを誇示する高い鼻に、ぽってりとしたセクシーな唇。男の骨格としてのバランスを取るしっかりとした顎。そしてミッドナイト・ブルーに金色の柄が入った長袍が、発達した胸筋と細い腰が描く逆三角を際立たせ、有翼であることを匂わせていた。……簡潔に評するならば、飾らないのにド派手な美形といったところか。そう認識した瞬間、俺とラドレは同時に顔を見合わせ、互いの顔を指さして小声で励まし合う他なかった。俺たちはドレエット高校アメフト部だ。アメフト部ってやつは、モテるんだ……。偏見で塗り固める自信。しかし、好きな子にウケなきゃモテにも自信にも意味なんてない。
「雨の中ご足労いただき感謝しま……」
そう物腰柔らかに口を開いた男は、お嬢ちゃんの姿を認めた途端に挨拶を途切れさせると、唐突に「かっ」と短く鳴いてシャンスゥに硬直した顔を向けた。数秒の沈黙。それから彼は酷く動揺した様子で「……わい、すぎないか……?」と弱々しく訴えると、自分より小柄な兄弟分の肩に縋りつき、「おい、こんなに可愛い子だって聞いてないぞ! なんか、その、美人局とかじゃないのか。後ろに怖いお兄さんたちもいるし」と慌てふためきはじめた。
「それに、おっ」
「それ以上はいけないよ、リーユー」
シャンスゥが諫めたのは『直接的な表現』ではなく『その話題自体』であったはずだが、男は、
「……その、局地的な脂肪が、ゆ、豊かでいらっしゃる。ここまで豊かだと、悪用されてもおかしくない。お兄さんたち怖いし」
と、言葉を選んで危惧を口にする。言葉を選んだくせ、特に婉曲されていないのが気になるが、どこか諦めた様子でシャンスゥが「ラドレくんたち、悪用してる?」とこちらを振り返ったので、返事をせざるを得ない。ここは無害かつ善良な一般人であることを主張すべきかと俺が一歩前に出ようとした途端、ラドレが、
「それは実用的かつ実践的な意味合いですか? それはもう、すっごく悪用してきますよ! うちの子、小悪魔なんで!」
と、なぜか胸を張りながら大股で前に出たので、俺は咄嗟にその肩を殴って胸倉を掴んだ。「馬鹿野郎! 敢えて浅い川に埋めるぞ」「やめて湾にして」……そんなふうに小声で言い争っていると、男は、
「ほら、お兄さんたち怖い!」
とシャンスゥの肩を激しく揺さぶる。そんな極めて混沌とした状況に、お嬢ちゃんは呆れているのか飽きたのか、けさ施してもらったばかりのネイルを眺めて黙ったままだ。すると痺れを切らしたらしいザントンが、
「いい加減にしてください!」
と低く大きな声で喧騒に水を打つ。待望していた仲裁人の到来に顔を上げると、彼は「腹減って死にそうす!」と短く締めくくって円卓に着いた。静寂に鳴る腹の音からして、彼も特にツッコミ役というわけではなさそうだが、場の空気は締まった。それを皮切りに「そうだな、腹減ったな……」と皆でぞろぞろと着席する。
「遅くなりましたが、私は通名をリーユーと申します。すみません、いきなり身体的特徴に触れてしまって。王さんのお話はこちらのシャンスゥとザントンから聞いておりましたが、あまりにもお綺麗なのでつい我を失ってしまいました。改めてお詫び申し上げます」
席に着いた途端、リーユーと名乗った鳳凰は一気にビジネスモードになったらしく、微笑を浮かべながら適度に眉を下げてそう言った。なるほど、オンとオフで性格を切り替えるタイプらしい。改めてオンの側から彼を観察してみると、貫禄の中に柔和な雰囲気があり、初対面でも話しやすそうだ。
「あら。ご丁寧にどうもありがとうございます。わたくしは気にしませんので、どうかそちらもお気になさらず。肩の力を抜いてお話しましょうね」
リーユーの目を見てそう返すお嬢ちゃんもまた、オンとオフがきっちりしているタイプだ。気が合うかもしれないと思うと俺にとっては不穏だが、気が合わずにこの場が不穏な空気になるよりはマシだ。
「では、お話は酒と料理を楽しみながらにしましょう。ここ湖南の料理は、この国で最も辛いとされています。味の傾向としては、四川料理に酸味を加えた感じ……とでも言いましょうか。いわゆる、酸辣です。それと鮮辣……いわゆる青唐辛子の辛さが特徴的であることが多いですね。しかしなんでもかんでも辛いというわけではありませんのでご安心を。肩肘張らずに楽しんでいただきたいと思い、コースなどはご用意していません。ぜひアラカルトからお好きなものをお選びください」
そう促されて手元にあったメニュー表を開いてみるが、決めるのはお嬢ちゃんだ。ご丁寧にも英語の説明書きが添えてあるそのメニューに目を落とした彼女は、それらにざっと目を通してすぐに顔を上げると、
「ここはザントンさんに選んでいただきたいですね。食の采配はあなたが適任だと思うの。ちなみにラドレはお魚、こっちのハリエットはお肉が好きよ。苦手なものは特にありません。……お願いできますか?」
と、先ほど場を収めたザントンに対する報酬も兼ねるかのように提案して、にこりと可憐に微笑んだ。野菜嫌いを言わないあたり、きちんとしている。
「え、いいんすか? そしたら決めちゃいますよ。リーユーさん、いいすか?」
ザントンは嬉しそうにリーユーにも確認を取ると、それまで黙って期を窺っていたウェイターに向かって言った。
「こっからここまで、全部で!」
嘘だろ。……と、全員が同時に顔を上げたのがわかった。いや、正しくは四人だ。残りのふたりが、「ふふ。思い切りがよくてすばらしいですね」「でしょ。やっぱりタダ飯はこうじゃないと。王ちゃん、腹具合は万全?」「勿論です。負けませんよ」と、和やかに会話をしているのを耳にしながら、四人でアイコンタクトを交わす。本当の本当に大丈夫だと思うか、と。
私は小食だね……シャンスゥが指でそれを表現する。
僕は普通かも……ラドレが眉を寄せて首を傾げる。
私は食べるほうだけど『全部』はどうかな……リーユーが額に手を当てる。
俺も大食いの自覚はあるが、あのふたりと比べるのは烏滸がましい……俺は腕を組んで椅子の背凭れに身を預ける。
『各自がベストを尽くそう』と視線だけで合意して、さりげなく手を円卓の上に翳してエア円陣を組む。えいえいおー、で解散する四つの手。今ここにお見合い戦線とは別に、大食い共同戦線が成った。もうアメフトだなんて言ってはいられない。ここはフードファイト部だ。ラドレが「起死回生! ファイト、オー!」と息だけで発奮しているが、できれば『死』に直面することは避けたい。
各自が戦々恐々とはじまりのゴングを待つなか、まずは酒が運ばれてきた。白酒である。ラドレが俺を見て首を横に振るのは、この場でベロベロエンエンになるのは流石に嫌だと思ったからだろう。危ないと思ったら俺に回せ、と身振り手振りで指示を出し、それからリーユーの「乾杯」の音頭に従った。喉から腹へと強い酒が落ちていく感覚に、唸る喉。呼吸を止めてファーストインプレッションの衝撃を落ち着けていると、鼻の奥でふくよかな花の香りがした。濃厚なそれは次第に爽やかなものに変化して、二杯目を飲む直前にははっきりとした香気が腹に残っているような感覚がある。まるで香水のような風情のある酒だ。ボトルを見ると、酒を意味する字にデーモンを意味する字が続いている。物騒な名前だが、意訳すると大酒飲みといったところだろう。それにしては華やかな味わいだ。
「ここはリーユーさんの生まれた土地なのですか?」
二杯目の酒も軽々と飲み干して、お嬢ちゃんは柔らかい声でリーユーに話を振った。彼も薄く笑みを浮かべ、しかしどこかで彼女に対して「可愛いなあ」と思っているのが透けて見えるような、ハッピーな男の態度でそれを受ける。
「そういうわけでは。数あるシマのひとつとでも言いましょうか。地名自体は、この近くにある山のかたちがまるで鳳凰が翼を広げたさまのようだということで付けられたもののようです。私のような存在にとって信仰は力ですから、なんというか……自分の名前のついた土地は居心地が良くて。頻繁に滞在しています」
神や神獣の類いは、信仰がその力の根源となる。ゆえに名を知るものが減ったり忘れ去られたりすれば弱体化し、最悪、『いなくなる』のだ。お嬢ちゃんの強さもおそらくはそういう仕組みに由来していて、それはつまり彼女がまだ国では愛されていることの証左にほかならないのだが、ラドレはなぜかそこを直視しようとしない。彼らの会社の社員が彼女を陛下と呼び慕っている程度で、ここまでの力を維持できるわけがないのにもかかわらず。
「ふふ。わかる気がします。ここはあなたの名に恥じないほどの、うつくしい土地ですね。人々にも無尽の生命力を感じます」
「そうでしょう。湖南人は普段ガツガツしたところの少ない、穏やかな性格であることが多いのですが、その一方で我慢強く、死すら恐れないとも言われています。水害が多いからかもしれませんね。復興活動の度に私は彼らの不屈の精神に触れ、感動させられます」
ああ、始まってしまったなとどこか陰鬱な気持ちで見守る成り行きは、穏やかであるはずなのになにか刃物のような鋭さをして、俺の目の前で何度も空を裂く。俺とラドレが虚空を見つめて動かないでいるからか、ザントンが「なんか怖いすよ、おふたりとも。サングラス外したらどうです?」と話を振ってきた。これは威圧のために必要なものなのだ……と拒否したい気持ちではあったが、この薄曇りの視界のままでは気まで滅入るように思われて、言われた通りにサングラスを外す。ラドレはレンズカラーをやたらと彩度の高いピンクに切り替えていた。できるだけ楽しい気持ちになりたいだとか、そういう理由だろう。
お嬢ちゃんの腕時計を褒めるリーユーに、ラドレが己の腕時計を見せつけるように何度も腕を振り翳すなか、料理の第一陣が運ばれてきた。店員の説明によると、東安鶏という歴史ある鶏の酸味炒めと、名産の燻製豚肉を使った湖南腊肉という炒め料理、それから酸っぱいスープとして国外でも比較的メジャーな酸辣湯の三品だ。随分とできあがるのが早いと思ったが、シャンスゥが「湖南料理は爆炒と呼ばれる強火の調理法がメジャーだから、炒め物は早いんだよ」と説明してくれたので納得する。
