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【SERTS】scene.16 DAYBREAK RAMEN



※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG12~15程度)
※環境依存文字の入った料理名はカタカナ表記にしています。ご了承ください。



 広東省湛江市は、雷州半島の先端に位置する中国本土最南端の港湾都市だ。瓊州海峡を挟んでおよそ三十キロメートル先には海南島……海南省を望むことができ、マングローブ林が広がる沿岸部は、ラムサール条約にも登録されている自然保護区となっている。特産品は南方らしくパイナップルやサトウキビ。フランスの租借地であったこともあり、今でも建築物などにその名残を残している。
 昨日までの僕たちは、湛江市の中心部でほぼ廃墟と化したフレンチコロニアルな建築群やカトリック教会、それから旧フランス大使館などを見て回って過ごしていた。基本的に温暖ではあるがこの時期は悪天候の日も多く、外に出られない日も間々あったが、ホテル内のレストランで広東料理を楽しむことができたので、退屈はしなかった。特に飲茶が美味いのが良い。そうして存分に料理と観光を楽しんだ僕たちは、けさ徐聞県へと移動した。ここは本土最南端の街として知られ、『中国最南端』と書かれている石碑や灯台などが人気スポットとして扱われているような、わかりやすい観光地なのだが、なによりも自然とそれらに溶け込む街並みが美しい。南国特有の、のんびりとした時間の流れのなか楽しむ、南方の植生。白い浜。多彩な海鳥。そんな原生的な自然と異国情緒に溢れた温暖な土地を、サマードレスを纏った王と手を繋いで歩く。屋台で買ったアイスコーヒーを片手に浜へと歩き、向こうの海南島へと想いを馳せる。ここで数日のんびり過ごしたのちに、フェリーで海南省の省都である海口へと移動し、高級リゾートで思いっきりラグジュアリーでアクティブな夏を過ごそうという企てである。水着も新調する予定だ。
「ああ、眩しい……」
 つばの広いストローハットを被った王が、目を細めながら胸元に挿していたサングラスの弦を開く。「でも海って、スキだわ」……浜の照り返しを受けるその頬は少し赤く、しかし指の背で触れてみるとひんやりとしていた。
「おまえの手はつめたくていいわね」
 そう言って僕を見上げるその眼差しはぽうっと曖昧で、陽光と浜の眩しさにやられてしまったのかと心配する反面、僕はじわりと欲情してしまう。なのに僕は普段の調子で「ホテルに戻りたい」とは口に出せずに、ただ「僕のコーヒー飲む?」と、手にしていたプラカップを王の頬にあてがうことしかできない。その中の大粒の氷が涼やかな音を立ててくずれたのと同時に、心地好い風が吹く。ざあざあと鳴る椰子の葉。僅かに舞う浜砂が吹きつけて、サンダルの隙間の肌がちくちくした。
「いえ、新しいのを買います」
 僕の手にしたカップを押し退けて王は微笑むと、「チークが落ちちゃう」とつづけて、濡れた頬を手の甲で拭った。そして僕にここで待っているように告げると、ビーチサイドの屋台群に向かって振り返らず駆けていく。
「今日は、チーク、塗ってないんだけどな……」
 海鳥の鳴き声で、なかったことになった呟きを引き摺るようにして、海を振り返る。潮風に剝き出しになる額に照りつける太陽は、まだ夏の盛りを迎えてはいない柔らかさだ。目を閉じてオレンジ色の光の中にじんわりと染み入る。ああ、僕は少し疲れているようだ。それはきっと王も同じに違いないのに、しかし同調はしていないような、さびしくて悲しい感覚がここのところずっとある。僕たちはもう一ヶ月以上、身体を重ねていなかった。
 発端は浮気バレ。そりゃそうだ、と納得もするし、普通の感覚ならレスになってもおかしくないと理解もしている。でも僕はどこかで「僕たちの関係で?」と疑問に思ってしまっている部分があって、主人を守護する役目と引き換えに肉体的な恩恵を授かるという、主従契約の基本が順守されていない現状を、かなり不満に思っていた。浮気されてもセックスに付き合えとは言いたくないのに、「これって浮気なんですか?」という、『バレたこと』それ自体に対する疑念もある。だって、僕たちは恋人同士ではないのだ。しかし王に対する申し訳なさは確実にあって、それはハリエットが「とっくにバレてる」と切り出し、僕に開示した内容によって、胸の裡でじわじわと拡大しつづけている。王はずっと、僕が他の女(と、男)に性的な奉仕をしていることを知っていた。いや、僕以外の視点からすればそれは『奉仕』ではなく、『愛着』と捉えられてもしかたがない。そして直近で肉体関係があったわけでも、ビジネスの関係でもない現地女との日常的なやりとりを匂わせた時点で、僕はとっくに終わっていた。終わりが上振れていた。王は旅先というどうしようもないシチュエーションで、決定的に孤独になったと思ったことだろう。言ってしまえば、契約を切られてもおかしくはない状況だ。しかしそれでも、王は僕に笑顔で接してくれる。笑顔で僕の裾を引いてくれるし、手を繋いでくれる。頭を撫でてくれる。だから、まだやり直せると思い込んでしまう。そんな保障はどこにもないのに、「まだまだバカンスは続くのだから、ふたりやりなおさなければならないはずだ」という打算が心の奥に昏い火をともしていた。
「ねえ、あっちでおもしろいことをしていましたよ」
 南国らしくカラフルなジュースを手に、王が戻ってくる。きれいな笑顔だ。
「なあに、なにがあったの」
 王に手を取られながら問うと、僕の手を軽く握り込んだ王はううんとね、とわずかに首を傾げて、いまさっき見てきたものを説明してくれた。
「竹……かしら。竹竿にね、ヒトが乗って、こう……なにかの生地を延ばしていたの。シーソーみたいに」
 そのいそいそとしたジェスチャーは難解ではあったものの、説明には思い当たるものがある。
竹昇麺ジョッセンミェン、かな? 確かに広東名物だ」
「それはどういうもの?」
「キミは食べたことがあるんじゃない? 香港の雲吞麺なんかに使われている麺だよ。細くて、コシが強いやつ」
「むん。ではまた雲吞麺が食べられるということでしょうか」
「それはお店によるんじゃないかな。行ってみようか」
 そう提案すると、王はにっこり笑顔で頷いて、僕の手をぐいと引く。そのせいで、思い上がってもしかたがないじゃないかと悲しくなる。僕たちはずっと一緒で、どんな試練も乗り越えられるのだと、信じたくなる。海口に行くまでに仲直りしたいな……とぼんやり祈りながら、しかし強く王の手を握った。
 王の案内で訪れたそこは、どうやら飲食店を併設した製麺所のようだった。荷台に段を成したバットを括りつけた原付バイクが、市街地へ向かって出発するのを横目で見ながら、その通りに面したショーウィンドウを覗き込めば、中で老練の職人が麺を打っていた。奥に取り付け口でもあるのか、壁の穴から伸びる太い竹竿に、彼は片脚を乗り上げるようにして体重をかけ、生地に圧力を加えている。その場で調べてみると、生地はアヒルの卵で練られており、他に水分は加えられていないのだとか。
「このタイプの麺はいまだに機械じゃ再現できないみたいだね」
 王にも調べた内容を噛み砕いて伝えていると、店の中から老婆が出てきて「あんたたち、寄ってくのかい。そろそろスープが切れるからね。食べたいなら入んな」と僕たちを店内に誘う。王を見ると笑顔で頷いてくれたので、その肩に触れて進むように促した。……指先だけで。
 店内は観光地にあるとは思えないほどそっけない内観をしていた。無骨な木のテーブルと、破れたクッション部分がテープで補強された丸椅子。黄ばんだ虫除けに、日に焼けたメニュー。業務用品店でまとめ買いしたであろう卓上アイテム。客席エリアと厨房の境目辺りには山積みにされた白菜、ネギの段ボール、大きなビニール袋に入った牛骨……その『ただの商売の場』とでも言いたげなシンプルさと、客への無遠慮さがかえって好ましい。しかし店の誰かがカメラを趣味にしているのか、はたまた『していた』のか、壁には古ぼけた青い海の写真が何枚も飾られており、僅かではあるが内装に彩りを添えている。それらは今ではもう超レアといって差し支えない、フィルムカメラを使って撮られているようだった。
「残ってるのは牛骨スープだよ。牛腩麺ニウナンミェンでいいかい」
 セルフと書いてあった水を持ってきてくれた女将が、そう確認してきたので「お願いします」と笑顔で答える。すると彼女は、椅子に腰を下ろして視線の合うようになった僕を見て「あれまあ美男だね。髪は切ったほうがいいよ」とお節介を言って笑わせてきた。
「僕の髪、短いほうがいいって。王はどう思う?」
 冷えた水を飲んでから王にそう問いかけると、向かいに座った王は帽子を脱ぎながら「どっちも……」と言いかけて、それから「なんでもないです」と手元のグラスを指で弄りはじめた。僕は「どっちも、なに」と追及したかったが、ふと王の指を彩るマカロンカラーのネイルの上に置かれた、キラキラのラインストーンが一部取れていることを認めて、その手を取る。「帰ったら直そっか。次は何色がいい?」引き寄せて、指先にキスをする。「……オレンジと、マリアライトみたいな、紫色。あと、ちょっと青……」「夕暮れみたいだね」「おまえの、目の、色」
 目を瞠る僕と、僕の目を見ない王は、向かいあって、ただ手を繋ぐ。
「本物をよく見て、もっと、細かく注文してよ」
 交錯しない視線が空しくて、眼鏡をずらしてテーブルに身を乗り出すと、王は「まるごとぜんぶ正確に覚えているわ。わたくしのお星さまだもの」とただ微笑んで、壁にかけられた写真を見上げた。僕たちの卓に飾られているのはサンセットビーチの借景……オレンジと紫と、ちょっと青。僕は王のおだやかな横顔を視界に留めて、それから沈黙のなかゆっくりと目を閉じる。するとあのときの玉座の間の様相が昨日のことのように浮かび上がって、一瞬心臓がばくりと怯えた。落ち着いて、呼吸を整える。もう怖くない。これはフラッシュバックではなく、妄想だからだ。もう王は傷つかない。……いまここにいるから。意志を確かにして、傷というより、孔だらけの王を抱き起こす。なにもできなかったくせ、駄々を捏ねる。遠くのシュプレヒコール。王は細い息を漏らし、耳を澄ませてその外の声ではなく、の泣き声に耳を澄ませているようだった。そして。
「わたくしは、あなたのその目の色が、いっとう好きだった」
 そう言い残して、王は眠りに落ちた。
 ああ、そういえばあのときの王もを「あなた」と呼んでいた……。
「はい、牛腩麺ニウナンミェンふたつね」
 唐突に意識下に響いた声に瞼を開くと、女将が盆を手にしてテーブル横に立っていた。慌てて王と繋いでいた手を離すと、広がったスペースに湯気を上げる麺鉢がふたつと、それから茹で雲吞の乗った平皿が置かれた。雲吞は注文していないはずだと女将を見上げると、彼女は「雲吞麺のが余ったから食べなね」とさっぱり言って、厨房へと戻っていく。その背中に感謝を告げ、王に割り箸を渡して「雲吞麺にもできるね」と笑いかければ、「わほほ」と嬉しそうな声が返ってきた。
「むん。以前食べた雲吞麺とは違うスープですね」
 スープをひとくち飲んで、王はそう感想を口にする。
「前はどういう感じだったの」
「ええと、たしか、ヒラメとかいう、コンブの仲間でした」
「それはどういう……ああ、平たいからヒラメとコンブは仲間って言いたいんだ?」
「そう。そうです。おまえはジーニアスね」
 いや、これは流石に付き合いが長くなければ察することができないであろう王独特の感覚だ。ハリエットがジーニアスじゃないわけではないと言いたかったが、黙ってスープを啜る。黄色がかったクリアなスープは牛骨特有の香りがあるが、それだけではない。チキンと、他には海鮮系の風味もある。特に僕の鼻には強く感じる、この慣れない魚っぽさの正体は、やっぱりヒラメだろうか。動物性のダシが多いものの、雑味はなく、あっさりとした塩スープといった風情だ。麺にはしっかりしすぎているくらいのコシがあり、卵の風味が豊かで食べ応えがある。
「麺、すごいね」
「ええ。ずっと口の中にいます」
「面白い表現だね?」
 眉間に皺を寄せながら口をもちもちと動かし続けている王を見ていると、思わず笑みが漏れる。食べているときの表情も、昔よりずっと豊かになった。NYにいた頃、王は食事中もずっと同じ表情で微笑んでいたのだ。それはただ『不快なことがない』ことを示すだけの表情で、それ以上でも以下でもなかったのだと、今になっては思う。しかし、びっくりしたり、好きだと思ったり、ちょっと嫌だなと感じたりといった、そういう機微をすべて包み隠すあの笑顔は、単に王の感情や感覚が平淡であったことを示すのものではない。王は、きっと僕を心配させないようにしていたのだと、今ならわかる。
「んふふ、おにくがいっぱい」
 王の嬉しそうな声が聞こえたと思った瞬間、肉を箸から取り落とした水音がした。心配する僕の視界で、めげずに今度は肉をまとめてふたつ摘まんだ王は、おおきなひとくちでそれらに齧りつく。するとすぐに「ふんふん」と鼻にかかった声がして、その機微に嬉しくなった僕はひとり笑顔を浮かべて、
「ハオチー?」
 と、王に問うた。
「ふふーん」
 王の髪の毛先が、その感情に連動して動くということに、僕は最近になって気がついた。どうやら王は手足と同じように髪も動かせるらしく(魔女の中にもこのように髪を扱える者がいる。彼女は第三の手のように髪を操り、身繕いや紅茶を淹れるなどの動作をこなしていて、非常に便利そうだと思ったものだ)、それらが「るん」と動くさまは、まるで感情表現豊かな尻尾でも見ているかのようで、僕の心をあたたかくする。もしかしたら今までもずっとひょこひょこ動いていたかもしれないそのサインに、ハリエットはとっくに気づいていたりするのだろうか。そうだとしたら、そのおかげで彼は王の感情の変化に敏感なのかもしれない。……僕も肉を齧る。
「うん、ハオチーだね」
 麺の上に乗った牛腩(牛バラ)は壮観で、大きくぶつ切りにされた塊が大量に入っていた。素の色をしていたので、てっきり塩茹でにでもされているのかと思いきや、存外にもスパイスが効いている。ほんのりと甘く、白胡椒の気配があり、やわらかいのにぎっちりとした適度な歯応えがあって、単品でも注文したいくらいの美味さだ。これと同じスープで煮ているらしい白菜が、へとへとしているのもかえって嬉しい。肉の旨味を吸いきっている。王の手元を見ると、予想通りに白菜は除けられてはいなかった。
「むん、やっぱり雲吞のエビが大きいのです」
 齧った雲吞の断面を見て、王は目元をとろりとほぐす。それにつられて口に放り込んだ雲吞は、エビがゴロゴロ……というより、ほぼそのまま入っていた。つみれになっている部分もあり、お得感満載。そして癖になるほどプリプリで、雲吞麺が先に売り切れるのにも頷ける。
「ハリエットとのラーメンデート、楽しかったでしょう」
 こんなに美味しいものが華を添えていたのなら……と付け足すまでもない。王は「ええ」と星のきらめくような笑顔を見せて、それから「おまえとも食べられてよかった」と続けた。その言葉に胸がきゅっと詰まったようになったのは、たぶんときめいたからだ。一瞬だが、泣きそうになった。
「ちょっと兄さん、これ読むの手伝ってくれるかい」
 食後、そろそろ出ようかと思っていた頃になって、女将がなにやら書類を手にしてテーブルに寄ってきた。老眼鏡と思しきものをかけているが、どうやら最新式のリーディンググラスではないらしい。しかし生い先短いであろう彼女に、高価なウェアラブルデバイスを買えと勧めるのも忍びないので、余計なことは言わずに隣の椅子を引く。
「もちろん。座ってください」
 常連と思しき客も老齢の個体が多く、若者が来ても馴染みのない観光客ばかりで、なかなか人に頼めないのだろうと推測する。配達の彼も忙しそうだった。
「歳をとるとねえ、よく見えないのもそうだけど、なにが書いてあるのかも正直よくわからなくなってきてね」
 相槌を打ちながら受け取った書類に目を通す。どうやら自治体からのものらしい。
「……ああ、暴力団からみかじめ料や用心棒代を請求されていませんか、っていうアンケートですね。記入もしましょうか?」
「お願いできるかい」
「ええ、ではペンを……お店の住所と店主のお名前は……これね。書きますね」
 普段より少し大きめの声で受け答えをするのは、彼女が僕が思うよりずっと歳を取っていたからだ。書類と、「旦那とは同級生でね」という話から察した彼女の生年は、人間でいえばそろそろ……と察しがつくものだった。その個体の年齢は見た目では判別できないというのが僕たち人外族の常識ではあるものの、彼らの外見年齢も昨今は僅かにではあるが変わってきている。
「ほんとにヤクザ屋さん、いない? 大丈夫?」
「ここいらは昔から大丈夫さ。いるとしたら近くても向こうの島だよ」
「ほんとね? ほんとのほんとね?」
 そう念を押して書類を書き上げると、女将は「助かったよ」と僕に礼を言って、それから飽きずに写真を眺めていた王を指して「かわいいお嫁さんだねえ。子どもはいるのかい」と問うてきた。お節介だなあ……と笑いながら、僕は少し迷った結果、「まだです」と真実でも嘘でもないことを言った。
「うちはねえ、子宝に恵まれなかったから。どっちかが逝ったらこの店はおしまいさ。配達は高校生のアルバイトに任せているんだけど、ジジババが倒れてるの見かけたらすぐ救急車呼べって教えてあるくらいには、いつお迎えがきてもおかしくなくてね」
「お弟子さんは?」
「いないよ。この代でうちの麺は終わり。でもほんとうの終わりだから、いいんだよ。この歳まで生きてこられたから、もう道半ばで幕が下りるとか、そういう残念な終わり方はしないんだ。やりきって終わる。清々しいねえ」
 そう言って彼女は「お代はいらないよ」と言って、そのまま店の奥へ行って戻ってこなくなった。出入口を見ると、いつのまにか外看板が店内に下げられている。
 外に出ると、僕は海を前に動けなくなってしまった。本土の最南端。のんびり、あたたかな終わり。たとえ子どもがいなくとも。終わらせようと思って終われればいいという、ゴール設定。……僕は、やりきって終われるだろうか。傍らで目を閉じ、微睡んでいる王を見る。この人は、僕の愛する人だ。幸せにしたいのに、いま幸せでない人だ。だからこのままでは終われない。ここは道半ばだ。

