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未来の自分へ、過去の君より

学ぶということや、環境の変化は、
良い意味でも、稀にそうでない意味でも、
人の価値観に影響を与えるきっかけになると思います。

もうすぐ、私はその双方に直面することになると感じます。だからか、ここにいる今までの自分を、自分が変わってしまうまでの間に、どこかに記録しておこうかなと思います。

プロフィールにもございますように、
私の人生の目標は、「幸福度高い社会の実現」
と「教育機関の設立」にあります。

理由は私のこれまでの人生で、自分が苦悩を強いられたことであり、またその時々の瞬間に、誰かに助けられたことでもあるからです。
(詳細は過去の記事でもいくつかご紹介させて頂いております。)

同じように困っている人に、今度は自分が貢献したい。そう、強く思っています。

学生時代は苦労が多く、悩みの多い時期でもありました。遊びにラグビーと騒がしい毎日で、充実したことに間違いはないですが、楽しさと辛さを比率で表すと、2:8ほどの割合でした。
しかし、何よりも多くの人から、沢山のサポートを頂けたことが、私の人生に非常に大きな影響を与えてくれました。その中では数々の学びや、挫折や達成の経験が得られ、その頃から「教育」という分野に興味を持つようになりました。

しかし大人になった後にも、人生に苦難はつきものでした。教員を辞めてしまった頃は、本当に悩ましい日々を過ごします。悩みがプライベートまで波及して、何もかもうまくいかなくなってしまい、寝れず、外へも出られませんでした。一時は生きるのを辞めてしまおうかとも、考えたことがありました。

なぜ仕事を辞めてしまったのか。
病気になったと公表していますが、そうなる経緯には理由があります。
証拠に、教員時代のほとんどは、充実感に溢れた日々でした。生徒・保護者への対応、部活動、地域、学校業務など・・・
よく、教員には仕事が多く、巷ではきつい職業だと言われています。しかし当時の私はやりがいを感じ、(成果が出たかは分かりませんが)、全てに情熱を持って取り組めておりました。
あまり「労働しなければならない」という、ネガティブな感覚を持つこともありませんでした。生活の中で何よりも、仕事が好きだったのかもしれません。

ただし、同じような業務でも、職場(学校)が変わると全てが変わります。
大阪から滋賀の学校に呼ばれ、ヘッドハンティング的に採用されました。
はじめは張り切っていましたが、そこで痛い体験をしました。原因は組織の考え方と、職場の人間関係にあります。

情熱でどうにでもなると思った、
そんな自分が未熟者でした。
正直、自分はもう少し、強い人間だと思っていました。情熱が徐々に衰退し、体が動かなくなっていきました。ついに退職した後も、立ち直ることは出来ませんでした。

しかし、そんな日々の中でも、
手を差し伸ばして下さる方々がいました。

とにかくきちんと生き延びて、
もう一度モチベーションが上がるその日まで、
何も考えず、ただ生きていよう。

そうやってこれまで生きてきました。

「ずっとこのまま、0の自分でいい。」
「1を足すことしか自分にはできない。」
「いやもう1度、1を足そうか。」
「また1を足すことができそうな気がする。」

何も考えず会社に入って、
何もしないまま終わっていく日々。
悩んでいてもラチが明かないと、
意味もわからず本を読んだ日々。
給料泥棒にはなりたくないからと、
やれる業務をやり始めた日々。
教育のことしか知らなかったので、
ビジネスセミナーや塾に行った日々。
勇気を出して人に会い、
人生のあれこれの教えを請うた日々。
似合わない飲食店をやり出したあの日。
気のままに独立し、歩き出したあの日。

私は、そんな1を足す日の中で
実は私が昔から癖だった、人間観察や社会観察をするにあたって、その対象をより主体的に考えるようになりました。
「どうして苦しむ人がいるのだろう」
「どうしたら皆がイキイキできるだろう」
「どうすれば温かい社会になるのだろう」

そんなことを思うようになり、
気づいた頃には、
冒頭の夢が、心に大きく膨らんでいました。

正直、まだまだ届かない夢です。

ただし、30を迎えつつある今、
ようやく人生のモチベーションが、
少しは高まってきたかな、と思います。
いや、もっと高めなければなりません。
2020年結婚し、
妻と犬との3人暮らしです。
もうすぐ新しい命を授かり、
4人暮らしになる予定です。

自分の家庭と周囲の幸福は、
私の人生の夢ではありません。
人生の夢は社会の幸福で、
家庭の幸福は絶対条件。
まずそれに全力を注ぎたい。

これから自分が、おそらく変わる。
全てをかけて臨もうと思う。
素晴らしかった20代の自分と、
支えてくれた人達への感謝、
今ここにある感情を忘れず、
これから放熱の人生を送りたい。