「うん、美味しいです。鶏肉がふわふわですね。香りもいい。唐辛子のほかは……生姜と、花椒ですか?」
箸を持つ手を見せないようにしているのか、素早く鶏肉を口に運んだお嬢ちゃんは、ほくほくと蠢く唇を指先で覆い、肉をゆっくりと噛み締めてからそう言った。
「そうです。あなたのお口に合ったようでよかった」
そのことが余程嬉しいのか、リーユーはその目元をぱっと、きらきらと、綻ばせる。わかるよ嬉しいよな……と、俺は心の中で彼の表情に賛同した。
「わたくしはヤギなのですが、ヤギ肉もヒツジ肉も気にせず食べます。リーユーさんは鶏肉は大丈夫?」
「私も気にしませんね。自分のことで捉えているというよりは、ペットにミニブタやインコを飼っていてもそれはそれとして豚肉や鶏肉は食べるだろう、という感覚かな……」
「ああ、わかります。わたくしも出されれば犬も食べると思いますし」
その言葉にラドレが「ヒン」と鳴くのに、「なんで食われないと思ったんだよ」と指摘を挟んでから、俺は取り分けた湖南腊肉を口にする。結構塩辛いが、ねっちりと弾力のある干し肉の不思議な感覚が面白く、一緒に炒められていたニンニクの芽とよく合う。見たところ干し唐辛子がごろごろと入ってはいるが、そこまで辛くはなく、干し肉の旨味と豆鼓のシンプルな味わいが酒を進ませる。ザントンが「ご飯ください」と元気よく注文するのにも頷けるが、この場においては先程と同じく「嘘だろ」という感想が先に出た。そんななか、比較的小食組のラドレとシャンスゥはゆっくりと酸辣湯を啜っている。
第二弾も三品だ。石門肥腸という、少数民族の調理法が取り入れられているらしい臓物煮込みに、湖南の家庭料理の代表であるという辣椒炒肉。それからここ鳳凰の名物であるシュエバーヤーという、大鍋の鴨料理がコンロとともに円卓に置かれる。先に来ていた三皿は丁度いいタイミングで空になり下げられていったが、今回はうちひとつが鍋だ。そろそろ食い気を真面目に目覚めさせなくてはならないと、気を引き締める。
「うん、辛い。美味しい」
石門肥腸を食べたラドレがぎゅっと目をつぶってそう漏らすのを聞きながら、激辛好きの彼が辛いというのならどの程度のものなのかと、俺もホルモンをひと切れ口にすれば、コリコリ食感に豆板醤の塩味がよく染みていて食べ応えがあった。それから味わいの奥のほうに桂皮の爽やかな風味が……。
「ごあっ」
唐突。
本当に唐突だった。ばっと激しい辛みが口内に瑞々しく広がって、俺は噎せた。そうだ、ここに入っているのは青唐辛子だった。遅効性の爆弾とも言えるその辛みは、じっくり煮込まれているぶんホルモンに染み染みになっている。慌てて酒をぐいと傾けていると、シャンスゥが「この程度で辛がってちゃだめだよ」と愉快そうに目を細めて笑った。早々に完食を諦め、ターンテーブルを利用してお嬢ちゃんを挟んだ向こう側にいるラドレに俺の皿を押しつけると、彼は「いいの? やったあ」と嬉しそうにする。
「一番辛いのはこっちだよ」
そう言ってシャンスゥは辣椒炒肉を指すが、どこからどう見ても素朴な見た目の豚肉炒めである。やけにピーマンが多めだが……と思ったそのとき、それらがピーマンではなく青唐辛子であることに気がついた。よくよく見ればこれはピーマンとの区別が曖昧な形態のものではなく、市場などでよく見かける大きくて細長い、ザ・青唐辛子だ。それらが「一般野菜ですがなにか?」という顔をして豚肉と仲良く炒められている。そうなると爆弾という表現では済まないことを悟り、食べるか食べないかを迷っていると、ラドレが「あ、これ前に食べたことある」と旅の初めに刀削麺を食べたときのエピソードを披露し始めた。俺はあのとき獣形態で近くにいたが、あのときのラドレは特に大袈裟に辛がったり、転げ回ったりなどはしていなかったはずだ。
「ああ、たしかにあれは美味しかったですね」
お嬢ちゃんも和やかにそのエピソードトークに相槌を打っているが、これと同等の料理を食べられるのに、つい最近まで辛いものが苦手だったというのも不思議な話だ。するとシャンスゥが「多分それは小炒肉だね。でも観光客にガチなのを出すとは思えないから……」と説明しかけて、それから唐突に無言になって俺を見た。首を横に振っている。要は「やめとけ」と言っているのだろう。しかしお嬢ちゃんが「あれもハオチーだったので、これもハオチーな気がします」と言って、それから笑顔で俺に「食べてみてください」と勧めるので、引けなくなってしまう。これはつまり、毒見を任されたのだ。一瞬、「辛い辛い」と喜んでいるラドレに視線を向けてみるが、お嬢ちゃんは「あれは舌がおかしい」と冷静な分析を披露して俺に圧をかける。
「よし、やってやるぞ俺は……」
意を決して、辣椒炒肉を皿に盛る。お嬢ちゃんは立場上、すべての料理に手をつける気でいるらしいが、危険要素のあるものに不用意に挑み、予期せぬ反応をしてしまうことは避けたいのだろう。人の前に立つ者として賢明な判断だ。
「俺だって四川料理くらいは平気だからな」
俺がそう言うと、シャンスゥが「四川は中国四大激辛地域のなかでも最弱……」と呟いて俺を脅す。あれで最弱だとはとても信じられないが、リーユーがザントンと呑気に天気の話をしている今のうちに、お嬢ちゃんと味覚の近い俺が味をレポしなくてはならない。迅速に勇を鼓して、いざ……。
「……うん。ああ、これは家庭料理然とした味だな。食べ盛りのティーンエイジャーや肉体労働者が好むようなメシの進む味で、複雑な要素が混ざり合った深みがあるものの根幹はにがっつりとした甘じょっぱさがおっ、おあああああ」
ダメだった。
なんだこれは。料理にダメだなんて言いたくはないが、ダメで、痛い。武器のほうのモーニングスターを口に詰め込まれているのか? と錯覚しそうになるほどの超絶的な辛さだ。咄嗟に酒を飲もうとしたが、掴んだデカンタは空で愕然とする。そんな俺を見て、シャンスゥは手を叩くジェスチャーとともに、声を発さず大笑い。このサディストめ……と吐き捨ててやりたかったが声が出ず、ただただ心の内だけで悪態を吐いていると、お嬢ちゃんは何食わぬ顔で、
「こちらの料理はとても辛いのですが、どこかほっとするような味ですね。ハハノアジ、とでもいいましょうか」
と言って、テーブルの下で俺の膝を撫でた。そうだ、そうやって俺のことをどんどん利用してくれ……。その手を強く握りながら、俺は新しく運ばれてきた酒をボトルごと抱えるようにして飲む。これが口当たりのまろやかな酒でよかった。水だったら、死んでいたに違いない。
「おお、わかっていただけますか。湖南人にとってそれはスタンダードな辛さの一品なのですが、外の人には刺激が強すぎるようで」
リーユーはまた嬉しそうにお嬢ちゃんの言葉に頷く。味覚が似ていることが結婚生活の必要条件だとでも思って、真っ当に浮かれているのだろう。
「まあすごい。いまのわたくしにはこちらの辛さがちょうどよいかも……これも美味しいシチューですね。この黒いのがもちもちとしていて面白いです」
お嬢ちゃんは上手く会話を激辛料理からシュエバーヤーに誘導して、感想を口にする。彼女の手にするスプーンに乗っているのは、黒とも濃い紫ともとれる色合いの、長方形にカットされたなにかだった。
「それはシュエバーといって、鴨の血で固めたもち米です。それを揚げたあと、鴨と一緒にじっくり煮込んでいます。出汁を吸って美味しいでしょう。うちのはスープにスパイスが九種類入っています」
「ええ。とても味わい深くて……。鴨も新鮮で食感がよいですね」
俺もそのスープのオレンジ色が美しい煮込み料理を食べてみたいところだが、まだ口の中が焼け野原だ。ティッシュを噛みたいような欲求に抗いながら、俺はただ酒を飲む。そうこうしているうちにラドレが辣椒炒肉を食べ切った。それ自体は非常に頼もしいが、彼の味覚が心配である。きっとストレスでおかしくなっているに違いない。
その後も臭豆腐やドクダミの根の炒め物、蛇料理などを食べ進め、そろそろ気を抜いたら満腹を自覚するぞというところで、メイン料理とでも呼ぶべき豪華な見た目の料理がやってきた。毛家紅焼肉とドゥオジャオユィトウだ。これらは湖南料理として有名なので俺も名前は知っている。紅焼肉は以前春節に食べた東坡肉とは少しテイストの違う豚の煮付けで、土鍋にぎっちりと角切りにされたバラ肉が詰まっている。ドゥオジャオユィトウは魚の兜に凄まじい量の発酵唐辛子が乗った蒸し料理だ。ラドレと目が合い、無言のまま「お前はそっちだよな?」と互いに役割分担を決める。
「うふふ、おにく、おにく」
「この魚めっちゃうまいんすよね」
お嬢ちゃんとザントンはまだまだ元気そうだ。ふたり顔を見合わせ「にひひ」と笑っている。ここが一番意気投合してるんじゃないかと思わなくもないが、飯を片付けてくれるのならこの際なんでもいい。嫉妬を胸の奥底にしまい込み、料理を取り分ける。シャンスゥが控えめに盛ろうとするのを、小声で「もっと食えよ」と脅していると、ザントンが「これ、麺入れると美味いんすよ。すみませーん、麺くださーい!」と声を上げた。三度目の嘘だろタイムの発生に、リーユーが貫禄のある声で「ザントン」と大食いチャンピオンの名を呼ぶ。いい加減にしろと言いたかったのだろうが、ザントンは溌剌と「あ、米派ですか? わかります、わかります。すみませーんご飯も追加でー!」と、絶望的な勘違いをかまして憚らない。すかさずシャンスゥが「ギブ」と顔色を青くして鳴くのに、「ギブってこたあねえよなあシャンスゥさんよお」とその肩を抱いてやれば、彼は「助けてリーユー、ヤクザ屋さんだよ」と縮こまって兄貴分に助けを求める。しかしリーユーは無情にも首を横に振った。それは全員ここで死ね、という哀しき勅令に他ならなかった。
「わー、辛い! 美味しー!」