 ホテルに戻りシャワーを浴びたあと、王はバルコニーに出たかと思えば、手摺に飛び乗って両脚を外側へ投げ出すようにして座りはじめた。メールをチェックしていた僕が慌てて「危ないよ!」と声をかけにいくと、王は「へいきです」と背中で言って、そのまま静かになる。どうやら暮れの海を眺めているようだ。
「絶対に落ちない?」
「ぜったいに落ちません」
 約束ね、と続けて、僕は開いていたタブレットPCを閉じて冷蔵庫を開ける。帰路で買った缶ビールをふたつ持って、バルコニーに戻ると、王は「あら、いいですね」と微笑んでくれた。そのまま王の分のプルタブを開けてやろうとすると、王は自分でやると言って缶を受け取り、ネイルを引っかけた。すると、ぷつん、と音がして、ラインストーンが弾ける。それはキラキラの軌跡を描きながら眼下の浜へと跳んでいって。
「あー、不法投棄だー」
「む……わざとじゃ、ないので……」
「わかってるよ。ちゃんと爪、綺麗にしてあげるからね」
 乾杯をする。薄めのピスルナーが喉に染みた。手摺に肘を突いて王と同じ方向を見ると、オレンジと紫と、ちょっと青の空にアンタレスが輝いている。
「王、あのさ」
「なあに」
「僕の恋の話、きいてくれる」
「……ききましょう」
「……はは。やばいな、言い出しといて恥ずかしい……」
「じゃあ、とってもスキなのね」
「好きだよ」
 僕のことを見て! と刹那に祈る。すると王は、僕の頭を小脇に抱え込むようにして撫ではじめた。ゆっくり、やさしく、甘く慈しむように。
「あなたのスキなひとが、あなたにやさしくしてくれますように」
 瞬く間の祝福。僕の頭を撫でる王の手を握ろうとすると、王は僕の人差し指をそっと握った。「つかまえた」と呟いた僕は、握られた指を引き寄せるようにして、王の手を握り込む。
「そのひとは、たとえるならなに?」そう言って、王は僕の頭に頬擦りをした。
「ん? 星、かな……あとは、花……。ああ、殿下みたいに喩えがうまくいかないな。ていうか、殿下と同じことを言ってるし……」
「ふふ、まだまだねマリアライトくん」
 息が止まる。「まだまだだな、マリアライトくん」……と、かつてあの人も今の王と同じことを言ったのだ。
「ほんとにそっくりだな。びっくりする……」
 僕の動揺に王は、
「双子だもの。そっくりよ。考えることもおなじなの」
 と、すぐに僕の言葉に滲むあの人の存在を察して、また微笑んだらしい。ふっ、と懐かしむような吐息がきこえた。
「たとえば?」
「おまえを抱きしめたいの」
 その言葉に思わず王を見上げると、そっと眼鏡を外された。どちらともなくキスをした。導かれるようにしてその腕を引くと、王が腕の中に落ちてくる。それを抱き留めて、その場で六秒。それから、ベッドに移動しながらまた六秒。焦って乱暴に押し倒してしまって、合間に「ごめん」と呟く。「いいの」「ちょっと、やさしくできないかも」「うん」
 そのとき、スマホが鳴った。コール音だ。無視をする。音が切れる。服を脱がせ合っていると、また鳴る。「ちょっと電源切ってくる」と起き上がり、乱れた呼吸のままデスクの上のスマホを取りに行くと、薄闇にピンクのポップアップ。一瞬、どきりとしたが、拒否ボタンに指を伸ばす。そのとき、王は言った。
「出てあげなさい」
 思わずそちらを見ると、王は僕を見て微笑んでいた。そのおだやかな眼差しがあの人のそれと重なって、もうケリをつけなくてはならないと察して腹を決める。
「ちょっと待ってて。すぐ戻る」
 王にそう声をかけて、シャツの前を掻き合わせながら駆け足で廊下に出る。そしてオートロックがかからないようにドアノブに手をかけたまま、応答ボタンをタップした。鋭く、大きく、息を吸う。
「……ファユエンちゃん? 悪いんだけどもう」
「ラドレくんごめん。お母さんが死んじゃった」
 間。普段はおっとりしていて可愛い声が、びっくりするくらい震えていた。
「もう私のこと興味ないってわかってる。わかってるけど、ごめ、どうしたらいいのかわかんなくて。わたし、ずっと人間界にいるわけじゃないから、こういうとき、わか、わか、どう、えええと、あはは、ええと、どうしたら、ごめ……ごめ、ん、ね……あ、はは……たすけて……」
 動揺してほぼ過呼吸のようになっている彼女は、それでもなぜか笑おうとしていた。それはきっと絶望の中にあるにもかかわらず、僕に対する申し訳なさを優先させているからだ。
「ご、ごめん、あの、手続きとか、だけでも、教えて……あと、大丈夫って言って……」
 悲鳴のようなのに、笑っていて、ガクガクにふるえて縮こまっている声、息、意識。ああ、か弱き、小娘。
「……落ち着いて。息吸って。大丈夫。大丈夫だよ」
 返事はない。息だけがある。
「……お母さん、そこにいらっしゃるの」
「う、ん……ずっと、介護、してて、私……私、お母さんのいない人生、わかんない……」
「そうだね。そうだね……ジャパーボエ?」
「え、えっと、ヤーボェ……なんでいきなり台湾の人みたいなこと言うの?」
「ヤーボェか。空腹のときに大変なことに向き合っちゃいけない。なんでもいいからお腹に入れておいて。無理な話かもしれないけれど」
「わかった……ごめんね、いきなり電話して、あとのことはその、メッセージで、いいから……ごめ……どうしよ、人生。あはは……ぜんぶもうなんにもないよ……いみ、わかんないな」
 息を吸う。ドアノブを強く掴む。ドアに頭を一度強く打ちつける。ごん、と鳴った鈍い音が人のいない廊下に吸音されて、なかったことになる。
「待ってて、行くから」
 返事を待たずに通話を切った。それからできるだけ感情を出さないように気を張りながら部屋に戻ると、王はこちらに背を向けてベッドの端に腰を下ろしていた。まだ乱れたままの着衣が悲しい。「王」と呼んで切り出そうとする声が存外に震えてしまって、慌てて咳払いをすると、王は「ききましょう」と背中で返事をした。
「……その、今、連絡がきた子が、お母さんが亡くなったって」
 正直に告げる。それはまるで懺悔のようで、其の足元に膝をつこうとすると、王は片手でそれを制した。
「そう。それでおまえはどうするの」
 凪いだ声だった。隣に腰を下ろすと、王は寒そうね、と笑って僕のシャツのボタンをゆっくりと留めはじめた。
「……こっちのことに、詳しくない子みたいで。手続きとか特殊だから、僕は……助けてあげたいと、思う」
「そう」
 王は頷く。僕ではなく、窓の向こうの海を見ながら。
「おゆきなさい、我が騎士よ。レディにやさしくするのがわたくしの騎士としての当然の務めですから。……わたくしはおまえを誇りに思います」

