やさしいこころの理論と倫理、道徳、分かったつもり こころの理論と現代哲学やラカン理論から倫理や道徳の起源を導き出してみます。

こころの理論と現代哲学やラカン理論から倫理や道徳の起源を導き出してみます。


・科学的に倫理道徳は裏付けられない

 将来は分かりませんが、現在は世の中の倫理や道徳とには科学的根拠がありません。

 ここでは宗教的に裏付けられているとかそういうのはなしとします。

 倫理や道徳は近代でも哲学で扱われるテーマでした。

 近代以降の現在の哲学ではやはり科学と同じく倫理や哲学は実証されていません。

 将来実証されるとしても時間がかかるでしょう。

 ですからこれから書くのはのこころの理論を前提として倫理、道徳の結論を出す考え方です。

 わりあいと知られている考え方だと思われますが一つの仮説に過ぎませんのでどう感じて頂いてもいいと思います。


・こころの理論とは

 こころという概念を定義するのは難しいかもしれません。

こころの定義が難しい一方で心の理論というものがありこれはシンプルに下のように説明していいいでしょう。

「ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである」

 こころの理論は科学的な仮説です。

 「こころとは何か」のような哲学が混じったような観念的ではありませんので意味をはっきりさせています。


・こころとは

 心とは何かと言えば歴史的、文化的重層性がありますので簡単に言うことはできません。

 他方でこころの理論とからめて説明することはできます。

儒教の忠恕のや王陽明の陽明学、そこから発展した日本の江戸時代の心学などは現代日本のこころのイメージに影響を与えているでしょう。

忠は「まごころ」「まじめなこと」で恕は「思いやり」「ゆるすこと」です。

つまり忠恕はまごころと思いやりです。

これは自分には心があるということを前提としています。

それだけでなく相手、あるいは人間ではない他者や外部、動物や山川草木など自分以外の何かにも自分が共感できるこころがあるということも前提としています。

忠は「心」と「中」の組み合わせでできている字です。

真心や真面目という意味には心というものは比較的はっきりとしたものであること、真がある、実があるというような意味になるでしょう。

まさに心の真ん中です。

これを自分も相手ももっているのです。

一方「恕」は「心」と「如」からできています。

 思い遣りと赦すことと言う意味です。

 「心の如く」と書いてどちらかと言うと自分より相手の心を思う気持ちのように見えますが、自分の心の如くでもいいので自他をはっきりと区別しなくてもいいかもしれません。

まさに自分の心が相手の心の如くなれるという風にイメージできるかもしれません。

 宋学の二大潮流は朱子学と陽明学で朱子学は理気二元論的です。

 「理」はもちろん「気」も現代の我々がイメージするよりは気は物質を含めた無機的なイメージです。

 一方陽明学は心学ともいわれ、精神の内も外も心の現われと考える主観的唯心論とも呼ばれます。

 この陽明学は幕府のような官学ではありませんでしたが日本の諸藩から町民まで民間では栄えたようです。

 如からは「己の欲することを人にすることなかれ」のような洋の東西を問わないともいえる様な倫理のゴールデンルールが出てきます。


・こころと自己

 自己とは何かは「心とは何か」と同様に難しいでしょう。

 デカルトは「我考える、ゆえに我あり」といいました。

 ソクラテスは「私は自分の知らないことを知っている」と言いました。

 現代哲学の観点から言えばデカルトやソクラテスは無意識に「我」や「私」というものが良く考えていったのかは分かりませんが何となくはっきりと理解できるものであると思い込んでいたようなふしがあります。

 現代哲学では古代や近代とは逆に我も私も良く分からない、明確にするのが困難なものです。

 西洋哲学の歴史では古代も近代も自己ははっきりと分かり得るものと明確にか漠然とか分かりませんが前提としていたようです。

 精神病理学や精神分析学の歴史を見ていくと自我や自己は重大な問題です。
 フロイトやジャネの師匠のシャルコーはてんかんやヒステリー(解離性障害の一種、転換性障害も含んだ)という精神の「自分」に関わる部分の精神現象を研究しました。

 フロイトから始まる精神分析学では自己同一性という言葉を作ったエリクソン、メラニー・クライン学派や対象関係論、と言う重要な理論が出てきます。

 統合失調症に精神分裂病と言う言葉をつけたのはこのフロイトやジャネの影響を受けたブロイラーと言う人です。

 精神病(サイコーシス)というものには色々種類がありますが、シゾフレニアは分裂性の精神病と言う意味で、何が分裂するのかと言うと精神も含むのかもしれませんがむしろ連合心理学における連想の障害と言うのが原語の意味でした。

 確かに統合失調症の症候をみると広い精神機能での連合、あるいは連想の障害が見られるように見えます。

 精神に関する理論は一つには精神病理学にせよ精神分析学にせよ統合失調症の研究がブレイクスルーとなります。

 我々はある意味だれでも統合失調症を発症したり精神病状態になる可能性があります。

 それを弱いというのであれば人間は誰でも弱いと言えます。


・自己と他者の境界

 デカルトやソクラテスは我や私をはっきり区別できると思い込んでいるようなことを上に書きました。

 現代哲学では自己や他者がいつでもはっきり区別できないという考え方もする話もしました。

 自分や他者をはっきり区別できると倫理や道徳と言うのは非常に単純な構図になります。

 自分や他者の心が別々にあって、それぞれ利他や利己があって、自分の幸せや不幸、楽しみや苦しみがある一方、それとははっきり断絶した他者の幸福や不幸、楽しみや悲しみがあります。

