やさしい多重人格と心と脳の精神の解離モデルと哲学について

やさしい多重人格と心と脳の精神の解離モデルと哲学について

・はじめに
・多重人格とは
・こころの形のモデル
・こころの形の解離モデル
・記憶について
・忘れること
・覚えることと忘れることのまとめ
・精神疾患の見方:内因と心因、精神病と神経症
・心の解離モデルのまとめ


・はじめに

 多重人格とは精神医学では解離性人格障害と呼ばれます。

 解離性人格障害とは解離性障害の一種です。

解離性障害は不思議な症状を見せます。

解離性障害の研究からある脳についてのモデルと仮説が生まれ、これが医学や心理学、哲学に影響を与えました。

解離性障害の脳や精神のモデルや仮説について分かりやすく説明します。


・多重人格とは

 多重人格は「ジキル氏やハイド氏」などの小説で昔から有名でした。

 多重人格の患者さんはそれほど珍しくはなく、精神科で毎週外来を担当しているような医師であれば何人かの患者さんの主治医をしていることが多いと思います。

 多重人格の病名は解離性同一性障害と言います。

 解離とか分裂とか統合失調とか精神科では似たような言葉がよく使われるので混乱される方もいるかもしれません。

 解離性障害でよくテレビや映画で見かけるのが記憶喪失やPTSDのフラッシュバックです。

 事故の頭部打撲などによる場合もありますが、そのような身体や頭部の外傷がなくても何らかの精神的ショックで過去のことを忘れてしまうような逆行性健忘は昔のテレビドラマではよく見かけました。

 これは解離性健忘と言います。

 それと似ていますが記憶がないのに知らない間に別の場所に行ってしまう場合があり、これを解離性遁走といいます。
 
 PTSDのフラシュバックは突然過去のトラウマが思い出されて精神的にかく乱されてしまう症状が起きます。

 フラッシュバックが起こる何かのきっかけがある場合もありますが、きっかけなく突然意識の中に侵入してくる場合があります。

 どちらの場合も記憶の症状があるのと意志などではコントロールできない症状が精神を占領してしまいます。

 共通するのは記憶の傷害があること、自分でコントロールしてない精神症状や行動が見られることです。

 解離性同一性障害は自分の中に複数の人格があり、人格交代が見られる障害です。

 二重人格と言う言葉がありますが解離性同一性障害では2人よりもっと複数の人格が見られることが多いようです。

 人格交代時に別の人格の時の記憶を覚えている場合も忘れている場合もあります。

 人格の数がはっきりしない場合も多いですし、消えていなくなってしまう人格もいますし、久しぶりに出てくる人格もありますし、新しい人格が誕生する場合もあります。

 虐待などの幼少時期の虐待体験を契機に発症した場合には非情にはっきりと分化した個性のある人格が見られることが多いようです。

 臨床的には発症年齢が遅い程人格の数も少なく人格間の個性もたっておらず、記憶障害が曖昧な感じなことが多いようです。

 軽症だと単に意識レベルの低下のように見える場合もあります。

やはり発症年齢が遅い方が回復しやすく、発症時年齢が早い程治癒しにくい傾向が見られます。

 発症年齢の低いはっきりした多重人格症は初めて会う人には不思議な印象を持たせるものです。


・こころの形のモデル

 こころの形についてのモデルは精神分析のフロイトの理論が有名です。

 前期フロイトは、意識の下には前意識、その下には無意識があるというように心は深奥から表層に向かって階層構造をしているというこころの階層論を唱えました。

 他方で後期のフロイトはこころの構造論と言う理論も唱えます。

 いわゆるエディプスコンプレックスで有名な理論で、心は自分、母、父との関係性と関係の構造により発達、成長していくという理論です。

 ここでは登場人物は自分と母と父なので三者関係と言われます。

 フロイトの娘のアンナ・フロイトは防衛機制を重視して自我心理学を唱えました。

 人間は先天的に様々な嫌なことに対処しようとするメカニズムがありそれが発動されることにより人間の心理を説明しようと考えます。

 全てと言うわけではありませんが人間のこころは多くの防衛機制で形づけられていると考えます。

 フロイトの後継者たちはには胎児期から新生児、乳児期の母との自他境界がない、あるいは不鮮明な時期を一者関係、自分を母の区別がある程度付くようになる時期からを二者関係として三者関係に先立つ構造として考える研究者もいます。