   *

 負けたかな。そう思って、無意識にタバコの定位置に手が伸びた。しかし俺はもう禁煙しているからそこにはなにもなくて、脱力したままデスクチェアをぐるりと回す。夕暮れどきのバルコニーで、なにやらロマンチックな問答をしていたふたりが抱き合いながら室内に消えていったのを見てしまった。クソが、と悪態吐きたい気持ちと、よくやったと言ってやりたい気持ちで胃の中がじっとりと熱く、ぐるりと不愉快だ。だが俺は、あの子が幸せならそれでいい。何度も大きく溜め息を吐いて、気持ちを落ち着かせると、スマホを持ってホテルの外へ出た。そして駆け足でコンビニへ行き、躊躇いはしたものの煙草を買う。潮の香りが目に染みるシーサイドライン。遠くの海南島をぼんやりと視界に入れながら今後のことを考える。瞼を閉じ、祈る。しかし言葉を紡ぐ前にすぐに目を開いて「やめだ」と呟いた。やめだやめだ。祈りなんてものは大概、届かないようにできている。
 部屋に戻って煙草のボックスを開けると、中から一本取り出して咥えた。それから一緒に買った青いプラスチックの安ライターで火を点けようとするが、横車が虚しい音を立てるだけで、一向に燃えてくれやしない。
「マジのバッドデーかよ」
 悪態吐きながら再びデスクチェアに腰を下ろし、PCを確認すると、監視システム画面の右上でチンチラ型バーチャルアシスタントのアップル・クランブルがすやすやと眠っている。これは俺が離席をしている最中に異常がなかったことを示す、極めて画期的でキュートな機能だ。彼が膨らます鼻提灯をタップして割りつつ、片手でなおもライターによる着火を試みていると、ふと監視していたホテルのエントランスから、ラドレが出てくるのが見えた。夕食に出るつもりなのかと予想するが、なんと彼はひとりでタクシーに乗るではないか。妙に思い、ライターを置いて追跡を試みる。
「起きろ、クラン」
「むお? ハティさん、おはようモチー!」
「紫ハウンドがどこに行こうとしているか推測しろ」
「まっかせるモチー!」
 そう命じると、途端にクランの姿はパブリックイメージとしてのハッカーの衣装に切り替わり、腹に抱えたキーボードをせかせかと叩きはじめた。「禁煙モチよ。吸っちゃダメモチよ」「うるせえ。もういいんだよ」「なら、ボクを説得する十の正当な理由を用意するモチ」「だるい、バイ・テン」「認識できないモチねえ」……そうこうしているうちに、監視カメラの映像がひしめく画面上に、新たなウィンドウが出現する。これはルートマップと、時刻表だ。
「この無人タクシーは海南島行のフェリー乗り場に向かっているモチ。料金設定は上下問わずのファストプラン。つまり次の便に滑り込むつもりである可能性が高いモチ。以上のことを踏まえると、彼は空港へ行って、香港行きの最終便に乗りたいのかもしれないモチね。広州の空港より海向こうの空港へ行くほうが早いモチから。その確率は……ずばり六十八パーセントモチ。ここにハティさんの勘を足すモチ」
「……百だろ、こんなの」
 俺は咥えたままだったタバコを吐き捨て、泡を食ったように荷物をまとめると、ルームキーを持って部屋を飛び出した。そしてフロントにキーを投げ込み、駐車場へ。荷物をリアボックスにダンクして、ヘルメットを被ってバイクに跨る。
「ハティさん、どこ行くモチ?」
 ヘルメットのシールドディスプレイを通して映し出される接視界に、慌てた様子でクランが滑り込んでくる。ヘルメットをいそいそと被るその姿をぼんやりと見守りながら、俺は半ば呆然として「どこだ……?」と疑問を口にする。はたして俺は、アイツを追ってどうするというのだろう。殴る? 説得? ぶっ殺す? 逡巡の数秒。その沈黙を打ち破るかのように、クランが新たな映像を持ってきた。
「マカロンちゃんもホテルを出たモチ!」
 動画を確認すると、それはお嬢ちゃんが「ちょっとコンビニへ」行くようには思えない、綺麗な服装でエントランスを出るところを映したものだった。その背中には小さなトランク。黒狼のぬいぐるみがぶら下がって。……それを認めたとき、俺の胸に流星のような閃きが落っこちてきた。
 俺が、呼ばれている。
「お嬢ちゃんのところへ行くぞ」
 クランにそう声をかけ、エンジンをかける。なにが「負けたかな」だ。アイツにだけは負けてたまるか。ルートを問われたので「ファストプランに決まってんだろ」と返事をして、俺はアクセルを回した。