 断絶しているのでそれをつなぐ第三項が必要になるのが古典的な倫理・道徳になります。

 自分と相手をつなぐ第三項は神であったり、経典であったり、偉い人の言葉であったり、慣習的な社会規範であったりします。

 現代の哲学の目から見ると絶対それでなければいけないという根拠が特にありません。

 それとは逆に現代哲学や精神分析や心理学の考え方では自分と他者の境界、自他境界ははっきりいつでも線引きできるとは考えません。

 むしろはっきり区別できない状況はとても多いと考えます。

 例えば新生児から青年期の前まで、時には胎児の心理や神経発達を勉強すると自分と他者が明確に区別できるということは当たり前のことではないことが分かります。

 また精神病理学、特に統合失調症や愛着と自己同一性の障害、自閉スペクトラム障害や反社会性パーソナリティ障害のサイコパス傾向の人、解離性同一性障害などの解離性障害を見ると自他の分離というのは当たり前でないことが分かります。

 自分と他者には明確な境界を作ろうと思えば作れる時もあれば、作れない、あるいは作っても境界が崩れてしまって曖昧になってしまうこともありうると現代の哲学や人間の真理を研究する学問は教えてくれます。

 人間は同調性や共感性を持ち人の気持ちを感じてしまいます。

 そしてそれを自分の感情のように思ってしまう傾向があります。

 人を思いやれと強制されなくても自然に思いやってしまう性質があるという考え方があってそれを定型発達と言います。

 逆に他者に対する同調性が先天的に薄い場合には空気が読めなかったり、他人や集団とコミュニケーションの問題が発生する場合があります。


・こころと倫理と道徳

 自分の心と他者のこころが明確に分けられないことを理論化したのが精神医学や精神分析学におけるメラニー・クラインからジャック・ラカンの流れで、子供の心の発達や統合失調症の精神分析から得られた知見を使ってたてられた理論です。

 精神の異常と正常と言う区別をした見方をしない考え方の伝統が精神関係の学問の領域にはあります。

すなわち異常と正常、普通の人は正常な精神を持っていて統合失調症の人の精神は異常であって例外であると区別するのではなく、両者を統一的に理解しようという伝統が精神医学にはあります。

この流れから現代哲学が生まれたので現代哲学も自己と他者が明確な境界を持つという前提がありません。

つまり人は他人の痛みを自分の痛みと感じえますし、自分が痛みを感じたときに他人がその痛みを自分自身の痛みとして感じえます。

実際に自我心理学では転移や投射や同一化などの防衛機制としてその様な他人の気持ちを自分の気持ちと思う、あるいは自分の気持ちを他人が分かってくれて自分と同じように感じてくれているというのは普通のことだと考えています。

ここには古典的な明確に区別できる自分と他者とその両者と独立な外的なルールで作られた倫理道徳のシステムではありません。

現代哲学から自然に導かれる倫理や道徳の成り立ちの説明になります。

つまり人が痛みを感じれば自分もその痛みを感じるし、自分が痛い時には人も自分の痛みを感じてくれていると思うことが倫理や道徳の起源だということです。


・おわりに

 心の理論の定義は明確ですが、「心とは何か」という質問に対する答えは簡単ではないでしょう。

 ただ心の理論における「こころ」の意味は自分も他人も持っていると思われる何かです。

 また自分のこころであっても他人のこころであっても分かった気になれるものでもあります。

 古典的な考え方では「本当に分かっているのか」「他人が持っているこころは自分のこころと同じか」が問題になりますが、現代哲学的にはそういったことは問題ではありません。

「分かったつもりになれる」こと自体が大切です。

 自分は相手のこころが分かる、相手が自分の気持ちを分かっていてくれていると思い込んでいることが人間や社会の特徴でしょう。

 忠恕、真心と思い遣り、真面目なことと赦すこと、良心や本心、清明心、正直や誠実が日本の倫理、道徳の通底にあります。

 その様な倫理や道徳の起源は必ずしも精神や心の学問や哲学的に考える必要がなく、普通に当たり前のことと見なしてもいいのかもしれませんが、現代哲学や精神分析学では古典的な倫理や神や教義や慣習を前提とする道徳観と違って哲学や理論内部に内包されそこから演繹できるところが特徴です。

 心に限らず「分かったつもりになれる」ことは大切なことです。

 「分かったつもりになる」のは現代哲学のメインテーマですし、どの分野でも一般的な学習においてまず間違っていてでも分かったつもりになれなければ勉強が進みません。

 我々の精神において、分かったつもりになっているものが現象しているものですし、分かったつもりになったものが現象するものです。

 自閉スペクトラム症など発達障害の研究などにより心の理論は今後有名になっていく可能性があると思います。

 拙文においてこころについての何かのヒントを示せたならば幸いです。(字数:4,393字)

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