 心の形に関する理論このフロイトの2つの理論が有名ですがフロイトと同時期にフロイトとは別のこころの形のモデル、精神の解離モデルを作った学者にピエール・ジャネがいます。

 19世紀末に催眠術を使っててんかんやヒステリーの鑑別を行いました。

 フランスでは症状を詳細に観察して、患者さんの死後の病理解剖により器質的異常を同定する研究が盛んでした。

てんかんとヒステリーは症候としては同じであり見分けることができない場合が多くあります。

 てんかんは海馬硬化などの明確な病理組織が見るかる場合もありますし、少し後には脳波
が発見され脳波異常がてんかんの原因であることが分かります。

 それに対して神経症やヒステリーは病理学的(器質的)異常がないのが定義になります。

 てんかんは器質性の障害で外因性精神病であり、ヒステリーは心因性精神病、あるいは神経症のヒステリーであるとの考え方が提示されます。

 ヒステリーや神経症の研究が発展し登場したのがフロイトの階層モデルや解離モデル、ジャネの精神の解離モデルです。

 その他には神経学者でありてんかんの研究家である、ヒュー・ストリングス・ジャクソンや精神病理学者のアンリ・エーの中枢神経系の段階的発達形成のモデルなどがあります。

 
・こころの形の解離モデル

 ジャネは神経系はそれ自体で完結しそれぞれそれ自体で自律的、自動的に機能する多数のユニットを持っていると考えました。

 そのユニットが働いていれば我々は自分で意識しなくても何らかの精神活動や行動を自動的に行います。

 例えば我々が立つのも歩くのも特に意識せず行います。

 立つ、歩くように指令を出す場合もそれを意識している場合もありますがあまりそれを意識していない場合もあります。

 その様な多数のユニットをコントロールし意識しているのは持続的な意識や注意や記憶であり、それを支えるのは精神的エネルギーや精神的緊張であると考えます。

 意識清明で意識野が広く注意の分散や集中もできてそれらが持続して作動していれば注意を働かせるような状態にあれば自覚的にも他覚的にも逸脱した精神活動や行動は行いません。

 しかし何らかの理由で精神てき緊張やエネルギーが低下して自分の精神を自覚したりコントロールできていない場合が生じることがあります。

その様な状態を神経衰弱ならぬ精神衰弱と言います。

精神の衰弱して心を統合する機能の低下が起こると精神の機能ユニットが勝手に働いて」しまう場合があります。

 意識も意図もしていない考えや感情が浮かんだり、行動を取ったりしますしそれを覚えていなかったりします。

 自動的に意図しない精神機能が作動してしまうことを精神自動証などと呼んだりします。

 これもてんかんでも見られることがありてんかんの病理と神経症の病理は心の形のモデルを作るのに大きな影響がありました。


・記憶について

 解離性障害を考えるには色々なポイントがありますがここでは記憶や健忘を取り上げます。

 多重人格、解離性同一性障害の場合には一人の人間の身体の中にたくさんの人格があるように見えます。

 しかしこれは必ずしも多重人格の人だけではないかもしれません。

 普通人間は場面に応じて違う人格を演じます。

 空気を読んで状況や相手によって態度を変え別人のようにふるまいます。

 そういう意味では誰でも複数の人格を持っていてそれを都合よく自分の都合に合わせて使い分けるわけです。

 そういう意味では普通の人も多重人格と同じです。

 しかし異なる点がいくつかあります。

 例えば異なる人格であるときの記憶が他の人格である時にあるかないかです。

 解離性同一性障害でも異なる人格であるときの記憶がある症例はありますが、全くきおくをなくしている場合がありこの場合には生活に重い障害が主事ます。

 ここでは記憶と健忘にポイントを絞って考えてみます。

 我々は普通、覚醒して意識がある時の状態はいつでも早期出来て思い出せる状態を当たり前として生きています。

 例え人が変わったように態度や人となりが時によって違っていても本人がそれを覚えているためそれの記憶を共通認識としてコミュニケーションが成り立つのを当然としています。