だがここで意外にも元気なのはラドレだ。もはや頼もしいというより彼の精神状態が怖くなってきたので、ちょっと後で小突くなりで泣かせてバランスを取らなくてはならないと決意する。元気そうに見えても躁のやりすぎはよくない。
「ふむ。辛くはありますが、上品な味付けですね。酸味がまろやかで箸が進みます」
「でしょ。王ちゃん、お皿貸して。麺とご飯どっちがいい?」
「うふふ。両方に決まっているじゃありませんか。いっぱい盛ってください」
ずっと同じテンションでいるお嬢ちゃんの胃の容量がどうなっているかを知りたくて、さり気なくその腹部に手を伸ばして触れてみる。平坦。ペラペラ。というか、骨。ブラックホールを搭載しているのかと思えるほどしずかなままでいる肉体を不可解に思った瞬間、くるるとなにかが鳴いた。その声の出所が今は見えない彼女の終体であることを悟って、即座に手を離す。俺はアレについて詳しくはないが、どうやら生物だけでなく料理も食べるらしい。一方のお嬢ちゃん自身はぽそぽそ小声でなにか喋っている。
「噛みませんよ」
ぽそぽそ声を切り上げた彼女は俺に向かってそう言うと、ゆったりとした動作で紅焼肉に手をつける。もしかすると、今まで彼女のぽそぽそとした喋りを、独り言だと認識していたのは間違いで、実のところは彼女はアレと会話している……のだろうか。
「む。とてもハオチー……あなたも食べてみては?」
そう勧められて、自分が箸を置いていたことを思い出す。腹具合を一切意識しないようにして、取り分けた紅い肉を口にすると、まずはそのむっちりとした食感に驚かされた。東坡肉とは明確に違う。紅焼肉という名前にあるように、焼いているからこそこうも食感が違うのだろうか。至極柔らかであるのに弾力があり、最初に食べた腊肉とニュアンスが似ている。味付けは甘く、唐辛子は香りだけだ。すべてがこっくりと濃厚で、唐辛子と大量の酒で弱った胃にじんと染みる美味さである。
「んー、ハオチハオチ……」
ニコニコとパクパクを繰り返し、元気よく料理を食べ進めるお嬢ちゃんの姿を見て、リーユーが「かわいいな……」と、目を細めて漏らしている。疲弊した視界に燦然と輝く暴食モンスターの快進撃は、確かに満腹感よりも安心感を誘発する。そう、食う女は可愛いのだ。お嬢ちゃんはメスではないが。
「そういえば、お兄さんたちは王さんの実のお兄さん、なんですよね?」
唐突にリーユーがこちらに向かってそんな事実無根を口にしたので、俺はラドレと同時に「はあ?」とドスの効いた声を上げた。どういう説明をしていたのかと付添人と仲人にに視線を向けるが、シャンスゥはきょとんと首を傾げ、ザントンは米に夢中で聞いていない。
「え、違うのですか……?」
「違うに決まってんでしょうが! こっちは使い魔! あっちはカレシ!」
ラドレの宣言に、リーユーは一気に顔色を悪くして「そんなことあります……?」とひとり狼狽している。恐らく彼もまさか見合い相手が『オトコふたり』を伴ってやってくるとは思ってもみなかったのだろう。至極真っ当な反応である。そうなると彼はなにも悪くないのだが、ラドレは躁を引き摺っているのか「ヤッてんだよ。あ? アンタも加えてやろうか? 男が三人もいると4Pは暇だぞ?」とド直球の下ネタを言ってリーユーを更に震え上がらせる。
「ひ、暇ってなんですか……」
「男が多いと女が誰で満足したのかわかるんだよ。リピートされないと暇になる。帰るヤツもいる。『暇側』にならない自信はあるのかいリーユーさんよお」
へえそうなんだあ……とラドレ以外の清らかな男性陣全員で感心する。ザントンが麺をスープに絡ませながら「よく知ってますねえ」と呑気に相槌を打つと、ラドレは「まあ僕はそっち側にはなったことな……」と鼻高々になりかけて、ふとお嬢ちゃんの視線に気づいたのか黙り込んだ。円卓に手を突き、身を乗り出して演説していた彼は、その体勢のまま旧時代のロボットのように「アノデスネ」と、固い鳴き声を上げる。
「ラドレ、おすわり」
お嬢ちゃんは真顔で、それまでラドレの座っていた椅子を指す。
「あ、あの、あのね、ちがうすっごくちがうの、これは伝聞ならびに推定であって」
「ラドレ、おすわり」
「ちが」
「ラドレ、おすわり」
極寒の沈黙。とっくに春になったというのに今ここだけに暴雪が吹き荒れている。俺ですら顔を上げられないほどのしずかな凄味は、まるで重力だ。前肢を揃え、大人しくしていようと身を縮こまらせていると、不意に「きゅうーん」と甘ったれた鼻声がして、俯いた視線をそちらに向けてみると、なんとラドレが獣形態になっていた。「ひゃうんひゃうん」と鳴きながらお嬢ちゃんの膝に縋りつき、身体を擦りつけて、もの凄い上目遣いでお嬢ちゃんに情状酌量を求めている。ああ、もう腹を見せた。
「捨てたね」
徐にシャンスゥが口を開く。
「恥をな」
その言葉を補って、俺は蹲っていた背を楽にした。正直、なかなか愉快な状況だ。迂闊な男が迂闊であるところを順当に罰せられているところを見るのは面白い。先ほど俺を大笑いしていたシャンスゥを否定できないほどに愉快で、酒が進む。
「……ラドレ。おまえはわたくしの騎士であるはずですが」
「きゃうう、あおん。あおおおん」
「いつからそんなにプライドのない男になったの」
「きゅ……うん」
「安いプライドなんていくらでも捨てたらよろしい。みっともないような役を羽織るのも適宜やればいい。ですが言いたいこともはっきり言えないような腑抜けに育てた覚えはありませんよ」
……それを言われると、俺の胸も痛い。ラドレは頭を垂れて反省している様子だったが、最後のセンテンスを聞いた途端、顔を上げる。しかしそのまま素直に謝るかと思われた彼は、唐突に牙を剥いた。
「でもそれは王も同じじゃない?」
ぎょっとしてそのハウンドを見ると、彼は頭を上げて真っ直ぐにお嬢ちゃんを見据えている。その眼差しは底知れぬ情念を湛えており、軟派な口調とは裏腹に、そこには主君を刺すのだという決意がきらめいていた。
「それでよろしい」
お嬢ちゃんはしずかにその一刺しに応えると、ラドレに身体を向けて手を差し出した。すると彼はゆっくりとそこに顎を乗せ、目を閉じる。
「王?」
「はい」
「僕とハリエットは」
「おまえひとりぶんの感情で話しなさい」
「……うん。僕はね、王がお嫁さん欲しがるの、全然、いいと思ってる。キミがそれをしたいのなら。でもね」
「はい」
「すごく、すごーく、ヤキモチやいちゃう!」
そう叫ぶように言い放つと、ラドレは再び弱い声で「きゅうん」と鳴いて、それからとぼとぼとテーブルの下に入っていった。反省の気持ちを表現しようとしているのだろうか。少しして、俺の革靴の上に犬の頭が乗る感触。どうやら枕にされているようだが、今は払い除けないでおく。
「ヤキモチ……」
お嬢ちゃんはそう呟いたあと、ゆっくりと両手を口の左右に添え、小声でラドレ以外の男たちに問いかけた。
「ヤキモチって、なんですか……?」
そこからか……と残りの四人が口々に漏らすなか、彼女は首をくるんと傾げて腕を組む。ヤキモチ。やっかみ。嫉妬。俺ですら心当たりがある原始的な感情だ。恋の障害を徹底的に排したいと願うこと。お前さえいなければと信じて疑わないこと。惚れた人に選ばれないという苦しみ。……いや、これは俺の場合だ。彼女の『ヤキモチ』とはなんだろう。きっとそれは、俺が他に恋人をつくるとか、一緒にいるとき手元で他の女とやりとりするだとか、そういうことでは引き出せない、まだ彼女の中では未分類で、手つかずの『なにか』なのだ。
「でもそれはできれば知らないままでいたほうがいいんじゃないかな……」
沈黙のなかシャンスゥがそう漏らすのに、
「しかし嫉妬という感情なしには思慮深く味わい深い性格にはなれないのでは?」
と、リーユーが反論する。それを「いや」と、ひと言目で否定して、シャンスウは兄貴分に……いや、瑞獣のひとりして、再び言葉を返した。
「そこは関係ないでしょ。刃傷沙汰を起したからといって立派な人間ということにはならないし。私らが見てきた為政者たちにも度々嫉妬が原動力です! みたいなのもいたけど、それがあるからって人間的に成熟していたとは言えないでしょ」
「それはそうだが、その感情が『あるということ』を受容し、コントロールしようと試みてこその『ヒト』なのでは? 一切ないというのもまた不健康であると言わざるを得ないよ。あって然るべき感情なのだから」
「一切ない人もいるでしょ中には。そういう人たちのことを不全と切り捨てることは私にはできないよ」
ふたりの議論がヒートアップしていくのを聞きながら、俺も指を組んでそれについて考える。お嬢ちゃんは誰も疑問に答えてくれないことを特に気にしていないらしく、食後に運ばれてきたフルーツティーと長沙の有名店から取り寄せたというシュークリームに夢中だ。そんな却って雨音の響くようなピリついた空気のなか、シャンスゥとリーユーのぶんのデザートを回収し、ほくほくの笑顔でいたザントンが、不意に口を開く。
「王ちゃん。そのシュークリームをさ、はやく食べたいなあって、もう完全にシュークリームの口になっちゃってるなあってほど待ち侘びた、特別なものだと思ってみて」
「むん。そう仮定します。実際、ハオチハオチ……」
「これを食べようとしたとき、あるいは食べてる途中に僕が強奪したらどう思う?」
そう言ってザントンは、リーユーのぶんだったシュークリームをお嬢ちゃんに握らせると、彼女が嬉しそうに顔を綻ばせた途端に取り上げてしまった。すると彼女は愕然とした表情になり、わなわなと絞り出すように、
「タ……タベモノノウラミ、です」
と、言って、それから「ほんとに? ほんとうに取っちゃうの?」と恨みがましくも可愛い表情で彼に縋りついた。俺ならそんな顔をされたら耐えられないが、真面目な顔をしたザントンは、
「そう。ヤダよね。ウラミだよね。悲しかったり切なかったりするよね。これを人間関係に当て嵌めてみて。王ちゃんのすごく好きな人が、誰かに奪われるかもしれない。他の人のところに行っちゃうかもしれない。……どう?」
