やさしい象と念とイメージと現象の哲学

やさしい象と念とイメージと現象の哲学


・はじめに

 象と言う字は動物の象以外に、現象(げんしょう)、対象、表象、抽象、具象、捨象、象徴、印象、形象、気象、心象、事象、万象と多岐にわたります。

 人偏のついた像と言う字もありますが、これは映像、画像、彫像、肖像、偶像、想像、現像(げんぞう)、実像、虚像、原像、写像などの熟語があります。

 象と像では読み方も使われ方も違いがあり、象がどちらかと言えば心的なもの、像が現実的な物を現しています。

 哲学で使われるのは「象」の方になります。

 「象」という言葉は哲学でよく使われますし、大切な概念を表す上に、なかなか替えの表現がありません。

 「象」についてまとめました。


・象と学問

 「象(しょう)」は英語のイメージと同じような意味とここでは考えてみましょう。

 ただし英語のイメージは「像」も含みますが言葉の一対一対応は普通はありませんのでそれはおいておきます。

 象が内面的な表象で像が具体的な事物とすると想像と言う言葉は「像」でいいのか?という疑問が生じます。

 現代では脳の中の表象と外的な物理的な存在は別物であるのが科学的にも通念となっていますが、昔は主観的な認識と客観的な認識が一対一の同値関係で対応するというのが当たり前であった時代があります。

 その様な時代には象と像を区別する必要がなかったと思います。

 想像は外界の像と内面の象を区別しなくてよい時と場合、未分化な時代や文化では自然な言葉です。

 同時に象と像の共通の原点のような言葉です。


・現象学と数学

 象を哲学の主な問題として最大限に注目した人物としてフッサールをあげてみたいと思います。

 古くはアリストテレスや近代でもヘーゲルなど現象(フェノメノン)は哲学では大切な問題でした。

 フッサールは現象学的還元と言う方法で象と像を完全に断ち切ります。

 時代的には自然科学においては光の粒子説や波動説、音は空気の振動と視覚における色や聴覚の音色は脳で信号が情報処理され変換された感覚の様式という見方も出ていたでしょう。

 現在は哲学と言う学問は将来倫理学と脳科学(認知科学、大脳生理学など)に吸収されてしまいそうな雰囲気もあります。

 像で感じられる色や形や立体感は脳で作られたものでこれはカントの純粋理性批判の理論で有名です。

 象と像の関係ですがリアリティの点からすると2つの見方ができます。

 像の方が象よりリアルな場合と、象の方が像よりリアルな場合です。

 普通、伝統的には現実世界のリアルさが正しくて人間はちっぽけで現実の像と人間の頭の中の象が一致しない場合は人間の勘違いということになります。

 勘違いは錯覚、ないはずのものが見えるのは幻覚と言って併せて盲覚と言います。

 古典的にもそうですし人間の発達過程の教育でもその様に思うように訓練されます。

 そしてそれが人間関係や社会の基盤になります。」

 一方象の方がリアルで現実世界にそれに対応する像がない場合があります。

 これが特徴的に見られるのが数学の世界です。

 現実には像が存在しない、あるいは比喩的にしか象と当てはまる像がないのに象がリアルに存在しかつシステムを形成します。

 フッサールの特徴は元数学者で解析学の代数学のワイエルシュトラウスのもとで研究したり代数学の公理化を進めたクロネッカーのもとで研究したり、現代数学の父で幾何学の基礎付けを行ったヒルベルトの同僚でした。