 海岸線沿いの遊歩道にバイクを突っ込んで、脱いだヘルメットをシートに置くと、俺は浜へと駆け出した。ほどなくして、俺の知らないワンピース姿の背中が見えてきて、僅かに安堵したのも束の間、よくよく見ると彼女の靴も鞄もアクセサリーも、なにもかもが真新しくて、妙に不穏な空気を感じる。それどころか灯りのない青い波打ち際に佇む彼女は、空の星屑のすべてを集めたかのような、神々しい白さで以てそこに新生したかのようにさえ思えた。そんな彼女が、黒い海を往くフェリーの放つかがやきを見つめている。無言で近づく俺には気づいていないのか、手からなにかを落とした彼女は前方を見据えたまま、すっと息を吸った。そしてその手に握り込んだなにかを、思いっ切り振りかぶって……。
「それ、俺にくれないか」
 この距離なら、手より声が速いと踏んだ。するとお嬢ちゃんは、手を止めてこちらを振り返った。月光に照る、知らないアイシャドウ。見慣れぬリップカラー。目を瞠っている彼女の、振り上げられた手をゆっくりと握り込めば、その手指には血が付着していることが見て取れた。王種の再生能力のおかげか、既に傷らしい傷はなかったが、爪が無残に折れ、裂けて、血を滲ませている。……余程強く握り込んだのだろう。
「どうして、いるの?」
 ぽろりと、唇の端から漏れるような声がした。
「一緒にいるって約束したから」
「してないわ」
「したんだよ。どうしてさみしいときに連絡してくれないんだ」
 問うと、彼女はゆっくりと腕を降ろした。手を繋ぐようなかたちのまま、ふたり向き合う。
「……置いてきたの」
「なにを」
「すべてを。スマホも服も宝石も、あの子に与えられたものはすべて。兄様のピアスだって、あげちゃうわ」
 兄様のピアスとは、あの殿下の形見のことだろうか。
「あなたのことだってあげちゃう。これはあなたに、餞別として、さしあげます」
 そう言って、お嬢ちゃんは俺の手のなかに、その『捨てようとしたもの』を残して手を離した。折っていた指をひらいてみると、そこにはオパールの填め込まれた指輪がひとつ、きらめいて。
「どうして、俺まで捨てるんだ」
 みっともなく揺らいだ声が、波の引きとともに俺の想いを攫う。
「あなたは来ちゃだめ。あなたは、あの子と一緒にいてあげて」
 つまり、彼女はどこか遠くへいってしまうつもりなのだ。腹の奥でかなしみの熱がぎゅっと強張るのを感じながら、俺は訴える。
「俺はキミの使い魔じゃない」強い声が出た。「言うことなんてきくもんか」
 するとお嬢ちゃんは今までで一番きれいな微笑みを浮かべた。息が止まりそうだった。
「こっちにきては、だめよ」
 無呼吸の一時停止が、ぶわりと怒りを生んだのがわかった。かなしいはずなのに、俺は怒っていた。ここにいるのに、いないみたいに扱われて、俺はいまどうしようもなく孤独だった。
「じゃあなんでそんなに可愛い服を着ているんだ」
「わたくしはわたくしだけで、わたくしでいられると証明するためよ」
「違う。キミの自意識のなかにはもう俺がいる。ぬいぐるみは連れてきてくれただろ。俺をあげるって、なんだよ。そうだよ、俺はキミのものだよ。俺に見せたかったと言ってくれ」
 頼むよ、と薄く平べったくなった声が漏れる。今は「アイツもいる」とは言えなかった。
「ちがう! わたくしはひとりで歩けるの。箸の持ち方はじょうずじゃないし、ボタンを留めるのだって苦手だわ。でも、できるの。ゆっくりだけど、自分でできるの……!」
 その叫びは、恋が消えるときのような、苦しい爆発だった。
「知ってる。ピアノも弾けるし、花冠だって編める。知ってる。俺は、知ってるんだ……」
「知ってるから、なに」
「俺を捨てないでくれ。俺に望みをきかせてくれ。俺にそれを叶えさせてくれ。キミを愛しているんだ」
 波が鳴る。夜風にきらりとうるむ彼女の虹色の睛。もう一度その死んだ珊瑚のような手を握ると、彼女は俺の掌から指輪を取り上げて、俺の指に嵌めようとしてくれた。中指は、入らない。人差し指はぎりぎりダメ。そして薬指。ぴたりと嵌まる。すると彼女は「なんでよ、もう」と笑った。
「どうして同じサイズなの」
「俺も今、ふざけんなと思った」
「ふふ。おっきい指輪って、かわいくない……でも似合うわ」
 彼女が口に手をあてて笑ったそのとき、同じデザインの指輪が左手の薬指にきらめいていることに気がつく。どきりとするより早くモヤモヤが胸に影を落として、笑顔になれない。しかし俺の言葉を待っているはずの彼女を放ったままではいられなくて、「俺は」と決意するより先に切り出した。
「キミの、フィアンセになりたい」
 すると、彼女は目をぱちくりとまたたかせると、数拍の間のあと、
「なりたいから、なに」
 と、下瞼をにゅっと持ち上げて、意地悪な笑みを浮かべた。「わたくし、かわいくないお嫁さんはいらないのよ」
「どうやったら、かわいいって思ってもらえるんだ。この図体のデカい俺が」
「カワイイは、スナオってこと」
「そうか。じゃあ……結婚を前提に、お付き合いしてください」
 決死の覚悟で、キミとドッグファイト。はじけて光る俺の命。
「じゃあってなに。ちょっとシカタナク、みたい」
「キミ、思っていたよりずっとワガママだな……」
「見誤ったほうが悪いんだから。先に言っておくけれど、わたくし、あなたのこと代わりだなんて思ったりしないのよ」
「おお、よく言えるな……そんな、平熱で」
 狼狽える俺が、肝心な部分への返答に対する解釈を挟むよりはやく、彼女はスキップで先を往くかのように軽やかに言葉を紡ぐ。
「もっと言えるわ。わたくし、愛も恋もほんとうはよくわからないの。でも恋がこわれるってことがどんなものかは知っているの。二度も失恋したのよ。2。2、よ。に! 二度もすっごく胸が痛くなったの。これって心が傷ついたってことだよね? でもたぶん、かっくいい傷がついたと思うの。とびっきりイカすやつが。あなたの胸の傷みたいに」
 ぼろぼろのピースサインを掲げ、彼女は眉をぎゅっと寄せると、泣いてないのに泣くより必死な表情で俺の胸を叩いてきた。そのシグナルが意味するのは、二番目で終わったことが、二回あるという戦績の回数。ノックされた俺は彼女の前に出てくるほかなくて、心を剥き出しにさせられる。
「……そうだな。これ、カッコいいよな」
 外気に触れたように感じた胸に手を当てて、彼女の言葉を繰り返す。この胸の傷も、たぶん、とびきりイカすと思っていいものだ。好きなひとのために戦ってついた傷なのだから。
「うん。かっくい。あなたっていつも傷だらけ。慣れるの、痛いのに」
「慣れないよ」
「じゃあわたくし、また痛くなるの」
「……わからない。それは、わからないことだよ」
「あなた、わたくしの恋を守れるの」
 彼女のまっすぐな言葉選びは、きっとあの男に似たのだろう。だから俺も、想いに混じる大人の躊躇いすら、そのままにして応えてやる。
「守りたいと思うよ。人生を懸けて」
「じゃあ、たすけて」
 唐突な救難要請に、思わず押し黙る俺を他所に、彼女は海に背を向けて走り出す。彼女の消えた波打ち際に残されたのは、プロポーズするときにパカっとする、アレだ。不法投棄と知りながら、俺もその恋の残骸を拾わずに彼女の背中を追う。
「じゃあってなんだよ」
「やだもう、あなたってめんどくさい」
「見誤るな。俺はずっとめんどくさかっただろ。キミしかいないって思って生きてきたんだから」
 その背を捕まえようとしてからぶる俺の手が、砂に足を取られて転びそうになる彼女の腰を捉える。そしてそのまま彼女をひょいと小脇に抱え上げると、「もっとロマンチックに」とのオーダーが入ったので、「どうロマンチック」と返せば、「恋愛映画みたいに」という曖昧な答えが返ってきた。
「恋愛映画だあ? どういうの観てるんだ」
「ええと、デートして、ぎゅうして、チュウして、たびたびセックスするやつ」
「それはアダルトビデオとかにも言えないか」
「アダルトビデオってなに?」
「忘れてくれ」
「アダルトビデオってなに!」
 俺に抱えられながらやんちゃな赤ん坊のように暴れる彼女を、遊歩道に停めていたバイクの前に降ろす。それからシート下のメットインスペースからヘルメットを取り出して差し出すと、彼女は嬉しそうにそれを受け取った。
「あとね、逃避行。カケオチってやつです」
「駆け落ち、ね……」
 俺は海のほうに視線を向ける。フェリーはもう見えない。
「デートして、ぎゅうして、チュウして、セックス、するか。あと駆け落ちも」
 照れが残るなか、一世一代の気持ちで伝えた提案に、お嬢ちゃんは「する!」と呟いてヘルメットを被ろうとしたが、その前になにかを思い出したのか、ヘルメットをシートに置くと、「見て!」と言って、その場でひらりと一回転した。ワンピースの裾が綺麗な真円を描き、やがて波が引くように落ち着く。
「似合う? ぜんぶ自分で選んで、買ったの!」
 その得意げな笑顔に、俺もつられて笑顔になりながら「似合うよ」と頷く。すると彼女は「やっと笑ってくれた」と満足そうに頷いて、「はやくツーリングデート、しよ」と俺の裾を引いた。返事の代わりにキスをして、照れ隠しにヘルメットを被る。