と説明し、お嬢ちゃんにその気持ちを想像してみるように促す。するとお嬢ちゃんはすこし考え込むような素振りをみせたあと、どこか戸惑ったように所感を口にした。
「そういうこと……誰かの惚れた腫れたはいつもわたくしのあずかり知らぬところで発生して、勝手に始まって勝手に終わるので、自分にそういう感情があったところでどうしようもないというか、そもそも意味がないのでは……?」
『いみあるは、ない』……昔、お嬢ちゃんがそういう表現で自分の感情をまるごと無視していたことを思い出す。彼女はその感情の有無や手触りについてではなく、それらが持つ価値にのみついて話しているのだ。彼女の『いみある』とは価値の重さに匹敵し、価値がなければ要らない、なくても困らないというのが彼女の考え方なのだろう。俺は途端に、彼女がそういうものの見方になってしまったこと、ならびにそれを是正できなかったことへの責任のようなものを感じてしまって、喉と胸のあたりがずんと重く、くるしくなる。万人にとって価値ある物事なんて存在しないが、当時の彼女の世界の『万人』は、彼女の自意識を、自由意志を、徹底的になかったことにした。そうでなかった者たちもいたにはいたが力及ばず、結果的に、そうなってしまったのだ。
お嬢ちゃんは口を閉じ、膝の上でちいさな拳をぎゅっと握りしめている。丸まった背中からなにかが爆発しそうな気配があるのに、皮膚の表面にはぴったりと堅固な薄膜が張っているのか、その中に抱え込んだもの流動すら抑え込んで気味が悪いくらいに動かない。そんなふうに彼女を御する『なにか』は、俺の目からすると明らかに理性だ。無意味であるものを徹底的に排除すべきという正気だ。彼女を夢見心地と称する者を、俺はラドレも含めて何人も見てきたが、彼女は超常的なほど理性的なイキモノである……哀しいことにも。
「これは……重症なのでは? そりゃ嫉妬なんてなくてもいいけど、でもあの子のなかにはあった『かもしれない』ものでしょう……」
シャンスゥが俺の左隣からそう耳打ちしてくるのに、「半分は俺のせいだな」と自嘲気味に答えて、それから足許にいる犬に「おい」と呼びかけつま先を持ち上げる。「もう半分はお前だぞ」……すると犬はくうんと鼻を鳴らして、「違う、ぜんぶ僕のせい」と俺の事情を一切知らないで自分勝手な自己嫌悪を発露する。彼の感じている重荷を半分肩代わりするには、俺のことをどうにか思い出させてやらなければならないらしいが、如何せん俺には使える言葉が現状少なすぎる。
「意味がないなんてことは、ないよ。キミがしょうがないなあってシュークリームを諦めたからといって、食べたかったことも、美味しそうって思ったことも、ちょっと食べてハオチハオチだったことも、なかったことにはならないんす」
沈黙のあと、しずかに発せられたザントンの言葉に、お嬢ちゃんは驚いたように顔を上げた。それから「食べていいよ」と、再び手元にシュークリームを与えられた彼女は、それにこわごわと触れる。実のところ俺も彼と同じことを思ったのだが、言葉にするのは彼のほうが早かった。いつもそうだ。俺には声にならない声ばかり。きっとそれは彼女の前で真っ当であろうとする見栄のような部分からきていて、すべてを『彼女のためになるように』と捏ね繰り回すから瞬発力に劣る。ラドレのように勢いに任せて「ヤキモチやいちゃう!」と想いを宣言できないのだ。そのくせ、ただ「愛している」とさえ言えば、すべてを補えると思い込んでいる。
「前にラドレにわたくしのちまきを、食べられちゃったことがあります。すごく胸がモヤモヤしました。ムカツク、ありました。ボートレースのときです」
俄かにお嬢ちゃんは、懐かしむような声でその思い出を語りはじめると、それから、
「そうですね。今でもあのときのムカツク、あります。胸にずっと。このムカツクは、ヤキモチ? だいたい、おんなじ?」
と、また新たな疑問を生みだして俺たちへと投げかけた。それは第三者からすると純粋な『タベモノノウラミ』かもしれなかったが、彼女の視点ではどうかわからない。しかしそのわからないという無力さに対し、そしてそれを発生させた彼女に対し、俺は「いいぞ」とエキサイトした拳を握りたくなる。彼女の中に俺の知らないことができるだけあってほしいと切望するのは、それは彼女が俺なしで生きてきたという事実そのものだからだ。何度俺にヤキモチをやかせてもいいから、その自立したミステリをできるだけ多く俺に吹っかけて、解いてみろと、お前には解けないだろうと、その生を誇示してほしいのだ。飽きないから、飽きるほどに、俺はそれをしてほしかった。
それからお嬢ちゃんは、思い切った手付きでシュークリームを半分に裂くと、ザントンに片方を手渡した。「ふへんへ」と笑顔で。これは彼女のお決まりの行動のようなもので、俺もよく半分に割られた色々なものを彼女から貰っていた。ちぎった花、ちぎった絵、ちぎったパン……いつもイチゴだけは半分にしてくれない。
「それ、私のシュークリームなんだけどな……」
肩を竦めるリーユーに、お嬢ちゃんは「タベモノノウラミ?」と笑顔で問いかける。すると彼は「私とも半分こしてほしいな、というヤキモチです」と言って眉を下げた。「あなたのことは正直、現時点ではまったくわからない。しかしとても可愛らしい方だということはわかります」……そう評価された彼女は、途端にそわそわと髪やドレスの裾を気にしはじめるが、きっとそんな仕草すら可愛らしいと思われていることには気づいていない。
「あ、あの、わたくしは、あなたの……その、逞しいところが、いいなと、思っています。ごめんなさい、内面的なことではなく……それはまだわからなくて」
「では私とだいたいおんなじですね」
「ふふ。そうですね。お見合いってむつかしい……」
初対面の相手のことなんて、何時間話したとて理解できるはずもない。俺はそれを危惧していたのだが、彼女たちもそれは承知のうえで見合いを決行したらしいことを察して、なにごとも庇護欲も抱きすぎるのはよくないなと今日の俺の言動を反省する。仮に彼女に恋人や婚約者ができたとして、上手くやっていこうという覚悟を決めなくては、なによりラドレに顔向けができない。いま俺の膝に顎を乗せて大人しくしている彼は、清濁併せ吞んで俺のことを受け容れてくれているのだから。……この男と上手くやっていけるだろうかと、リーユーの顔を見たその瞬間、傍らのお嬢ちゃんが「ん?」となにかに気づいたかのような声を上げた。それから、「ラドレ」と鋭く騎士の名を呼ぶ。その栄誉ある男もまた、彼女の声に含まれた絶妙なニュアンスを察したのだろう。素早くテーブルの下から出てくると、ヒト型形態に戻って彼女の口元に耳を寄せ、彼女の小声の指示を聞いたらしい。短く返事をして部屋を出て行った。
「どうした?」
なにかあったのかと彼女の耳元に口を寄せる。すると彼女は手にしていたシュークリームを卓上に戻してから、この場にいる全員に向けて言った。
「簡潔に申し上げます。……洪水が起きます。近隣住民に避難指示を」
お嬢ちゃんが言うには、雨に含まれる水の瘴気が濃くなってきているらしく、この調子で降り続ければ川が氾濫する可能性があるらしい。それを聞いた鳳凰が窓に飛びつき、沱江の上流に目を凝らすのに皆で続く。外は相変わらずの雨模様だが、暴雨というほどではない。しかし上流には不穏な黒雲が垂れこめており、ある意味で霊妙な威厳を湛えていた。
「確かにこの辺りは昔から洪水の多い地域だ。しかしこの雨脚では到底洪水にまで至るとは……」
目視できる範囲でそう分析するリーユーの疑念は当然だが、それはあくまで視覚情報にのみ頼ったリポートだ。それだけではないのだろうと、ひとり席に残ったまま目を閉じているお嬢ちゃんを振り返ると、彼女は言った。
「この辺りに高名な水の魔物や神はいますか?」
「水……沙悟浄や水虎あたりか……?」
リーユーが答えながらシャンスゥを見る。疑問を振られたシャンスゥは「住処が遠すぎるでしょ」と首を振った。
「いえ、龍や蛇のようですね」
「あ、共工さんじゃないすか?」
ザントンの言葉に、瑞獣ふたりがはっとしたように顔を上げる。ザントンは窓から顔を出してすんと鼻を鳴らすと「あ、四罪の気配すね。オレ、四凶なんでわかるんすよ」と軽い調子で言って、お嬢ちゃんに説明をはじめた。
共工とは黒い龍あるいは人面蛇身の姿で描かれることの多い『四罪』のひとりで、炎帝の一族でもある洪水神である。帝位簒奪を目論み、大地の均衡を崩そうと洪水を起こしたが、最後は夏王朝の始祖神によって追放されたという……。
「祝融とどっちが強いのか決めようってバトったりもしてさ。で、負けたのが恥ずかしすぎて自殺しようとしたんだけど、それも失敗したんだよねアイツ。そのせいでまた洪水がさあ……」
「こらシャンスゥ。死体蹴りはやめなさい」
「まだ死んでないじゃん。この件がヤツのせいなら」
そうこうしているうちに、ラドレが戻ってきた。雨にしっとりと濡れた姿で、「上流に不自然な雨雲の塊があるんだけど、雲が濃くてよく見えない。でも確かに水の瘴気の匂いがする」と報告した彼に用意していたタオルを渡すと、頭を拭きながら彼は続けた。
「街では老人たちが洪水がくるって騒いでる。観光客たちは気にした様子じゃないから、動くなら早めに避難指示出したほうがいいかも」
それを聞いたリーユーは「この土地の民が言うのなら間違いないな」とそれまで半信半疑だった表情を切り替えると、「よし。鎮政府に申請を出そう。それと並行して避難誘導を部下に行わせる」と言って、インカムで近くに待機しているらしい部下たちに指示を出し始めた。
「うう、寒かった。雨が氷みたいに冷たい……」
「上着脱げ。体温が奪われるぞ」
魔物が唇を青くするなんてよっぽどだ。ラドレのジャケットを剥いでいると、お嬢ちゃんが再び「ラドレ」と彼の名を呼び、その手をラドレに向かって差し出す。それを握ったラドレが瞬時に「あったかーい」と笑顔になるのは、恐らく魔力の受け渡しがあったからだろう。彼の手を握ったままお嬢ちゃんは立ち上がると、もう片方の手でリーユーの胸を指した。