その場合は記憶の時間的な連続性がある状態です。

時間の連続性は同一性とも言います。

この場合起きている間の記憶は保持されていてたまに断片的に忘れていて断続的のように見えても想起していれば思い出す可能性があります。

そして同じことを思い出しているのであれば、それが時間が空いていても記憶内容は同一であると考えます。

多重人格でない人は意識して演じているにせよ無意識に振る舞いを変えているにせよその期間の記憶を連続的に保持しています。

他方で多重人格の人はある人格である間の記憶が別の人格である時には完全に思い出せないことが生じます。

視点を変えて哲学的にこの現象を考えてみます。

古典哲学では頭の中に浮かんだ記憶やもっと広く言えば観念はある時間を挟んで断続的絵あったとしても同じものだと考えます。

 これは記憶に関する同一性の考え方と言えるでしょう。

 しかし現代哲学では記憶は思い出すたびに作り直され違うものになっているという考え方があります。

あるいは連続的に同じことを思い出していたとしても刹那に、一瞬ごとに異なっている、あるいは変化しているという考え方があります。

 これは記憶のこの側面を差延という言葉で表す場合もあります。

 現代哲学のような記憶に対する考え方を古典哲学からみると「記憶の同一性がない」ということになります。

 現在の心理学、認知科学などでは現代哲学のような記憶に関する考え方がすでにあります。


・忘れること

 覚えるに対して忘れるは反義語のように見えます。

 記憶の反対は忘却や健忘と言ってしまってここでは単純に対にして使ってみます。

 記憶、あるいは認識対象の同一性を現代哲学は前提にしません。

 記憶も認識対象も一瞬ごとに異なるものだとすれば記憶や認識の定義もし直す必要があるのかもしれませんし、健忘という言葉も定義し直す必要が生じるかもしれません。

 記憶の同一性がもしなければ人間は同一記憶を想起していると思っても一瞬一瞬前の記憶を忘れてはあたらしい記憶というか認識を作り出していることになります。

 言い換えると人間は一時も同じことをイメージすることはなく、継続してイメージしている相異なるイメージを同一のものと思い込んでいるということになります。

 この様に考えると記憶や健忘という言葉を当たり前のように分かり切ったことだと思むことに疑義が生じます。

 記憶や健忘という言葉を定義し直すかあるいは使うのをやめて別の概念を導入する必要があるのかもしれないのです。

 記憶や忘却、健忘は精神医学や哲学のみならず発達心理学、老年精神医学のような精神科のある分野、学習、あるいは暗記を競う競技などでは別の意味で考察する価値があります。