 夜明け前の夜を走る。背中に感じる重みはあの香港の夜と変わらないのに、あのときよりずっと確かなものに感じられた。月光を受けて宝石のように輝く海を横目に、ふたりなんてことのない会話をする。迷いインコを拾ったこと、ソシャゲの課金額がエグかった月のこと、コンビニで買ったマーラーカオが美味しかったこと……そんなとりとめのない日常を、ラドレの存在を避けて切り取る、その切実なおしゃべりを俺は聞き続ける。星空を夜行便が切り裂いてゆく。
 目的地までは明け方までかかる。走り出して数時間経ち、日付もとっくに跨いだ頃、お嬢ちゃんが「ウォーウーラです」と声を上げた。俺が「ちょっと待ってな」と返事をするのと同時に、クランが「まかせるモチー!」とシールドディスプレイの端から滑り込んでくる。するとお嬢ちゃんが「ラーメンがいい」と深夜営業にもうってつけのチョイスをしてくれたのでクランを促すと、すぐに「早くても一時間かかるモチ!」と宣言された。
「一時間、我慢できるかい」
「ええ、そんなの、あっという間……」
 ぎゅっと抱かれた腰に伝わる、おびえた脈拍は俺の鼓動をしずかに整える。その無理をしている気配に、気の利いたことを言ってやるべきだと思うのに、俺も傷ついているからそれがなかなか難しい。さみしさがふたつ寄り添いあって、これからどうやって歩いてゆけばいいのだろう。未来の話はいつだって不安定だ。二人一緒にいても幸福になれるという確証がない。ラドレもこんな気持ちだったのだろうか。
「それでは聴いてください。わたくしの、B面セレクション……」
 突然、お嬢ちゃんはそう導入して、俺の反応を待たずにすっと息を吸った。そうして始まったのはバラードを主にしたコンサートだ。そうだ、B面はバラードばっかりで、恋の歌に溢れている。それらがふとした瞬間に胸を突くのは、失恋がまだここにあるからだ。失恋とともに生きているからだ。
 彼女の歌声は、ヘルメットの内側で響いているにもかかわらず、外気と一体となって前方から吹いてくる。早起きの海鳥と並走し、夜明けの予感が水平線の向こうにあることを感じる。まだ暗い。まだまだ青い。それでもデイブレイクはかならず起こるという確信がある。対向車のネオンが音楽ゲームのノーツのように俺たちに重なり、俺の鼓動がBPMとリンクする。いくつものヴァース、コーラス。永い永い楽譜の滑走路をバイクで進む夜明け前。ナイトフライトで行ってしまったあの男。こっちは地道に、駆け落ちだ。
「次の交差点を右折モチ!」それまで謎のハーモニカを吹くモーションをしていたクランがそう声を上げる。「目的地周辺モチ!」……ほんとうにあっという間の一時間だった。ナビに従い右折し、減速する。
 店の駐車場には大型トラックが複数駐車しており、どうやら客層には長距離ドライバーが多いらしいことが窺えた。店前にはアルコール類は置いていないことを主張する立て看板。その隣にはレトロな食券の販売機がある。現金がない場合は店内で注文するシステムらしい。
「あ、これ、字、読めます。ここだけだけど。……ニウナンミェン」
 財布から紙幣を取り出していると、お嬢ちゃんはとあるボタンを指差して言った。
「それは咖哩牛腩麺ガーレーアウラムミンだな。読み方が違うのは、マカオの料理だからだ。そこが今回の目的地だから、向こうで食えるっちゃ食えるが……食べたいか?」
 向こうとは言っても、もうマカオは目の前だ。どうやらこの店は、各地にほぼ一瞬しか滞在できない運送ドライバーのために、周辺地域の名物料理を多く扱っているようだった。彼らはこの店に寄って、束の間の旅行気分を味わうのだろう。妙に長い間のあと、お嬢ちゃんが「食べたいです」と頷いたので、咖哩牛腩麺の食券を二枚買って、店内に入る。
 食券を提出後に四人席に着いて向かい合うと、たったひとりの不在がやけに広く感じられた。お嬢ちゃんは空いた椅子に背負っていた可愛らしいトランクを下ろし、黒狼のぬいぐるみが健在であることを確認するとほっと一息ついたようだ。ぬいぐるみの頭を撫でて、顔を綻ばせている。しばらくそんな微笑ましい姿をじっとみつめていると、俺の視線に気づいたらしい彼女が俺を見て「髪、ぼさぼさよ」と頭を指した。もういいかと思い、上げていた前髪を手でぐしゃぐしゃにしてからざっと整えると、なにやら彼女の視線を感じる。「どした」と声をかけると、彼女は途端におろおろと、しかしゆったりと、慌てはじめた。
「あ、ええと、ええと」
「うん」
「かっこ、いい」
 その言葉に、俺は唇を尖らせた表情で固まってしまう。元気に泳ぐ彼女のおおきな目。を、映す俺の目もまた激しく泳いでいることだろう。なぜか互いに無言で居住まいを正し、やけに綺麗な姿勢で向かい合う午後三時。はやくラーメン来い……と念じているのに、口が「返事、聞いてないんだが」と勝手に話題のモンキーターンを決める。
「え、わからないの」
 彼女はきょとんとした表情で、何度もスパークのようなまばたきをした。
「わ、からない、だろ……俺の可愛くなさの指摘と、救難信号と、駆け落ち要請しか受け取ってない……」
 不安からみるみる声が小さくなっていくのを感じる。心臓のBPMがバラードから逸脱しそうになっていた。
「カケオチ、は、ツガイで逃げること、でしょう」
 また俺の唇が尖る。
「つまり、つまりの、こと……あの、ええと、なんていうの? どうしよう、辞書辞書検索検索……ああ、スマホがないわ……」
「スマホ、貸そうか? それとも俺が訳す? いいぞ、まだ向こうの言葉は覚えてる」
「あなたも合間合間で平熱よね」
「そもそも、『はい』か『いいえ』で答えられるだろ……いいぞ覚悟はできてる」
 さっきから、周囲からの視線が痛い。ドライバーは英語を喋れて当然だというのが昨今の風潮だ。求められるスキルが多いため、彼らが高給取りになって久しい。
「……ハリエットさん」お嬢ちゃんが改めて背筋を伸ばす。
「……はい」俺もそれに倣う。
「あなたがスキ。さっきの時点で、あなたは、わたくしのっ、あの、かれ、かれ、かれっ、かのっ、じょではないのよね……かれ、かれ、し、彼氏……だと思って、る」
 嬉しさより先に、バグみたいだ……という感想が降って湧いた。そんな俺の表情を見て、お嬢ちゃんは「ああもう!」と高い声をあげて、テーブルに突っ伏す。「わたくしってぜんぜんへたくそ! ぜんぶ! 兄様ならきっとかっこよくお決めになられたのに!」
 彼女の悔悟の叫びとは裏腹に、俺はまだ固まっている。彼氏。彼氏ってアレか、彼氏か。彼氏ってなんだ? 辞書辞書検索検索……。周囲から「行け」「そのままそのまま」「差せ!」と小声で競馬観戦のような声援が送られてくる。そういえば香港には競馬場があるはずだ。……と、考えている場合ではなくて。
「……結婚を前提にお付き合いしてと言ったのはあなたじゃない」
 僅かに顔を上げたお嬢ちゃんのひとみが、手負いの獣のような鋭さで俺を射貫く。そして麺鉢をふたつ手にしたまま通路に佇み、「はやく決めてくれないと置きに行けない」というオーラを発している店員の姿が窓ガラス越しに見えたことも相俟って、半ば追い詰められるようにして覚悟が決まった。
「……俺も、好きだ」
「スキなのは知ってるって言ってるの」容赦のない指摘だ。「お互いスキだがらさあどうしますかって話をしているのです。経営状況の提示だけし合ってどうしろというの。ヴィジョンが見えないわ。ちなみにわたくしは既にあなたを彼氏だと認識しています。あなたは?」……流石は経営者である。ディスカッションで主導権を握れるとは思わないほうがよさそうだ。
「……今この時点から、そう認識することにする。つまり、お付き合いを、しよう。いや、する。これでオーケーか?」
「……結構。ぜんぜんロマンチックじゃないけどいいわ。はい、締結。大好きよ」
「うん、俺も」
 その瞬間、テーブルにどっかりと麺鉢が置かれた。無言で去って行く店員が擦れ違いざまに俺の肩を叩く。客たちの安堵由来らしき溜め息の大合唱。「辛勝ってとこか」「でも結局一番人気だろ」「俺は夢を見ました」……何事もなかったかのように食事が再開され、その瞬間、凍結していた俺の時間が動き始めた感覚がある。もっと染み入りたいのに、もっと素晴らしい達成感や切実な解放感があってもおかしくはないのに、現在を生きる俺には今ここだけの、ちょっとおかしな恋のドッグファイトが終わったという刹那のひらめきだけがあった。俺はもう過去には戻れないという当たり前が、ごく普通の日常だけを彩って、打ち寄せる。俺はその波に乗って箸を手に取り、ラーメンを食べ始めた。たっぷりと盛られた黄金色の牛バラからはふわりとカレーの香り。湯がいたレタスの鮮やかな緑色が、白色の照明のなか眩しく、俺はとりあえずそれを箸でスープの中に沈める。スープはまろやかなカレー味で、以前食べたことのあるホッカイドウ・スープカレーというやつに近い。辛すぎるということはなく、子どもでも食べられそうな低刺激で、『食堂っぽい』味だ。麺は細麺。肉を齧ると、とろとろとやわらかく、若干とろみのついたソースで煮込まれていたという名残がある。辣油か花椒をかけたい雰囲気だ。卓上調味料を確認すると、花椒があったので振りかけてみる。……これがベストだ。不意にお嬢ちゃんが「ぜんぜん、ちがうのね」と呟く声が聞こえたが、追及はしない。そのままふたり淡々と食事をする。
「出発する前のやりとりでわからないなんて、ひどいわ」
「決定的な返事をしないほうが悪いと思うんだが」
「決定的だったでしょ」
「どこがだよ」
「指輪まであげてるのよこっちは。薬指にぴったり嵌まっちゃたやつ」
「おさがりだし、結果論だな」
「そも投棄しようと決めたものをあげるのって相当ではない?」
「ごめん、その感覚はわからない」
「……もしかして、わたくし、やっぱり変?」
「変ではないよ。わかりあえないことばっかだろ、人と人なんて。だから話して擦り合わせるんだ」
「あ、わたくし苦手よ、それ」
「でも話せてるだろ、現に」
「あら。そうかも……そう、かも」
 明け方のラーメンデート。以前の深夜のラーメンデートより進んだ現時刻。「ふう」と息を吐いて一旦箸を置く彼女の手が、水の入ったグラスを掴んで傾ける。そのとき、ふと彼女の綺麗な服装を、そこだけ痛々しく演出するマカロンカラーのネイルが目に入った。キラキラのラインストーンが取れた形跡が所々にあるが、ボロボロになっていることの前では大した問題じゃない。やっぱり悔しかったのだろう。もしかしたら壁や床を殴ったのかもしれない。その手を取る。「向こうに着いたら、直そうか。何色がいい?」引き寄せて、指先にキスをする。
「あ……」
 突として彼女が、ふるえた声を上げたのを俺は聞き逃さなかった。みるみるうちにうるむその虹色のひとみ。今度は俺の手がぐっと向こうに引き寄せられる。そして彼女は大事に抱え込むようにして、俺の手に額をつけてうつむいた。すぐに、あたたかい俄雨の感覚。
 俺が泣くなと言って聞かせて、彼女はいつしか泣かなくなった。ぜんぜん泣かない、とあの男も言っていた。約束をやぶってあふれだす、恋。ああ、好きだったんだな……言葉を当て嵌めると、俺の胸まで張り裂けそうだった。失恋したということは、恋をしていたということだ。愛を知っているということだ。いま俺は、俺のことではなく、彼女のことでもなく、あいつがかなしかった。愛されてただろ、バカ犬が。
 俄雨に気づかないふりをして、俺は片手でラーメンを抱えて食べる。