「あなたが大将です。どっしり構えて。指揮はわたくしが執ります。どなたか地図を」
お嬢ちゃんの言葉に、シャンスゥが棚から地図を取り出して円卓に広げる。それをざっと確認して、彼女はもう一度ラドレに報告をさせると、その発言の位置を地図に照らし合わせたようだった。そして髪飾りの真珠をいくつか抜き取り、地図上に配置しながら各人に指示を出す。
「シャンスゥとザントンはそれぞれ右翼と左翼に移動。避難所への導線の確保を行ってください。被害が大きくなるとしたら県政府の方向でしょうから、ザントンは誘導が終わったらそちら側へ移動してシャンスゥの補佐を。使える兵隊は彼らの指揮下へ。わたくしとリーユーは雪橋へ移動して中央を堅守します。ラドレとハリエットは共に鳳凰大橋へ行きなさい。目標は南下してくるはず。狩りの基本はじっと待ち構えることです。最も効果的な一瞬を逃さず、可能な限り素早く目標の戦意を削ぎ、動きを封じなさい。……では、大将。ひと言お願いします」
お嬢ちゃんに肩を叩かれて、リーユーは少し迷うような素振りを見せたが、すぐにその凛々しい眉にぐっと力を入れて背筋を伸ばすと、言った。
「私はこの美しい土地と美しい人々を守りたい。ヒトにとっての試練とは、彼らがその手で招いてしまった禍いや、純粋な自然災害であるべきだ。もうひとりで歩き始めてしまった今の世代に、我々人外族が無闇に介入してはならない。我らだけでこの災厄を食い止めるぞ。力を貸してくれ!」
彼の熱意に、全員が頷いて返す。無言でも心が通じ合うような感覚は、『戦い』ならではのものだ。リーユーの部下から配られたインカムを全員で装着して、お嬢ちゃんの号令を待つ。
「短期決着を目指します。最後にひとつ。『言いたいことははっきり言うこと』いいですね? ……では、古城防衛戦、開始」
まず、シャンスゥとザントンが駆け出していった。それから「わたくしが本陣までエスコートします」と、お嬢ちゃんがリーユーの手を引いて部屋を出てゆく。俺はバルコニーに繋がる窓を開け放つと、髪を結っているラドレに向かって言った。
「おい、お前、俺に乗れ」
「え、乗るってなに?」
「お前はいくらか消耗してるだろ。移動は俺に任せろ」
そう言ってハスキーに擬態した姿ではなく、本来の獣形態へ変化してみせると、ラドレが「すげえ! でっかい狼だ!」と煩く沸き立つので、尻尾で叩いて黙らせる。
「騎乗スキルくらいあんだろ、騎士殿」
「もちろん。でも手綱もハミも無いね! 鞍も鐙も! 怖!」
「要るのは体幹だけだ。来い」
姿勢を低くしてラドレを背に乗せると、彼が体勢を整えるのを待って雨空へと向かって飛び出す。「あ、これ腰痛になるやつだ。未来の僕、ごめん」「ざまあみやがれと伝えとけ」……人目を避けるため、空を駆ける。灰色の空の向こうに感じる弱々しい陽光。日が傾いてきている。……夜になれば夜行型の俺にはバフが入るが、目標は短期決着だ。無闇な期待はしないことにして、街を見下ろし、警邏しつつ進む。水位は確実に上昇はしてきているが、ゆっくりとした変化なので人々は焦らなかったのだろう。ザントンが老人を四人纏めて抱えて走っている。シャンスゥが「鎮政府です!」と身分を詐称しながら人々を誘導している。前方に架かる二階建ての橋が掲げる楼閣に灯りがついたのは、お嬢ちゃんとリーユーが到着したからに違いない。手を振ろうとするラドレを、「落ちるぞ」と脅して騎乗に集中させた。
それにしても吊脚楼とは一見して不安定だ。川にせり出した建物を、細い木の柱の何本かで支えているそれは、水害の多い地域に建つものであるからして、ある程度の強度が保証されてはいるのだろうが、神の起こす洪水に耐えられるかはわからない。だからリーユーも切実に「守りたい」と言っていたのだろう。
「なんか、ご飯いっぱい食べておいてよかったね。お陰でバテることはなさそう」
背中のラドレが呑気にそんなことを言うのに、「お前はしかも魔力供給までして貰ってるしな。あ、やっぱり落とすか?」と返す。すると彼は俺の首に抱きついて「ヤダ!」と駄々を捏ねた。それからすぐに「すごい、撥水加工なの? ふわふわなんだけど……」と、気色悪く彼の手が俺の毛皮を這い回るので、前身の皮膚がぞわぞわと蠢く。
「水浴びしてやろうか? ああ?」
「ごめんて。あ、待って、猫が溺れてる」
「どこだよ」
ほらあそこ、とラドレが指をさすほうを見ると、水位と流れの増した川に猫が流されており、番なのか親子なのか、もう一匹猫が川沿いを並走してぎゃわんぎゃわんと悲痛に喚いていた。
「うう、僕ああいうの悲しくてムリ……」
ラドレが俺の首に顔を埋めながらそう漏らすので、
「おい、言いたいことがあるならハッキリ言えってお嬢ちゃんに言われただろ」
と促せば、彼は「……助けてあげたい」と細い声で訴える。
「おうよ」
返事をして、「いいの?」だの「ほんとに?」だのと煩い彼を無視しつつ下降すると、猫より若干下流側にざんぶと浸かって流れてくるのを待ち構える。そしてじたばたと藻掻き、濁流を吸って苦し気に浮き沈みをする猫の背を顎で拾った。自身より何十倍という大きさの獣に咥えられ、猫は一瞬パニックを起こしたが、ラドレに預けると大人しくなったようだった。背中を叩かれ、水を吐いている声がする。
「うう、寒いよね……」
そのまま猫の身体を擦っているらしいラドレに、「猫はヒトより強いだろ」と言ってやりながら、川沿いで待っていた猫の傍に寄っていくと、どうやら『彼女』は身重らしい。ラドレが再び伺いを立てるように「あの」と切り出すので、「女とガキがいるのに死にかけてんじゃねえ」と雄猫に吐き捨ててから、そのちいさな伴侶も咥えてラドレに渡す。
「はは、ブーメランだ」
「うるせえ。俺には女もガキもいねえし死にかけてもない」
「わ、未来のキミに今の話してやろ」
「話すな。ほら、猫どもを落とすなよ」
いま一度、ラドレを背に空へ跳び上がる。インカムでお嬢ちゃんと連絡を取っているらしい彼と猫を落とさないよう、ひそかに気を張りながら素早く移動し、目標地点の鳳凰大橋へと降り立つと、ヒト型形態へと戻った。着ていた上着を脱いでラドレの腕の中にいる二匹を包む。雄猫は冷たい水で体力を奪われているらしく、逃げようともしない。そんな彼の額を雌猫は舐め続けている。
「引き続き近隣住民の安全を守りなさい、だって」
通信を切ったらしいラドレはそう言って、顎で猫を指した。確かに彼らも近隣住民に違いない。
「うう、僕雷属性だからあったかくできないんだよあ……キミは?」
「氷」
「そうだと思った……」
精一杯猫たちを温めようとするラドレを見て、この男はずっとこうだったなと懐かしく思いながら、借り物のシャツも脱ぐ。それを猫を包んだジャケットの上から巻いて縛ってやれば、一個の布の塊と化した猫二匹を見てラドレは笑った。
「この雨に濡れても寒くないの?」
「ある程度はな」
しかし風が裸の上半身に触れるとそれなりにキツい。川に浸かったせいで、膝から下、それから肘から下も鈍っている感覚がある。水をもろに浴びた猫が死んでいないところからして、この雨には魔物にのみ効く成分……それこそ神の力が溶け込んでいるのだろう。であれば共工とやらの狙いは俺たちの内の誰かだ。そう思索していると、ラドレが俺の背中にくっついてきた。どうやらあたためてくれようとしているらしい。氷雨に冷えた肌に彼の体温がじんわりと染みるのを感じながら、上流に目を凝らす。この先には確かダムがあったはずだが、そこに手を出さないということは、明確にこの古城を狙ってきているのだ。
「ねえ、キミが生傷だらけなのは知ってたけどさ、胸の傷って前もあったよね。背中まで貫通してるの……?」
ふと、ラドレが背中に触れて問うてくる。消えないの、と切ない声で付け加えて。
「誰もがお前みたいに祝福されたイキモノなわけじゃないからな」
「でも、皆ある程度の自己再生能力はあるわけでしょう。誰かすっごいヤバいヤツにやられたとか?」
すっごいヤバいヤツ。……「お前だよ」と声に出してみる。ずきんと舌の根が痛んで、思わず呻き声が漏れたが、ラドレはそれを悪寒だと理解したらしい。猫と額を俺の背に押しつけて、「やっぱ寒いんじゃん」と薄ら笑う。その声に、今ここで刺されたら今度こそ死ぬな、と人生の終幕を妄想するのは、一度目の死を遠く懐かしい演目だと思ってしまっているからだ。表舞台から去った俺はもう幕間やボーナストラックにしか存在していないゴーストのようなもので、いつ消えたっておかしくない。俺はこうなってしまう前から、ずっと存在が薄くて、ずっと堂々と生きたくて、ずっとがむしゃらに自己実現をなそうとしてきた。ずっと、ずっと、ずっと。俺でもやれるはずだって信じていた。ずっとずっとずっと頑張ってきたのだから絶対に報われて然るべきだと。でも結局のところ、俺の属する世界の主人公はこの男だったのだ。
そのバイザーの男は、その瞬間きらめくような殺気を俺に見せた。
不可解なひかり。イラジエーションから突き抜けてくる剣の切っ先。すこし遅れて、俺はその目元を覆う武装の下で彼が泣いていることに気がついた。涙が、光っていた。あの子の涙みたいに。
「キミだけが悲しいと思うなよ!」
それは絶叫であったと記憶している。その切実な咆哮に、俺はただ呟くように「悲しくなんてない」と返すだけ。実際のところ俺はその一撃一撃を受け止めることに精一杯で、『お前を殺す』と剣に込めて構えた意志のほかに、一切の雑念を抱き得なかった。それが勝利に繋がるという綺麗事を信じて。
でもお前は泣いていた。まるでほんとうの友だちみたいに、俺たちの運命を呪って、抗って、泣いていた。闘いの最中であるというのに。
「悲しいだろ! 嫌だろ! 私は嫌だよ! バカ! キミは私のことを好きだろうが! 私は好きだよ、ずっと好きだったよ!」