 例えば睡眠は記憶したことを忘れていられる時間です。

 この忘れることがおそらく記憶にも大切な意味があると思われます。

 何かを学習する時我々は反復学習します。

 これは特に子供で顕著です。

 子供は忘れるのが仕事のようなところもあります。

 一回で覚えてしまうと記憶力がいいと思われがちですが特に新規の概念であったりすると、

覚えては忘れを繰り返して記憶を定着させることには、1回で覚えてしまうこととは異なる意味があります。

徹夜して勉強するより一回眠って起きてからまた覚えた方がいいのは間に睡眠を挟むからで睡眠と言うのは色々な意味で究極の忘却と言えるでしょう。

 幼児期の記憶は忘れるのが当たり前で幼児性健忘といいます。

胎児から新生児、乳児、幼児、学童期までは大人から見るとそれが時間が経った昔のことであるからと言う理由以外にも多くのことを忘れてしまっている様に見えます。

大人にとって覚えているべきこと、覚えているはずのことがあるはずだという先入観があるのかもしれません。

発達心理学では大人と子供の間に思春期、あるいは自己同一性の確立の時期があるという考え方があります。

自己同一性のみならず自己や他者、自己の役割りについての同一性や恒常性を確立し始める時期と言う風に見られています。

おかしな話ですが子供にとって大人が使う意味での記憶や健忘と言うのはなく、記憶や健忘の意味が大人や子供では何か異なるのかもしれません。

哲学的に考えると大人が古典哲学的な認識論や存在論をマスターする時期が思春期と言えるかもしれません。

 しかし問題なのは人間はひとたび何かを身につけて他に選択肢がないとそれに固着してしまう傾向があり別の見方ができなくなってしまうことです。

 仮に同じ対象としてくくっていてもそれに対して色々な考え方できる様になることが現代哲学の構造主義では肝になります。

 同じものに色々な見方を発見する、構築する、構成するということは、これは脱構築と呼ばれるものの主要な方法になります。

 ある見方から別の見方をした時に元の見方が解体されるからです。

 現代哲学以外にも同一性批判をする思想があります。

 例えば仏教で、事物の時間同一性を相対化する概念として無常や無我というものがあります。

 覚えることが大切な様に思えますが忘却や健忘もおそらく大切です。

 哲学的な意味だけでなく心理学や認知科学、脳科学的にも今後忘却や健忘の

 忘却することが大切なゲームやスポーツもあります。

 カードゲームなので前の試合の記憶が残っていて引きずられてミスをした経験がある人は多いでしょう。


・覚えることと忘れることのまとめ

 古典哲学の実在論では覚えることと忘れることの関係は単純です。

 覚えたことをいったん忘れたり意識の外に締め出しても思い出せば全く同じものを想起していると考えます。

 これは同一性の考え方です。

 現代哲学の構造主義ではその様な見方も是としつつも別の考え方もします。

 非同一性の考え方で覚えることも忘れることも刹那刹那に行われ続けます。

 ある記憶を想起していてしばらくその事を忘れて再びその記憶を思い出してもそでは同一の記憶とは見なしません。

 新たに再構成された記憶と見なします。

 そのように記憶の想起が断続的である場合はもちろん、時間的に連続してある記憶を思い出している場合もその記憶は一瞬一瞬で別のものである、覚えては忘れ覚えては忘れを無限に繰り返しているようなイメージになります。


・精神疾患の見方:内因と心因、精神病と神経症

 最後のまとめの前に精神疾患の見方のいくつかをあげます。

 精神疾患は色んな角度から分類されます。

 そのうちの一つは内因性、外因性、心因性という分け方です。

 外因性とは病気や事故、精神作用物質などの乱用などによって脳に損傷が生じて起こる精神疾患です。

 病気で全身状態が悪くなれば意識障害が生じます。

 意識障害は重度であれば意識不明で体も動かせませんし疎通も取れません。

 しかし意識障害が軽度であれば錯覚や幻覚などの感覚異常や思考がまとまらなかったりおかしなことを考えて思い込んだり、注意が散漫になったりおかしな行動をとってしまったりする様々な精神症状が現れます。

 事故などで脳の損傷が起きてもやはり様々な精神症状が生じますし、アルコールや麻薬などの中毒や依存により精神に異常が生じることはよく知られたところです。

 外因性精神病は脳に直接異常が観察されるので精神に異常が生じてもおかしくはないという意味では分かりやすいと言えます。

 内因性精神病と心因性精神病はそれに比べると成立の経緯などがあるのと、そのような分類方法が生まれた時代と現在の考え方が異なっているので現代人には若干分かりにくい面があるかもしれません。

 内因性精神病は脳に器質的異常や身体疾患による脳への影響、薬物による脳の変化などの異常はないものの、まだ見つかっていない脳の傷害があってそれにより精神に異常が起こっているのだろうと考えられている疾患群を指します。

 具体的には統合失調症、うつ病や双極性障害(躁うつ病)などの気分障害です。

 これらは昔は器質的異常が見つかっていませんでしたが現代では器質的異常や物質的異常が見つかっているものの診断への実用化には至っていません。

 心因性精神病とは心理的な理由で精神に異常をきたしているものを指し、愛する者との別離や被災体験など大きな精神的ストレスにさらされたことによりおこった心理的な反応です。

 これは時に単的に心因反応などと呼ばれることもあります。

 心因性精神病としては早い時期から精神病と区別されていましたがいわゆる神経症が代表とされていました。

 神経症という言葉は正式の精神医学から消えつつある傾向にあるので知らない人も多いかもしれません。

 神経症性障害と言われるものは神経症と言う言葉を使わなくなってからも近年までは不安症や恐怖症、強迫性障害やPTSDや適応障害などのストレス関連性障害、身体表現性障害や解離性障害として分類されていました。