 お嬢ちゃんが自分のIDとビザを持ってきていたことと、前回の香港・マカオの年間ビザが残っていたことが重なり、入国審査は非常にスムーズに完了した。時間が時間ではあったので宿の都合が心配だったものの、流石は東洋のラスベガス・世界的観光地のマカオである。ほとんどのホテルが二十四時間チェックイン可能だった。記念に……というわけではないが、五つ星ホテルの空室に滑り込み、スマホで手続きを済ませてエントランス前にバイクをつける。他人にバイクを預けるのは不安だったが、キーを預かったバレーサービスの若者が目を輝かせていたので、悪いようには扱われないだろう。フロントでチェックインを済ませ、エレベーターへ。上昇するゴンドラの中でお嬢ちゃんを後ろから抱き締めると、「シャワー、浴びる?」とやけにしずかな声で問われた。「いや、待てない」
 それから少なくとも六時間はぶっ続けで頑張った。案外いけるな、六時間……と思いながら、最後は「もう無理」と音を上げたお嬢ちゃんの、疲れた寝顔を眺める。すこし開いたくちびるを指先でつついたあと、彼女の身体を片腕で抱いて、俺は仰向けになった。すると大きな溜め息がひとつ。疲弊した背中が柔らかなマットレスにへばりついてもう眠いが、しかし余韻に浸る前にひとつやることがあった。片手で手繰り寄せたスマホでメッセージアプリを開き、そしてすこし悩んだ末に、短い文字列を打って、送る。瞼を閉じる。いや、目を開ける。もう一度腕の中に彼女がいることを確かめる。

 マカオでは通貨のパタカの他にも、香港ドルが使用可能だ。しかし財布の中に前回の残りがないことを確認し、ATMで『雪國さんからの小遣い』をいくらかパタカに両替する。電子決済なら両替の必要もないが、念のためキャッシュは持ち歩きたい。
「待たせたね、まっ、ま、ま、ま、マイ、ハニー……」
「無理してそういう呼びかたしなくてもいいんじゃないか?」
 背後からギクシャクしすぎている声がして振り返ると、そこには新しいスマホの購入手続きを終えたらしいお嬢ちゃんが立っていた。その手元でつるりと輝く最新機種は、お嬢ちゃんの名義での新規契約端末。俺が契約してもよかったが、彼女は「自分でする」と決意が固かった。その場で連絡先を交換すると、彼女は「あの、ヴォートランとソシャゲのデータだけ、持ってこられますかね……」と気まずそうに問うてきた。要は諸々を同期しているメインアカウントを経由せずに、それらのデータを抜き取り、新しいアカウントで復元したいということだろう。通常であれば多段認証やら元端末、あるいはデベロッパーへの問い合わせが必要だが、その程度なら俺でも弄れる。
「いいぞ。ホテルに戻ったらな」
 俺が頷くと、お嬢ちゃんは「ありがとハリエットさん!」と嬉しそうに胸に抱きついてきた。これはかなりハッピーでジャンキーなスキンシップだぞ……と狼狽える俺と、一瞬の沈黙の後にまたバグって「あ、あ」と赤面する彼女の、ふたり似たり寄ったりの反応。彼女も同じことを思ったのか、ふたり同時に吹き出して、そしてどちらともなく手を繋ぐ。
「はあ、買い物をしようか。とりあえず、服」
「そうね。……それにしてもあなたの弟さんって、とても細身でいらっしゃるのね」
 そう言いながら歩みに合わせてひらめく裾を気にする彼女は、俺の弟……翠雨のドレスを着ていた。
 昨日のワンピースは諸々で汚してしまったので、彼女には今日着る服がなかった。俺は非常に不服ではあったが弟に連絡をして、服を貸してもらう交換条件としてお嬢ちゃんとのことをざっくり説明した。すると翠雨は「いくらでも貸すよ!」とスマホを破壊せんばかりの大声を上げると、「つまり私の妹ってことじゃん! ねえアンダーソン私、妹できた!」と喜んでそのままどこかへ行ってしまった。電話口に残された俺はとりあえず一分ほど待って、それでも返事がなかったので終話した。それから数分後に「兄さんのクローゼットって同じ服ばっかでキモい」というメッセージが届き、クローゼットシステムに翠雨の服が入っていることを確認した。しかし届いたそれをお嬢ちゃんに着せてみると、丈感はぴったりなのにどうしても胸部がうまく閉まらず、ぱっつんぱっつんになってしまっていたので、取り急ぎ衣類を確保するべきだと決意してショッピングモールまでやってきたというのが、さっきまでの顛末。そしてはぐれた際に不便だろうと、念のため先にスマホを契約してもらったというわけだ。
「わほほ、デートみたい……」
「デートだろ」
「はっ。そ、そうだ……デートだ……」
「昨日もデートしただろ」
「なんであっさりしてるの。デートってすごいんだよ。知ってる? キュンとかするんだよ。知ってる? 知ってたらやだ」
「前もデートしただろ。どうして慣れないんだ」
「ちがう、これが本番。調査と実行はちがうの!」
 俺の態度が若干不服そうな彼女に手を引かれ、彼女がガラシャ・レンゼンの次に多くワードローブに採用しているというFMへと向かう。普段の彼女は主に鏡の魔女が作る服を着ていたらしいが、ラドレと懇ろらしいその魔女と、今は連絡を取りたくはないのだろう。端から選択肢には入っていないようだ。FMの店舗前で会員アプリを新規登録するお嬢ちゃんを待ってからチェックインし、黒と白を基調とした店内へ。お嬢ちゃんの話によると、FMにはScorpionというサイズ展開があるらしく、なんでも毒の魔女であるサソリ・ビトウから着想を得たもので、要は、胸が大きくて華奢な女性体向けなのだとか。ものによっては若干直す必要があるものの、この展開のおかげでお嬢ちゃんは着るものに困窮せずに済んでいるらしい。
「これはどう?」
「可愛い」
「こっちは?」
「最高」
「これなんかは?」
「世界一」
「わ、これもいいなあ」
「輝いてる」
「ねえ、ほんとうにちゃんと見てる?」
「見てるさ」
 鏡の前で忙しなく服を合わせていたお嬢ちゃんは、またしても俺の反応が不服らしく、「じゃあ、ハリエットさんも選んで」と促してくる。俺はこういった経験に疎いので、間違っている部分は後に指摘して貰おうと思いながら、直感で服を選んで、渡す。すると彼女は目を丸くしたあと、「着てみます」と言ってフィッティングルームへと入っていった。
 人から好かれた経験がないとは言わない。でもどうしても俺からは好きにはなれなかった。男女問わず迫られたって反応しないものはしないし、泣かれたって仕方がない。「試しに付き合ってみればいいのに」と、第三者から何度もアドバイスという名の嘲笑を受けてきて、その度に相手が可哀想だと言い訳をした。相手なんてどうでもいいのに。だから正直、俺だって『デート』がどういうもので、『恋人同士』がどんな感覚であるかは知らないのだ。お嬢ちゃんの前では年上だということにかこつけて涼しい顔をしているが、俺も貴州でのデートのときからずっと緊張していた。今もなにが正解なのかわからずに、それでもお嬢ちゃんに関するどんな些細な情報も逃さないようにと意識を研ぎ澄ませ続けている。
「もし、見てほしいのですが」
 フィッティングルームの中からそう呼ばれ、俺はアクセサリーを見るのをやめて、その個室の前に立って「いいよ」と答えた。すると躊躇うようにじわじわとパーテーションが開き、真新しい彼女の姿があらわになる。
「どう」
 短い問いが、狭い個室に蟠る。
「好きだ」
 短い答えが存外に響いて、ふたりして驚く。数拍遅れてお嬢ちゃんはさっと血色を耳まで及ばせると、「スカートじゃないのなんて、はじめて」と俺から視線を逸らした。彼女が纏うのはシアー素材のぴったりとしたトップスに、フロントジップの黒いショートビスチェ。そして、裾以外は極めてタイトなハイウエストのフレアパンツ。……それらは腰の位置が高い彼女にとてもよく似合っていた。以前あの男は「王にはロマンティックな服が一番似合う」とスカート内に仕込むパニエやペチコートに対するこだわりを語っていたが、その真意はこのスタイルの良さを誰にも発見されたくないというジェラシーだったということが、今ここで露呈する。
「……キミは足が長いから似合うと思ったんだ。これからバイクに乗る機会も増えるだろ。スカートよりは取り回しがいいだろうし」
「ふうん……動きやすくていいわ」彼女は鏡の前で、何度もバックスタイルを気にしていたが、やがて「ウエストを絞ってもらいます」と購入意思を示した。
「そうしよう。その靴にも合ってる」
「……んふふ。うれしい」
 ふたたび閉まるパーテーション。そして戻ってきた赤いドレス姿の彼女は、アンドロイドのスタッフに直しを依頼して、そのまま会計をしようとした。それを直前で制止して、「俺が払っても?」と申し出ると、彼女は「そういうのはいやなの」とツンを顎を上げる。
「贈りたいと思ったから、そうしたい。それだけだ」
「……うん。わかりました。ありがとう」
 俺に他意はないことを察してくれたのか、彼女はちいさく頷くと、手にしていたカードを引っ込めてくれた。そうして俺が支払いを済ませ、直しは一か所のみだったので店内で待つ。その間、弟の話をせがまれたので軽く話して聞かせていると、十五分ほどで直しが終わった。大量のショッパーを受け取り、店の外へ出る。
 それからお嬢ちゃんは下着類(俺は店の外で待っていた)、基礎化粧品、そしてちいさなノートとペンを買った。スマホのメモ機能は使わないのかと問うと、それだと間に合わないのだという。なんのことかはよくわからないが、その青いノートを彼女は気に入ったらしく、すぐに名前を書き入れていた。相変わらずきれいな字だ。