雑念。雑音。泣きながら、それでも俺を斃そうとする本気の一突き。矛盾の一塊となって彼は全身で世界に向かって反抗していた。甘ったれてんじゃねえ。お前のせいで。お前が騎士になるだなんて言い出しさえしなければ。俺たちは友だちになれたはずなのに。
彼の向こうで白い王子がただ静かに戦局を見据えている。俺の背後であの子が「もういやだ」と泣き崩れている。「なんでこんなことしなきゃいけないの」「どうして生きているだけでこんな苦しいことばっかりなの」「兄様も嫌って言ってよ!」
言いたいことを言う彼ら。ああ、このふたりのほうがよっぽど気が合うに違いない。
嫌だ。なんで。好き。……騒がしい愛する人たち。黙っている白い彼と俺を、清廉な諦念が断頭台へとエスコートする。
『彼』と目が合った。
眠たそうな魚目の奥にある深い色が空を染める。こうする他に進み方を知らない不器用な『兄様』と『お兄ちゃん』は、既に退場する運命を受け容れてしまっていた。彼の運命を俺は察して、彼も俺の末路を視たに違いなかった。世界がしんと黙りこくった。そして。
不可解なひかり。ハレーションから突き抜けてくる剣の切っ先。
そのバイザーの騎士は、その瞬間きらめくような愛を俺に見せた。
俺は、敗けた。
避難完了、とシャンスゥの声でインカムに通信が入り、我に返る。それとほぼ同時に上流から濁流が押し寄せ、気味が悪いほど静かに街を侵してゆく。流れを目で追いながら下流を振り返ると、堤防を乗り越えるほどの水量に吊脚楼の脚部分は殆どが水没し、低い立地に建つ家屋の一階部分はするすると水に飲まれはじめた。
今俺たちが立っているのは、車両の通れない古城のメインエリアから幾らか離れた位置にある、車両通行可能の大橋だ。そのぶん造りがしっかりとしていて今のところは平気だが、下流はわからない。水に飲まれゆく街を見てラドレが「凍らせて止めたりできる……?」と、焦ったような声を上げるが、それをしても溶ければ結局変わらないし、下手に凍らせれば建造物に影響があるかもしれない。リーユーはこの街の景観も含めたすべてを守りたいと思っているに違いないのだ。……そのまま思い切った判断を下せず足踏みをしていると、ふとお嬢ちゃんたちがいる雪橋のあたりがきらりと光を放った気がした。それと同時にお嬢ちゃんの声で「パピーたち、防御姿勢をとりなさい」と通信が入る。上流にいる俺たちに呼びかけたということは、まさか……。振り返った先のラドレに「伏せよう」と肩を押され、俺は半ばバランスを崩すようにしてその場にしゃがみ込む。すると直後、轟音とともにとんでもない量の水塊が橋を揺らした。下流方向から訪れたその衝撃は、逆流。それは俺たちのいる橋の下を抜け、天を穿つほどの水柱を上げながら黒雲に突進してゆく。爆風と水飛沫、それから橋の揺れにラドレが転げながら「にゃあああ!」と叫んだ。その胸に収まる猫たちも続いて「にゃー!」と鳴く。咄嗟に俺は「もう一波くるぞ!」と叫んで、ラドレの身体の上に覆い被さった。瞬間、上流で重たい炸裂音。再び、爆風。遅れて衝突地点から跳ね返ってきた水がざんぶと橋に乗り上げる。しかし氷のような冷水の感覚も衝撃もなく、そのままざっと水が橋上から引いていく。見ると、猫を巻いていたジャケットの胸元で、花の髪飾りが光っていた。どうやらこれが俺たちの周りに防壁を敷いてくれていたようで、衝撃から守ってくれただけでなく、滲みるような熱すら感じて身体がふわりと楽になる。
「すっげえカウンター……」
俺に押し倒されたときに頭を打ち付けたらしいラドレが、そう呻きながら猫の頭を撫でた。猫は無事らしく、耳を伏せてはいるがもごもごと蠢いている。
「なんだ今の、お嬢ちゃんか……?」
上体を起して俺も頭を擦る。この数十秒間は、まるで嵐のど真ん中にいたかのようで、その恐怖感に暴れ回った鼓動が肉体をまるごと揺らしている。
「あれ、たぶん波に向かってパンチしただけだよ……えいって」
「こっわ……」
「怖いよね……王の加護がなかったらいまごろ身体半分なかったかも。この場合マジの半分ね。腰から下が吹っ飛ぶとか」
「上が吹っ飛ぶかもしれないだろ」
「ウェアイズ僕の意識……」
「下半身だろ」
「一理ある」
ふたりよろけながら立ち上がり、周囲の状況を確認する。その強烈な『逆流のカウンター』に釣られて、街に流れ込んだ水が川へと戻っていっているようだ。クリティカルヒットを受けた上流の黒雲はその勢いを大いに削がれたらしく、その体積を随分と減らしている。しかし進軍は止めてくれないらしく、ずぶずぶと不気味な音を立てながらこちらに接近してくる。
「来るぞ、ラドレ」
夕闇に溶けずにいるその雲の深い色に、目の焦点が狂いそうになるが、眩しいよりはマシだ。気を取り直して銃を構える。水没したのと同然の水を浴びた愛銃のことを思うと泣きそうだが、昨今の銃はこの程度じゃジャムらない。後で念入りに手入れしてやるからな……と心の中で相棒に語りかけた。
「銃貸してくんないの?」
猫たちを橋の袂に置いてきたラドレが気の抜けたことを言うのを、「ざけんな」と小突く。すると彼は笑いながら左耳のインダストリアルピアスを外し、黒い素材でできたそれをコイントスの要領で空へ放った。すると彼が手で迎えるのと同時に、それは一条の槍へと姿を変えていた。鋭利で直線的なフォルムのそれは、一度突き刺せば柄まで一気に突き抜けるに違いない。
「それができるならあのとき俺の銃を貸した意味はなかったのでは……?」
お嬢ちゃんならまだしも、まさかこの男がそんな小技を使えるとは思わなかった。驚く俺を他所にラドレは槍を構えて型を確認している。
「そんなさみしいこと言わないでさ。たまには貸してよー」
「ゲームソフトの貸し借りじゃねえんだぞ」
そんな指摘を交えつつ俺も銃を構える。敵は百メートル前方、間もなくランデヴー。本体の位置は未だ不明。ラドレにアイコンタクトで作戦を共有しようとしたそのとき、
「ドレエット高校アメフト部! ゴーゴーレッツゴー!」
と、なんとも間の抜けた掛け声とともに、彼は槍を投擲した。
あ、そういえば躁だったな……とそこで思い出す。稲妻を従えた超高速の一撃が勢いよく黒雲に突き刺さったことで、目標の実体がそこにあることを確信し、そのままエグいほどの回転がかかった槍が貫通していくさまを見届ける。ぶじゅり、と背筋が震えるような音がして、それから共工のものと思われる咆哮が響き渡った。浴びた水がすべて払い落とされるかのような音の礫に耳を塞いだまま、
「チームプレイって知ってるか?」
と指摘すると、ラドレは、
「即断即決! 電撃戦! 速さとは最善への近道なのであった!」
と腰に手を当てて背中を反らせる。どうやらお嬢ちゃんのオーダーにだけは忠実らしい。
「お前よくそれでゾエさんにチームワークのなんたるかを説いたな」
「社長権限発動! ダブスタ!」
「労基に駆け込まれるぞ」
共工の叫びに連動しているのか、川の水位が再びどっと増す。戦意はさほど削げなかったらしいと分析したのも束の間、ラドレが手元の、魔力で編まれた手綱のようなものをぐっと引き寄せると、黒雲から「抜かないで! いやあああ!」という絶叫が響き、ふたたび肉を裂く音とともに槍が戻ってくる。それと同時に川の水位が減った。こんなに精神状態がわかりやすくていいのかと、疑念という名のツッコミが頭に浮かぶが、それについては一旦思考から放り出す。
「うえっ、生臭!」
戻ってきた槍に付着していた赤黒い血液を嗅いでそう叫んだラドレは、顔を顰めながら「しかもドロッドロじゃん。生活習慣病じゃない? 知ってる、日本のナットウってヤツがいいらしいよ」と続けて黒雲を煽る。なるほど、自分が言われていると想定すると確かにムカつくが、そのぶん効果的ではあるらしく、地に響く威厳溢れる声が「はあああ?」と不服を表現して憚らない。「中国の健康食材酸菜を舐めるなよ! 俺は健康だ!」……しかし声を上げれば上げるほど傷に響くらしく、何度も不服申し立てをしかけては痛みに呻いて中断するという、謎のループ状態に陥りはじめた。無駄にコミカルというか、ある意味チャーミングである。
「よし、行こう!」
槍から血を払ったラドレが、俺に向かって手を差し出す。
「ハリエット号!」
そう名を呼ばれて、彼がこの橋を離れて上流に寄りながら戦闘を続行する気らしいことを察する。どうやらとことん猫が心配なようだ。仕方なしに再度獣形態へと姿を変えてやると、彼はなんの躊躇いもなく俺の背に跨り、俺の脇腹を蹴った。その指示に従い、黒雲を目がけて跳ぶ。勢いのまま霧中に突っ込めば、そこには一匹の黒い龍が鎮座……とはいえない、怯んだ眼差しでおっかなびっくり俺たちを待ち構えていた。左肩の辺りが抉られて翼が使い物にならないらしく、その貫通した傷口からは燻った肉の臭いが漂っている。
「なんなんだよお前ら!」
「我こそは狼に育てられし狼少女騎士! 実は高貴なる血筋だし、物理だけじゃなく魔法も使えるし、お肉好きだけど初めて見たイチゴのケーキに喜ぶし、隠れ巨乳だし、温泉回ではきゃあと可愛く叫ぶぜ!」
共工とラドレの声が重なったと思いきやラドレのほうが冗長で、謎の沈黙が生まれる。俺は少し悩んだ末に、属性を盛りすぎていることに対してではなく、「ヒロインを名乗るにゃ早い」とラドレに物申した。
「こんなに可愛くて凛々しくて美人で投擲が上手いのに……?」
「うん、そうだな。そういうことにしておいてやる」
まだ何か言い足りなさそうなラドレを無視して、次は龍に問う。
「なにが目的だ、デカトカゲ」
「ちょっと、龍種を煽るときはワイバーンもしくはフェレットって言ってやるほうが効くんだよ」
「うるせえぞラドレ。ちょっと黙ってろ」
「ワイバーンだと? お前、俺のことをワイバーンって言ったのか?」
「ホントに効くんだな」