 研究は最初は数学の厳密な基礎付けから初めて数学から哲学へ転科し哲学の厳密な基礎付けにテーマを変えました。

 自然科学の代表であり基礎である物理学はまず像ありきです。

 像とは具体的な物の世界です。

 地球と太陽、月とリンゴがなければ速度も加速度も質料も力も作用も反作用も慣性も相対性も万有引力もありません。

 他方で数学はまず象ありきの世界です。

 点も線も数も具体的に現物を提示することはできません。

 しかし点や線や数は現実に外界に存在しなかったとしてもリアルな実体を発見できなくても我々の中ではリアルです。

 象とは我々の内面的なイメージであり表象出来ますが、客観的な像としてのイメージとしては表現しても必ず瑕疵がのこります。

 数学者は数学の基礎と厳密性を保証するために現実に像が存在しないがリアリティのある象について向かい合って根源的な思考をせざるを得ませんでした。

 フッサールはそれを最初に数学で行い、研究分野を哲学に移したわけです。

 点や線や数と言った数学が研究対象とする象も存在や認識や観念などの哲学的な研究対象もどちらも象として考えれば違いはありません。

 象は精神内面のイメージ、像は感覚される前の物自体です。

 フッサールは精神内界の現象の研究に向かいます。

 フッサールの象の研究は現象学と呼ばれて実存主義などにも取り入れられほぼ直接にハイデガーやサルトル、メルロポンティなどの哲学を生みます。


・概念

 現象とは精神内界のイメージで表象などとも書き換えられます。

 イメージはイメージセンサや写像などのように精神的でない意味にも使われます。

 多少意味がずれますが精神の内界の要素を表すものに概念という言葉があります。

 これはなかなか興味深い言葉です。

 漢字の構成として「概」と「念」と言う字からできています。

 「概」は「だいたい」「おおむね」「大雑把に」というような意味と捉えていいでしょう。

 非常に雑で荒い感じがしますがそこがこの言葉の一つの肝になります。

 もう一つの肝は概念が「念」であることです。

 念という言葉は絶妙で意志、心的エネルギー、執着や粘着で心にとどめておくこと、などの精神力動的な意味を持ちます。

 概念も象として考えることができるでしょう。

 抽象概念という言葉があります。

 具象概念という言葉を使ってもいいのでしょうがこちらは一般的ではありません。

 つまり概念という言葉は大雑把な念ですが、別の見方をすると念とは大雑把なものでしかありえないという可能性を示唆しています。

 抽象度をあげるとより大雑把でない概念になるかもしれませんが、抽象度を下げるとより大雑把さをあげることができるでしょう。

 概念は色々な概念をより集めて新しく作られる場合もあるかもしれません。

 その場合合成された概念は分解できるでしょう。

 概念を形成する色々な概念をそぎ落とすことを捨象と言ったりします。
 
概念というのは念の一種という考え方は重要です。

念んずるという心的エネルギーを消費することで概念が生成維持されるからです。

この「念ずる」という観点から見れば概念は作るものであり維持するものであり、そのための心的緊張と精神的なエネルギーが必要であり、緊張や精神的エネルギー、概念を生成維持する構成力がなくなれば維持できなくなり意識外に隠れてしまうか解体して今います。

ここら辺は精神医学では精神分析家や精神病理学者のフロイトやジャネなど大物もその後継者たちも直接、間接を問わず触れているところです。


・象の終わりに

 象という言葉はエレファント以外は熟語として使われることが多いでしょう。

 ほぼニアリーイコールな言い換えは現象や表象であると思われます。

 外国語ではフェノメノンやフェノメナ、イメージなどが近い言葉と思われます。

 現象は象が現れるということで表象は象が現れるということです。

 現も表も日本語ではあらわすと読みます。

 精神の知的な部分に現われ哲学の対象とすべきなのは象であり、象だけを研究すればっよいというのがざっくりいった現象学の哲学における意味になります。

 これは大変価値のある考え方です。

 ですからその後の哲学の研究方向に影響を与えました。
 
 科学とは方法の精神ですが、物理学と数学はその典型になります。

 フッサールは哲学に明確な方法論を導入して科学にしようとしたわけです。

 哲学は雑多な言葉が使われますが、時に先人の深い思索が織り込まれていることがありますので時に言葉をまとめることで見えてくるものがあることを「象」や「念」を使って説明しました。(字数:3,280字)

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