「何色がいい?」
 荷物を置きに戻ったついでに、お嬢ちゃんのネイルを直すことにした。バルコニーに置かれたカフェテーブルに腰を下ろし、ソーラーライトを調節しながら希望の色味を問うと、彼女は「直せるの?」と疑問を返してきた。
「ああ。何度割れても直すよ」
 そう答えながら彼女の手指を軽く消毒する。スカルプチュアだが、長さは自前だ。
「あなた、爪が短いのに」
「弟がな。任務でネイルが折れた割れたで不機嫌になっちまったことがあって……」リューターのスイッチを入れて、元あった装飾を削り、剥がしていく。「瞬間接着剤を持ってきて、兄さん直して! ときたもんだ。それじゃあんまりだろうと思って、女性隊員に道具を貸してもらって、それからだ。色々注文つけられて……ほんとうざいんだよなアイツ……」
「細かい作業が好き?」
「でなきゃ銃オタクなんてやってない。それに、俺の指は器用だろ?」
「それはどういう意味?」
「わかるだろ。けさだって、な? 五回は導いた」
「さいてい……」
 俺の軽口に、彼女は唇をむにゅむにゅと蠢かせながら、そっぽを向く。その視線の先にあるのは、珠江河口を挟んだ向こうの香港島だ。彼女はあの男の行く先までは知らないのか、スモーキーに輝く世界都市を見つめて「きれい」と呟く。
「行くか? 香港。二十四時間フェリーが出てるぞ」
 緊張を隠してそう訊ねると、お嬢ちゃんは首を横に振ってルームサービスのワインを傾けた。
「ここって、すんごいカジノがあるんでしょう? 遊ばないと損だわ」
「ん、ギャンブルがしたいのか?」
「わたくし、得意なのよ。大勝ちしすぎるとめんどうだから普段はちょびっと、お付き合い程度に遊ぶんだけど」
「それは頼もしいな」
 会話を続けつつ、装飾を取り払った素爪の割れた部分を切って整え、全体にファイルをかけてスクウェアに造形する。続けて細かい粉を綺麗に落とし、ベースジェルを塗って硬化させながら、いま一度問うた。
「何色がいい?」
 すると彼女はにこりと微笑んで、しかし一瞬だけ睛をうるりときらめかせながら言った。
「あなたの目の色」
 全身でどきりとする。俺はじわじわと湧いてきた面映ゆさを口許で噛み殺しながら、作業に集中しているふりをした。
「パール? ラメ? それともマットか?」
「んふふ。ちゅるちゅる」
「ちゅるちゅる……?」
「あなたの目、わたくしを見ると潤むの」
 その自覚はなかった。お嬢ちゃんは悪戯っぽく笑うと俺の目を見る。……なんて、うつくしい睛だろう。たとえ光源がなくとも、どこからともなく光をあつめて、いつも水のように透明だ。
「あなたが、わたくしのこと、スキって……ほんとうはわかってたの。スキってこういうことなんだって、一瞬でわからせられたから」
「……真に受けてないんじゃなかったのか」
「ああ……あの子にきいたのね。そうよ。間に受けてもどうしようもなかったから……」
「どうしようもないって、なんだよ」
「わたくしの人生は、わたくしのものではないから。……なかった、から」
 それは違う、と俺がアイツの弁明をするより前に、彼女は続けた。
「あの子がわたくしをどうこうって、ことじゃないの。わたくしが箸を持てないってだけで、あの子はなんでも……文字通り、すべてをしてくれるの。わたくしがひとつできないだけなのに、十でも百でも尽くしてくれるのって、そんなの、対等じゃない。でも対等じゃなくて当たり前だってわかったの、やっと。わたくしは、どこまでいってもあの子のご主人様なの。そのことを見落としていたのよ。だから気付けなかったの、彼がわたくしのそばにいなくてもいいってことに。今までずっと、ふたりでどれだけ快適でいられるかってことばかり考えてた。一緒にいなきゃいけないんだからその環境を整えるべきだと。そのために滅私をつづけて、あの子が可愛がりやすいようにして、そうしたらあの子は楽で、喜んでくれるって思ってたの。……わたくしはあの子の幸せを勝手に定義していた。あの子じゃないのに」
「お嬢ちゃん」
 過呼吸みたいな言葉なのに、それでもつめたい真顔でいる彼女が痛々しくて、声で止めに入る。でも、まだその懺悔は止まらない。
「わたくし、あの子のご主人様だって自覚があったのに、ご主人様にしかなれないの、しらなかった」
「もういい、お嬢ちゃん」
 最早痛々しいなんて言葉では片付けられなかった。俺はものすごく痛かった。自分の愛の言葉が受け入れられてないと知ったときより、ずっと。
「恋人になりたいとかじゃないの。あの子の人生を縛りたくないの。あの子はこのわたくしに言ったのよ、泣きながらこのわたくしに、『私のために生きていてほしい』って。そう言って泣いたのよ。それまでわたくしのことを気にもかけていなかったのに、わたくしが玉座から引きずり降ろされたくらいでせつないくらいに泣くの。ばかじゃないの。わたくし、それで、あの子がかわいくなっちゃったの。わたくしがあの子のために生きたら、あの子は自分のために生きられないというのに。かわいくなっちゃったから、頷いちゃった。どうしてわたくし、そのとき気づけなかったのかなあ。ずっとずっと大切だったのに、あの子を尊重するってことが、それを拒絶することだって、わからなかった! 兄様はあの子のそばにいなくても、きちんと大切にできているのに!」
 繰り返し自傷を唱える彼女が、それでも泣いていないのが怖くて、俺は叫んだ。
「傷つきにいくな、リシュヴェリ!」
 その瞬間、ばちりと舌に激痛が奔って、一瞬で口内全体に血の味が滲んだ。なにかのブレイクスルーがあったような感覚があるが、それには構わずに腕で口から漏れた血を拭って続ける。
「わかってるんだろ、自分の人生を生きることがアイツのためになるって。わかってる。俺はキミがわかってるってこと、わかるよ。キミが、一生懸命、言葉にしてくれたから。それだけじゃない、アイツを見るときのキミの目は、いつもすごく不器用だった。愛情表現下手クソだったよ、ちゃんと」
 彼女は俺の腕に残った血痕を認めると、はっとした表情で俺を見上げた。そしてすぐに椅子から立ち上がって俺の胸に飛び込んでくる。「痛そう。痛いの?」と、今度は俺のことでパニックを起こしながら。それを抱き留めて、俺はなおも言葉を紡ぐ。その一生懸命さに、等量報いることができなくとも。
「……キミの気持ちは、自分で自分を傷つけなくても、伝わるんだ。自傷しなくてもその切実さはなかったことにならない。大丈夫だ。キミはもうじゅうぶん痛かったし、今も痛がってる。痛がってる人を叩いちゃいけない。キミはこれからキミを尊重するんだ。アイツを尊重するってことは、そういうことなんだ」
 俺の肩に顎を乗せ、俺と頬を合わせながら、お嬢ちゃんは「うん」と頷く。
「……それに、キミが痛いと俺も痛い。アイツほど自己中で悪いが、俺が、いま痛いんだ。たまらないくらい。ほら、血、出てんだろ」
「でてる……噛んじゃったの?」
「かもな。はは、痛え」
「ごはんたべられる?」
「どうかな」
「舌って、どうしたら治るの? 薬を、塗る? それとも絆創膏?」
 顔を上げた彼女が、不安げな睛で俺の頬をぺたぺたと触る。それをどこか懐かしく思いながら、冗談めかして「名前を呼んでくれたら治るかもな」と囁き、その白い頬にキスをした。すると、以前の俺の告白は真に受けなかったくせ、今の冗談は真に受けたらしい彼女は、
「ダレスさん」
 と、俺の名を呼んだ。
「リリ」
「ダレスさん、目がきらきらしてる」
「キミのことを、愛しているからだよ。リリ」
 ああ、聞こえる。俺たちの名前が。『俺たちの関係が、もし今よりも一歩進んだら。名前で呼び合おう』……そう約束したときと同じ風がいまここに吹いている気がした。この風が北東に流れることを肌で察して、「お前も呼ぶんだ、彼女の名前を」と祈りを託す。届かなくてもよかった。

   *

「わたくし、ひとりでも大丈夫よ。心配しないで。ご飯はちゃんと食べてね」
 そう言って王は、どちらかが先に家を出るときの習慣だった『いってらっしゃいのキス』をせずに、ただ「ばいばい」と手を振った。
 香港へ到着した僕は、まずゲートキーパーへと連絡した。彼は人外界と人間界の門番兼案内人だ。人外族が人間界で暮らすための『戸籍』を管理しているのも彼である。その彼から指示を仰いで手続きを把握し、メモを取りながらファユエンの自宅へ。彼女は酷く憔悴した様子で、キッチンでひとりカップラーメンを時間をかけて食べていた。抱き締めた身体越しに見えた、びよびよに伸びたラーメンが無性に物悲しかった。そしてベッドに安置された彼女の母親の亡骸に、外傷がないことを確認してから、スマホで諸々の手続きをして殯儀館ひんぎかんに連絡をした。
 この国の葬儀は、とても賑やかだった。葬儀にやってきたバトとリウは僕の姿を見てなにか言いたげだったが、「ありがとう」と礼を言ってくれた。僕が到着してからのファユエンはずっと静かで、食事も喉に通らない様子でいたが、僕がキッチンを借りて料理をすると少しは食べてくれたので、いくらか安心できた。それから葬儀の片付けと遺品整理を手伝い、ゲートキーパーから送られてきた文書の確認と記入を彼女に促したりして数日過ごしたあと、出発前にまた僕が食事の用意をした。温めるだけで麺にも飯にも使えるように、冷蔵庫とパントリーに残っていた食材で多めにスープを取り、胡麻油と刻んだ生姜で生米を炒めてからそのスープで煮込む。彼女の母が使っていたかもしれない、品質のよい調理器具に、その生活の丁寧さが窺えた。レトロな飾りタイルの内装が可愛い、理容室の二階にあるちいさな家。ハンドメイド品の多いインテリア雑貨。沢山の観葉植物。ベランダに出てタバコを吸う僕の隣に大きなガジュマル。穏やかで美しい日常の欠片が、ちらちらと眩しい。そしてファユエンが起きてきたであろう音がして振り返ると、彼女は「いいにおい」と言いながら、眠たそうな瞼を擦っていた。僕の隣までやってきて、朝日のなか薄着で目を閉じた彼女は、まるで天女のように美しい。
「私とお母さんって似てなかったでしょ」
 不意に彼女はそんなことを言って、僕の手からタバコを取り上げて口に咥えた。それを咎めずに、僕は「そうかもね」と頷く。確かに彼女の母親はコーカソイドに近い骨格と肌の色をしていた。
「身寄りがなかった私のお母さんになってくれたのがあの人なの」
「そうなんだ……いいお母さんだね」
「うん。いい人。びっくりしちゃうくらい。介護だって、ぜんぜん、嫌じゃなかったの。いつも申し訳なさそうにして、私にお友だちと遊んできなさいって言う。もうそんな歳じゃないって言ってるのに。……そりゃあ、たまには外で買い物とかするよ。でも友だちもみんなお母さんのこと気にかけてくれて……うちに来て遊んでくれる。ユエユエ、植物好きでしょって。鉢植えばっかりくれるの。それがこの有様」
 そう言って彼女は植物だらけの室内を振り返り、「へへ」と笑う。僕もそれに倣って、「綺麗だね」と頷いた。そうして敢えて、
「彼氏は?」と、問う。
「あはは、最低。いないって言ってるでしょ。いたら葬儀に顔出さないのはありえないよ。……ラドレくんは? 会長さんとはどうなの?」
「付き合ってないんだよなあ……誠に残念なことにも」
 彼女からタバコを奪い返して、吸う。
「なんで?」
「こうなるしかなかったから。僕はあの子のこと、セックスができる娘みたいに思ってた。激キショだよね」
「激キショだね」
「手心」
「あるわけないじゃん」
「はは、マトモで安心するよ」
「付き合わないの」
「キミと連絡取ってるのバレて台無し」
「冷たいって思ってもらって構わないんだけど、それって私関係ないよね?」
「ザッツライト。僕のせい。弁明の余地なし。オマケにキミのところへ行ってきなさいって言われた」
 僕の言葉にファユエンは目をぱちくりとまばたかせると、それから険しく眉を寄せて「お母さんじゃん」と苦い顔をした。ビルの隙間から朝日がばっきりしたコントラストで僕たちに及んで、明るくて暗い。
「そうだよ。いつまでも対等じゃない」
「対等になりたい?」
「それはこれから、話し合いかな」
 立ち上がって、キッチンへ戻る。ファユエンもぴょんと立ち上がって、「ごはんだ」と笑顔で僕に続く。「お粥だ。大好き」
 食事をしたあと、これから彼女をひとりでゆっくり泣かせるべきだと思った僕は、ファユエンの見送りを断ってその家から出た。階下へ降り、往来へ一歩踏み出し、ふと思い立って一階の理髪店に顔を出す。「予約してないんですけど」と、紙巻を吸っていた老人に声をかけると、「予約だあ? ウチは予約なんてやってないよ」とぶっきらぼうな態度ながらもブースに案内してくれた。椅子に腰を下ろし、角膜に保護の印を結んでから眼鏡を外す。
「ありゃ、俳優さんかい」
「俳優がここで髪切ると思います?」
「はっは! 言うねえ。ご注文は?」
「ばっさりいっちゃってください。それ以外はお任せします」
 店内の装飾やサスーンの広告を眺めながら、時折店主の会話に付き合う。上の階の娘さんが可愛いこと、お母さんが亡くなったらしいこと。身を以て体験した家族の別離を、その俯瞰を、知らないふりして聞きながら僕はスマホで王にメッセージを送る。「帰るよ」と。そうして僕は髪を切った。キミの元へ帰るために。