 かつて神経症と言われたものは古くは不思議な病気、その後は神経に異常がないのに神経の異常があるような症状が現れる病気、フロイトなどの精神分析学が現れてからは精神的抑圧に起因する病気と考え方が変遷していきました。

 精神病は精神に異常がある病気と言う意味で、精神に異常を示す症状を呈するという意味で精神病をサイコーシス(psycosis)といいます。

 同様に神経に異常を示す症状を呈するという意味で神経症をノイローゼ(neurosis)と言います。

 このノイローゼも今では使われない言葉かもしれません。

 神経に異常がないのに神経症状をきたすという意味で神経症が使われるのであれば、末梢神経を含む神経系全体ではなく中枢神経系だけに注目して脳に異常がないのに脳に異常があるような症状をきたす病態をヒステリーと言います。

 ヒステリーも最近は使わない言葉かもしれません。

 外因性はともかく内因性や心因性は実証されてないので仮説に過ぎません。

 精神病も神経症もやはり実証されていないので仮説的で観念的な概念に過ぎません。

 精神病理学の中で精神分析学が発展することで心理学的な病態理解が発展していきます。

 以前であれば内因性精神病と心因性精神病と分けられたものが、内因性精神病はよいとして心因性精神病はヒステリーを含めた神経症として神経系の傷害による器質的な病気ではなく機能の失調としての心理学的な病気と理解が変わっていきます。

 精神病も神経症も「病」という言葉がついても症候群になります。

 つまり病気とは言えなくて同じような一群の症状(や兆候)を持った状態をいいます。

 何かの病気の場合もありますが、病気かどうか分からない場合もあります。

 ちなみに近代的な「病気」や「疾患」とは病理学や感染症学で定められた基準を満たす状態で、身体の器質的変化が基本的に含まれます。

 精神科の場合は身体の器質的変化が発見されていないので病気や疾患とではなく症候群診断になることが多い経緯がありました。

そこで「病気」や「疾患」と言わずに「障害」や「症」という言葉が使われてきた経緯があります。

 精神病も神経症も症候群です。

 精神病状態でも神経症の症状がみられたり、同じ病態や病理が推定される場合が頻繁にありますし、逆に神経症状態でも精神病の症状が見られたり、精神病的な病態や病理が推定されることがあります。


・精神の解離モデルのまとめ

 精神の解離モデルはこころには沢山の機能ユニットがあってそれ自体で自動的に単独で働くことができます。

 そのたくさんある機能ユニットを整然と秩序だって働かせたり働かせなかったりするコントロールをし、かつそれを意識し記憶するには精神的緊張や精神的エネルギーがいるとジャネと言う精神医学者は考えました。

これを精神の解離モデルと言います。

 これは神経症のなかでも強迫性障害や解離・転換性障害、フラッシュバックなどを説明するのに適したモデルです。

 しかし精神病のみならず時代の心理主義の風潮やフロイトの精神分析学などの勃興と共に精神分裂病(分裂性精神病)、当時の早発性痴呆で現在の統合失調症の概念や名称確立にも影響を与えていきます。

 分裂、統合失調とは精神の機能ユニット、コンパートメントの統合の失調、分裂ということで臨床症状の分析と病態仮説になります。

 自動症とは側頭葉てんかんの精神運動発作で見られますが、解離性障害の記憶のない行動や統合失調症のコントロールできない幻覚妄想状態を説明します。

 精神的緊張、エネルギーの低下による精神衰弱により精神の機能ユニットがコントロールされず意識野や記憶にも登場しない形で自動的に勝手に発動されてしまっている状態と言う風に病態、病理を説明します。

 精神科、神経内科、神経外科、小児科など精神や神経の臨床医学ではフロイトの精神の階層論や構造論、防衛機制論、ヒューリングス・ジャクソンやアンリ・エーのフロイトとは違った階層論であるジャクソニズムやネオ・ジャクソニズムなどが使われますが、精神医学では解離モデルも臨床的によく使われますので知っておくと便利です。(字数:8,815字)

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