その表皮を覆う鱗は黒色なので実際はよくわからないが、顔を真っ赤にした、という表現がぴったりな怒り顔で、共工は龍種然としたブレスを吐いた。神だけあってその威力は凄まじく、避けたそれが轟音とともに近くの山を焼いたのが、霧の合間からも赤々と輝いて見えた。流石は龍種かつ神というチートな配合の存在である。しかし俺たちの背後で燃え盛る山を見た途端に共工は、
「あっ、ちょっと、今のナシ……」
と弱気な声を上げ、それから「あの、眼鏡のお兄さん。雷属性だよね? ちょっと雷鳴らしてくれる?」とラドレに向かっていきなり懇願しはじめた。その意図がわからず黙り込む俺の背で、ラドレが「え、いいよ。貸しひとつね」と答えた直後、紫色のフラッシュ。ワンテンポ遅れて厳めしい雷鳴が轟く。
「ありがとう! 雷からの山火事ってことに、ここはひとつ……」
そう言って彼はいそいそと雨雲を移動させ、一瞬にして山火事を鎮火させた。それから凶悪な爪で飾られた前肢を合わせて「植物さん、動物さん、ごめんさない……悪気はないんだ……」と小声でぶつぶつ言いはじめる。これはおかしいぞ、と俺とラドレが顔を見合わせていると、龍はこちらに向き直り、「よし、やりなおすぞ!」と微塵も迫力がない咆哮を上げた。
「すみません、貸しひとつ回収させてほしいんですけど!」
ここでラドレが素早い一撃を言葉に乗せる。
「あ、はい」
共工も共工で素直に応じてしまっているあたりを考慮すると、俺もラドレが考えているであろう作戦に全面的に賛同せざるを得ない。
「あの、『どしたん話聞こかタイム』お願いします」
「それはどういう……?」
親切にもその最低のネーミングセンスを気にせず、律儀に応対してしまっている彼は、予想通りにぐいぐいと攻めるラドレに圧倒され、弱気に後退していく。
「あ、ちなみに口説くとかそういうんじゃないです。悪いけど」
「それは向こうもわかってるだろ。なんでいついかなるときもモテると思ってんだよ」
そう指摘すると、ラドレは無言で俺の耳の後ろをがしがしと撫でてきた。別に嫉妬しているわけではないと主張したかったが、今は黙っておくことにする。
「えーと、言いたいことあるなら聞くよって。そしたら貸し借りチャラで」
引き続き俺の耳、それから頭を撫でながらラドレは言った。もしかしたら緊張しているのかもしれない。神に向かって「話聞こうか?」は流石に不敬と捉えられてもしかたがないのだから、彼も反撃のひとつやふたつは覚悟しているはずだ。ラドレの提案に、共工は暫し躊躇うかのように俺たちと、それから大分薄まった黒雲の向こうの下流の街並みを交互に見つめていたが、やがて顔を上げ、
「じゃあその、もしよろしければ。愚痴きいてほしい、かも、です」
とおずおずと申し出てきた。その禍々しかったはずの瘴気はとっくに消え失せ、まるでコンパクトな設備で飼育ができる爬虫類のように愛嬌のある目でこちらを窺っている。
「うん、いいよ。じゃあとりあえず雨はさ、止ませよう。ね?」
ラドレは穏やかに頷いて、彼を鳳凰大橋へ移動するように促す。俺もゆっくりと橋へ向かい、ラドレを降ろすと、ひとまず猫の様子を見に行った。お嬢ちゃんの用意した暖かな防壁の中で、ぴゅうと鼻を鳴らしながら二匹折り重なって眠っていることを確認した途端、安堵に大きな溜め息が漏れる。
「うっわ、かっこい……中華ファンタジーじゃん」
ふとそんなラドレの声がして振り返ると、ちょうど黒衣の男が橋の上に降り……いや、その凄味を表現するならば『降臨』するところだった。大きな翼をばさりと震わせて水気を払うその姿は確かにファンタジックで、額から生えた二本の角にも迫力が溢れている。ラドレが言うように、まるでファンタジー小説の挿絵のようだ。血色の悪い肌色に、深い隈。見るからに陰鬱そうではあるが確実に美男子の部類だ。全体的にモノクロな色合いのなかに、夕暮れどきの空のように柔らかな朱色の髪がぽっとあたたかく映えている。
「ゴス男子じゃん! 超需要ありますよ? もうちょっとオラオラしてみません?」
ラドレがどこか的外れな発言をしているところに、俺もヒト型形態に戻って「需要の有無で価値を量るなよ。たとえ需要がなくても生きてりゃそれでいい」と会話に加わる。すると共工は俺の手を取って、「そう思ってくれますか!」とその暗い色をした目を潤ませた。一瞬にして面倒くさいタイプだと察したが、それは態度に出さず、ラドレならば話が合うだろうとその冷たい手を彼に引き継いで二人に背を向ける。橋の欄干に肘を乗せ、とっぷりと暮れた空の下、真っ暗なままの下流方面を見渡せば、雪橋にだけ灯りがともっていた。お嬢ちゃんになら見えるだろうと手を振ってみる。もうすぐ帰るぞ、と心の中で呼びかければ、灯りのひとつが揺れた気がした。思わずふっと笑った声が、湿り気を帯びた風に巻き込まれて街へ下っていく。降って湧いたような切なさに、堪らずインカムをお嬢ちゃんに繋ぐと、「見えましたよ」と優しい声がした。
「そうか。もう少しでそっちへ戻る」
「目標は?」
「ちいさくなってラドレに愚痴ってる」
「ふふ。計算通りです。きちんと連れ帰ってきてくださいね」
「ああ。そっちは?」
「特に大きな被害もなく、怪我人もいません。あなたたちは?」
「若干寒いだけだな」
「そう。あたたかいものを用意して待ってるね」
声が沁みる。風でぶわりと余韻が掻き消されても耳に残るその、落ち着いていて、可愛くて、さらさらとした耳障りのヘルツ。ギャンギャン泣いていても可愛かったあの声が今大人のそれになって俺の耳を相変わらず震わせている。そして月日を経るごとにあの子がどんどん泣かなくなったことを思い出し、吐胸を突かれる思いのまま、
「……うん。待っててくれ」
と返事をして通信を切った。ふっと戻ってくる静寂のなか、ラドレと共工を振り返ると、彼らはしゃがんで話し込んでいた。そこに向かって「コンビニ前の不良か?」と呼びかけると、ラドレの手招きに従って彼らの輪に加わった。「うわ、キミがしゃがむとガラわるーい」「お前もじゅうぶんガラ悪いぞナンパ師」……ラドレの腕が俺の首に絡む。絶妙にあたたかくもつめたくもなくて、それがなんだか愉快だ。
「じゃあ僕から説明してもいいかな?」
俺と肩を組んだままラドレがそう切り出すと、目の前の陰気な男は行儀のよいしゃがみ姿のままこくりと頷く。なんというか、あれだけ威張った態度だったくせ、実際は可哀想なくらい気が弱い。これで本当に洪水を起こそうとしたのか……という疑念は、これからラドレが晴らしてくれるのだろう。俺が期待を込めた眼差しを向けると、ラドレは居住まいを正し、それから自らの膝を叩いて語りはじめた。
「こちら共工のティンリュウさん。ぼっちが高じて……って、ぼっちって高じる? ええと、ぼっちがいきすぎて他害的な思考になってしまっていた現状を打破しようとマチアプに登録したものの、通算成績惨敗。自暴自棄になりセンチメンタルジャーニーしにこの古城にやってきたところ、なんと憎き瑞獣たちが集まっているじゃありませんか! しかも話を盗み聞いたところその目的は『お見合い』……しかも、相手が超可愛い。乳もデカい。めっちゃタイプ。そう、その正体は我らが王ちゃんだ! ここで彼は持たざる者と持つ者の格差に愕然とし、沸々と怒りがわいてきた。──ぶちこわしてやる。洪水を起こして台無しにしてやろうと着々と準備を整える最中、彼はふと思い出した。この旅で古城の人々が優しくしてくれたこと。ちょっと荷物を運んでやったくらいでご老人が喜んでくれたこと。買い物をしたらおばちゃんがトウモロコシパンをオマケしてくれたこと。中国語が読めないでいる観光客に通訳してあげたらなぜか『親切なコスプレお兄さん』としてショート動画アプリでバスったこと。やっべ……彼は焦った。そうだ俺は神だった。俺が軽率な行動をとると人々が巻き込まれるのだ。しかしそれを察した頃には避難指示が出ており街は大混乱。もうやめたらよくない? と彼は思う。しかし神が手を振り翳したのに、ここでやめるだなんて面子がよろしくない。……誰も俺なんか見ていないとわかっていても彼はなかなか拳を降ろせなかった。吐いた唾を飲み込むことは高位になればなるほど難しい。真反対の意見が衝突し合い、混沌が増幅し、天と地すら創造されそうな自意識のなかで、彼は助けを求めていた。誰か俺を止めてくれ……どどん! そこに現れたのが僕たちドレエット高校アメフト部! 紫の雷と黒い狼を従えたなんとも麗しい騎士がこちらに向かってくるではありませんか! ばちばち! 雷鳴轟き風吹き荒れて、葛藤を胸に後にも退けぬまま、いざ決戦の幕が……」
「この落語、いつ終わるんだ?」
耐え切れず話を遮る。もうとっくに脚を崩してアスファルトに直接座り込んでいた俺とティンリュウはこれまでに何度も姿勢を変え、脚を伸ばし、欠伸をしてラドレの話が終わるのを待っていたが、なかなか終わらない。特別可哀想なのは自分の恥の軌跡をじっくりと聞かされていたティンリュウだ。話の後半から体育座りになり、膝に額を伏している。怪我もしているのに妙に辛抱強く、そういうところが事の発端にも繋がるのだろうということが察せられて、なんだか俺まで気まずかった。
「待って、まだ『おあとがよろしいようで』って言ってない」
舌にスポーツカー用エンジンでも搭載しているのか、まだまだ話し足りないといった様子のラドレの額を叩き、「別にあとに誰も待ってねえんだよ」と吐き捨てると、ようやく彼は口を閉じた。
「お前は猫連れてこい、猫」
「あ、そうだった。ちょっと行ってくる」
慌ただしく橋の袂へ駆けていくラドレの背を目で追いながら、今度は俺が黙り込んでいる黒い龍に語りかける。
「全部聞いちゃいないが、あとはどう自分でケジメつけるかだろ。幸い、死人も怪我人も出でないらしいぞ。これから鳳凰のところに連れていくから、しっかり大目玉喰らっとけ」
「うう……はい」
「そのときの行動や発言には勿論責任を負わなくちゃならないが、あとから撤回してもいいんだ。過去の自分より今の自分のほうが、手に入れた論拠が多いぶん正しいとみていいからな。そして今より未来の自分のほうがよりよい選択をすると信じるんだ。それが成長ってことだろ」