「ただいま」
 と言った声は沈黙に吸収されたようだった。カーテンが閉まったままの暗い室内。王はまだ眠っているのだろうかと、「おはよう?」と呼びかけながら寝室へ進むが、ベッドは空だった。だとすると風呂だろうか。しかしカーテンを開けて振り返ると、部屋が妙にがらんとしている。散歩か……と新たな推測をしながらソファに腰を下ろそうとすると、ふと視界に入ったデスクの上に、王のワンピースとネグリジェが綺麗に畳んで置いてあるのが見えた。その上にはアクセサリー類。床には靴。傍に寄ってみると、ちまきしか入らないサイズの小さなポシェットも傍に置いてあった。
 嫌な予感がする。
 すぐにスマホで王に通話をかけてみるが、応答がないことよりも最悪のことが起きた。ポシェットの中から、着信音がするのだ。咄嗟に手を突っ込み、中からスマホを取り出す。震えるそれは僕の名前をそのバキバキの画面に映し出していた。鼓動に連動して痙攣する手で終話ボタンをタップし、それでもただ散歩やコンビニに行っているだけかもしれないと一縷の希望に縋る。王のコインケースの有無を確かめるべく、ポシェットの中を改めようとして、その瞬間なぜかなにもかもがいきなり無理になって、中身を乱暴にひっくり返し、ぶちまける。コインケース。飛び散る小銭。ピンクの缶切り。花吹雪のひとひら。ライチの種。コンビニで貰ったクマのステッカー。きれいな小石。いつも僕に分けてくれないほうのキャンディ。色とりどりの絆創膏、絆創膏、絆創膏。奥に引っかかっていたのか、ペンを挟んだノートが遅れて落っこちてくる。見覚えのないそのちいさな、メモ帳とも呼べるそのノートは、表紙や端がいくらか傷んでいるが、開いてみると中は綺麗だった。そこには文字と記号と、王のへたっぴな落書きがびっしりと記されており、少し観察したあと僕はそれが王の作詩曲ノートなのだということを察する。
「とうしょめん」猫とおぼしき絵。「ちまき」おそらくドラゴン。「虹色」「ひつじ」ふわふわなかたまり。「とうふスプ」「おはなスプ」ハイヒール。ダチョウ。浮き輪のような絵。ナスと思しきぐるぐる。犬の絵。眼鏡の絵。これは狼。「スキって音、はやい」「おなかいたい」鳥の絵。このぐるぐるはたぶんラーメン。「ウォエノン」「ベロベロエンエン」蟹。シュイジャオマン。「車、横顔」丸い団子。犬。「まぼどふ」修正。漢字で、「麻婆豆腐」……狼。「オミアイ」大きな鳥。雫。猫、二匹。犬。「虹色」「あなたは虹色」犬。犬。僕だ。ハートマーク、消してあるハートマーク。
「おまえにあたえられるものがもうなくなってしまった」
 最後のページのその言葉を見た瞬間、僕は耐え切れなくなって嗚咽した。赤い染みのついたそのメッセージに、もう価値なんて一片も残っちゃいない涙がぼろぼろとしたたってゆく。僕を見送るとき、王はどんな表情をしていたのかもう思い出せない。笑っていただろう。でも笑ってなんかいなかったはずだ。唸りをあげて僕は泣く。王はどこかへ、行ってしまったのだ。間に合わなかった。僕はいつも間に合わない。あの日からすべてを間違えて、失ったものを取り戻すことも繕うこともうまくできないままただ僕は愛されてしまっていた。あの人に。王に。ファユエンに。ハリエットに。愛ある時間が僕を鈍麻させ、ありふれた幸福がこうして僕に止めを刺す。永遠がここにあると信じるだけで、僕は現状から一歩たりとも動かなかった。永遠から取り残されていることも知らずに。僕が僕であるだけで僕は僕に劣り、結果として恋が割れた。いまここでむちゃくちゃに割れてこわれて残骸すらのこっていない。ここにあるのは王の宝物だけだ。キミは僕の宝物だったという事実だけだ。……ぽろりとこぼれおちた宝物という語彙に、胸が切り裂かれた気がした。
 どれほどの時間、茫然としていただろう。永遠かと勘違いした。しかし涙と洟をだらだらと新鮮に垂らしながら、僕はその場にただ座り込んでいただけのようだった。外は暗くて、部屋の中も暗かった。ぐずぐずと這うようにして、香港には持って行かなかった自分のトランクの中身を確認すると、王のパスポートがない。だがあの酒杯も、あの人の形見のピアスも残されたままだ。王は僕からあの人だけは奪うまいとしてくれたのだろうが、こんなことをされたら僕はあの人に合わせる顔がない。
「ないどころじゃないっての……」
 呟いた声は重たい水分でずびずびになっていた。袖で顔を拭い、ふっとムカついてもっと拭って擦る。この擦過のまま煙みたいに消えてしまいたいのに、身長一九五センチのそこそこ巨体はちょっとやそっとじゃ消えてくれやしない。ぐわりと湧き上がる乱暴な破壊衝動は己の肉体へと向いていて、僕はそれに急かされるようにして王のスマホを持って部屋を飛び出した。もう誰も「行け」と押してくれない背中が、潮風を受けてじくじくと冷えるのは髪を切ったからだ。どきんどきんと鼓動のたびに痛む胸がもうその中身をぶちまけそうになっていて、「じゃあいまここでぜんぶぶちまけて死ねよ!」と、僕は走りながら孤独な言葉を叫んだ。誰もが僕を振り返って、誰も僕を見ていなかった。全力疾走に振った手に、もうあのピンクの絆創膏がないことに気づいて、僕は衝動のままその心中立の跡地に齧り付く。血が噴き出て、まだその程度の傷が痛いことに失望する。キミのいない僕の身体は無意味なのに。
 錯乱の心地で王と最後に歩いた浜へ駆け込む。心中してやるとぶつ切りの呪詛を己に吐いて勢いをつけたはずなのに、僕はなにかに躓いて転んでしまった。ばしゃりとつめたい夜の飛沫が身体を濡らす。振り返ると、躓いた地点になにか青い小さなリングケースのようなものがあった。誰かのプロポーズの残骸に躓くとは、こんなときまでツイていない。しかし冷や水に頭から突っ込んで一気に冷静になった僕は、水深十数センチの浅瀬に座り込みながら、転んでも握っていた王のスマホをざぶりと海水から引き揚げる。液晶が割れても完全防水仕様を保っているらしいそれは、僕と王のツーショットと現在時刻をロック画面に映し出していた。
 なんとなく、王の誕生日を打ち込む。エラー。どうやらいつのまにか暗証番号を変えたらしい。ハリエットの誕生日。ああ、王と別れた翌日は、確か彼の誕生日だった……しかしエラー。「なわけ」と呟いて、僕の誕生日を打ち込むと、ロックが解除されて、僕は「なわけ」と繰り返す。中を見ると通知が大量に溜まっていた。僕からの不在着信通知。ソシャゲのスタミナ回復通知。SNSのフォロー通知。ユーファン、ザントン、リーユー……そしてゾエからのメッセージ通知。王は、彼らのことまで捨ててどこかへ行ってしまおうというのか。僕だけでよかっただろうと憤りを覚えながら通知をひとつひとつ確認すると、通知バーの底に『狼の絵文字さん』からのメッセージ通知があった。受信日時は彼の誕生日の朝。つまり、僕が香港へ発った翌朝だ。
 いけないと思いつつ通知をタップする。するとそこには、
俺を信じてくれ
 と、ひとことだけのメッセージ。その瞬間、なにもかもを察してまた涙が溢れた。涙はぼたぼたと後悔の手紙ではなく広い海へと溶けていき、きえてみえなくなる。彼は、僕がこれを見ることを信じて、敢えて王のスマホにメッセージを残したのだ。
「信じる。信じるよ……」
 息を吹き返した声でそう宣誓する。
 まだ死ねない。
 まだぶちまけてない。
 まだぶちまけて死んでないから死ねない。
 最後に残ったのは希望でもなんでもなく、寄る辺を求めてリンクし合うちいさな友情だ。僕はゆっくりと立ち上がると、短くなって水気を払いやすくなった髪を撫でつけて空を仰いだ。ちいさな惑星を伴って、頼りない僕を照破する月が高く高く昇ってゆく。



 End.

B面の月に花に
わたくしは雲、風、あなたを愛していた


2024.11.11
SERTS連載開始1周年を迎えました。今までお付き合いくださり、ありがとうございました。これからもどうぞよろしく。SERTSに推進力を、あなたによい旅を!

道等棟エヴリカ/口説



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