もう頷くだけになった彼が脚を正座に組み替えようとするのを、「やめろって」と小突いて崩していると、背側からラドレが俺たちを呼ぶ声がした。「ふたりとも見て! 綺麗だよ!」
猫を抱いて駆けてくる彼の指すほうに視線を向けると、欄干の隙間から下流の街並みがライトアップされているのが窺える。立ち上がってその全貌を望めば、そこには背骨がふるえるほどの絶景が待ち受けていた。断線していた電気が復旧したのか、あるいは時間通りにスイッチが作動したのかはわからないが、色とりどりの明かりが、暮れ空に向かって命の営みはここに在ると吠え上げている。それらを鮮やかに映しだす川面の黒い水鏡は、まるで一匹の龍のように古城の街並みを穿っていた。今は無人でも、やがて人々はここに戻ってきて、明日のために復旧作業を急ぐのだろうという予感が、街全体を真昼のように輝かせている。
「まったく、これを水没させようだなんていい度胸していやがる」
「反省しています……」
俺の隣でそう言って縮こまるティンリュウは、それでも睛に俺たちと同じひかりを映していた。これでもう大丈夫だろう。少なくとも、彼が心変わりをするまでは。
「街の復旧作業を手伝いたいと、鳳凰に言ってみるつもりです」
風に吹かれて彼の髪がはためく。それはまるであたたかい色の復興旗だ。それから猫を撫でながら絶景に見入っていたラドレが、思い出したかのように「おあとがよろしいようで」と言って防衛戦を締め括る。戦いのあとに待っているのは、もちろん復興だ。
魂を燃やせ。起死回生、ファイト、オー。……鳳凰の治める地でそれを言葉にするのは、すこしこそばゆいが。
三人と二匹でお嬢ちゃんが守っていた雪橋に降り立つと、他の四人はなぜか鍋を囲んでいた。どこから持ち出してきたのか、ウッドストーブの上に置かれた大きな鍋には白っぽい色のスープが煮立っており、その中でごろごろと具材が躍っている。
「なにしてんの?」
ラドレが四人に声をかけると、シャンスゥが「あ、噺家さんご一行がお帰りだよ」と顔を上げる。それから俺の斜め後ろにいたティンリュウの姿を認めた途端、彼は鍋の面倒を見ていたザントンを促して「吊るせ吊るせ!」と今回の罪人に詰め寄った。拘束され怯えるティンリュウに向かって、シャンスゥが「生薬コースだねえ? 高値で取引してあげるよ」と物騒なことを言ったところで、リーユーが「やめてあげなさい」と割り入る。
「ラドレさんの話によると、十分反省はしているみたいだし」
その言葉に、全員に通信を入れて意気揚々と語っていたのかコイツは……と察してラドレを振り返ると、彼は呑気に「社長辞めて噺家になろうかなあ」とぼやきながらウッドストーブの前に猫二匹を降ろす。すると衣類の隙間から這い出た母猫は火の前で大事そうに腹を舐めはじめた。それから疲弊して眠ったままの父猫を放って、にゃおんと図々しく餌を強請る声を上げた。
「よしよし、身重かいお嬢さん。豚モツが余ってるからあげようね」
優しい声でそう言って、リーユーはベンチの隅に寄せてあった袋の中から食材を幾つか皿に盛って猫の前に差し出したようだ。一心不乱に食らいつくちいさな頭を撫でながら、彼は背中で続ける。
「一応、私はこの地を治めている立場だから、私情に駆られて人間社会に害をなそうとしたその行動を到底認めることができないし、相応の罰を与えなくてはならない」
「……わかっている」黒龍は頷く。
「さいわい、怪我人はいない。ペットや貴重品を持ち出せる程度に猶予を持たせたのはお前の心に躊躇いがあったからだろう。建物も不自然なほど倒壊していない。……しかし観光地であるこの土地が受けた経済的損害は中々のものだし、人々は明日の生活を思って不安になったことだろう。これらの状況を総合的に判断すると、復旧作業の手伝いだけでは到底足りはしない」
束の間、楼閣内に鍋がぐつぐつと鳴る音と、猫が餌を食べながらむにゃむにゃと喋る声だけが響く。ランタンとストーブでぼんやりと明るい空間に、角のある影が不安げに揺れていた。
「うちで働きながら、猫を飼いなさい。子猫を育てて、里親も探して」
そのぽつりと響いた甘すぎる罰に、シャンスゥが「兄貴、甘すぎじゃない?」と不服に尖った声を上げる。するとリーユーはわざとらしく威厳があるように装った声で「うちで働くのが甘いと思うのか?」と反論する。「甘いよ。休日出勤百年でも足りないね!」「生き物は休まないと病むんだぞ。それでは効率が悪い」……ふたりが諍う声で却って雰囲気が和やかになっていくのを感じ、ラドレと顔を見合わせて笑っていると、お嬢ちゃんが「ああもう、ウォーウーラです!」と声を張った。
「もうぺこぺこ。はやく食べましょう」
するとザントンが待ってましたと言わんばかりに鍋に駆け寄って、炊き出し用の簡易食器にその煮込みを盛り付けはじめる。それを手伝いながら「これはどういう料理なんだ?」と問えば、ザントンは「全家福です!」と教えてくれながら嬉しそうに鍋を指した。全家福……直訳すれば、家族の肖像、といったところか。
「要は寄せ鍋すね。家族や友人の集まりが幸せに、団欒であるようにという願いが込められているので、こういうハッピーな名前がついたとか。今日明日はリーユーさんの店も営業できないと思って、さっき残り物を貰ってきたんす。他にも避難を手伝った屋台のおばちゃんたちがくれた食材とかも入ってます。本当はもっときれいに盛りつけたりするんすけど、気にせずごちゃっと、なんでもあるものを入れました。そのほうがなんかいいでしょ?」
「そうだな。ああ、あんなに食ったのにもう腹が減った……」
「おかわりもいっぱいありますよ!」
全員に……ティンリュウにも椀を配って、ラドレと一緒に床材の石の上にそのまま腰を下ろす。するとお嬢ちゃんがぐいぐいと俺たちの間に分け入って座ろうとしてきので、慌ててなにか敷くものを探そうとしたが、あっという間にお嬢ちゃんはそこに落ち着いてしまった。仕方なしに俺とラドレでぎゅっとお嬢ちゃんを挟んで、そのささやかな慰労会を開始する。プラカップで酒を煽り、全員で盛大な溜め息を吐けば疲弊した空気に笑顔が咲く。
「ああ、やりきったな」
脱力したリーユーが眉を下げるのに、
「そうだね。やりきったは、やりきった」
と、まだ若干不服そうなシャンスゥがその肩を叩き、ザントンが遠慮しているティンリュウに、
「ほら食べて食べて」
と促すと、その罪人は控えめに笑った。きっと、久しぶりに笑ったに違いない。
それぞれの会話をざわざわとした環境音のように感じながら、全家福とやらのスープを口にすると、まずは味よりなにより先に、急速に舌が温まるという幸福感に溜め息が漏れた。その熱が耳を温め、喉を下って、腹に落ちていくのを感じながら、ふたくちめを啜ると、やっと味がする。鶏スープと思しきベースに、具材のものと思われる複雑な旨味が染み出していて、印象としては濃厚に感じるが、重たくはない。ザントンの腕なのか、それともこの料理本来の特性なのか、塩味も風味も口当たりもなにもかもがちょうどよく、ほっとする味だ。香りには肉とモツ、魚とその内臓の気配があるが、生姜とシイタケお陰か臭みはなく、ただただ『ごちそう』の特別感に満ちている。たっぷり入ったとりどりの具材の中でも特に目立つのは、薄焼き卵でひき肉をロールしたものと、なにかのフライ。試しに食べてみれば、揚げ肉団子のようだ。ゆるめの生地がじっくりとスープを吸っていて、とろりと美味い。
「あ、うずらの卵入ってる。嬉しいな」
「むふん。この卵とお肉のぐるぐる、ハオチーです」
「ほら、キクラゲもちゃんと食べなよ」
「キクラゲ、なに、ですか? 葉っぱなの?」
「キノコ。キノコは葉っぱじゃないから食べられるよね? なにその顔。食べなさい」
疲れとぼんやりとしたぬくもりで言葉も出ない俺は、ただラドレとお嬢ちゃんの会話に耳を傾ける。お嬢ちゃんがリーユーとふたりでこの本陣にいるときにその仲は進展したのか。シャンスゥとザントンはいつ戻ってきたのか。計算通りとはどういうことなのか。……訊きたいことがいくつかあったが、今はそれを切り出す気力がない。しかし気持ちだけは晴れやかで、今こうして皆で火を囲んで笑顔で、誰も厳しい追及を受けなくて、猫が呑気に眠っているだけで、ただただ幸せに思える。こんなふうにやさしく曖昧な、ぼんやりとしていてすこし眠いような感覚に身を浸しているのも悪くない。
「言いたいこと、ちゃんと言えました?」
ふと、お嬢ちゃんが俺の肩に頭を預けながらそう言った。そのちいさな頭を撫でながら、意を決したというよりは脱力した心地に押し出されるようにして、
「俺もヤキモチやいてます」と声にする。
「また出た、ヤキモチなるもの……」
お嬢ちゃんは不満そうに唇を尖らせるが、これが俺の今の本心で、言いたいことなのだ。たとえキミには理解がむずかしくても、言葉にすると、そうなってしまう。だから臆せず口にする。キミのためだなんて考えずに。
「キミが好きなんだ」
沈黙。風に火が揺らぐ音がぶわり。
「……キミの言いたいことはあるかい」
返事は聞かずにそう促すと、彼女は尖らせていた唇をむっと不機嫌に持ちあげて、それから椀に目を落として、言った。
「あなたの、からだを、他の人に、見られたくない……」
ふるえる告白。焚火にゆれる遺憾の眼差し。じわじわと赤くなる可愛い耳。その予期せぬ『言いたいこと』に、目を剥いて言葉を失っていると、ラドレが憤ったような声で「誰かこの男に服!」と皆に喧伝する。「おあとがよろしいようでえ!」
裸にしとけよ、と俺とお嬢ちゃん以外が一致団結、全会一致。あっという間に話題は流れ、しかし直後にザントンが「麺入れましょう麺」と業務用中華麺三キロパックを取り出したことで場は阿鼻叫喚の様相を呈する。そんな穏やかで騒がしい宴席で、夫婦の猫が呑気に眠る。
End.
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