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あの日みた報道写真


小学校の行事でいった原爆記念館でみた一枚の写真。
焼けただれた肌、焦げた衣服は皮膚に張り付き、絞り出す僅かな生命力で眼差しに絶望を湛えながら瓦礫のなかでこちらをみつめている。
その少女はわたしと同じくらいの年頃だった。

原爆が投下された74年前、生活のすべてを変貌させた戦争。

その悲惨な光景を目前にしながら、なぜこのカメラマンは少女に手を差し伸べることをせずに写真なんか撮っていられるのか?と、カメラマンへの怒りが込み上げた。

それは少女だったわたしの純粋な正義感だった。

自由への国境

アメリカから国境を超えてメキシコに差しかかると景色は色を変え、空気は匂いを変えた。

さっきまで白い馬車が走っていた道の延長は痩せて乾いた荒野にかわった。甘ったるい果実の腐敗臭、トタンや木材でつくられたバラック小屋。どこからともなく現れる物乞いの子供。

きがつけば、大勢の子供たちに囲まれていた。
屈託のない笑顔でガムを差し出してくる子もいれば、困窮と暑さに疲弊して力なくペンキ石を差し出す子もいた。予想だにしていなかった光景に胸が張り裂けそうになり、立っているのがやっとだった。

可哀想という気持ちを向けるのはどこか傲慢のようにも思えた。ここで涙ぐめるわたしは幸せだ。込み上げてくる涙を拒みながら冷静さを立て直す。
この状況の捉え方がわからない。21年間のわたしの"当たり前"への無知を恥じた。


「この状況を変える術を持たない今の僕らには、出された食べ物を残さずに食べることくらいしかできない」連れが言った。
振り返れば自由の国アメリカ、そこは肥満大国とも呼ばれている。

もし中国全土の人々が満腹になれば、その偏りで空腹にあえぐ国々がでるという話がよぎった。この世にあるものには限りがあり、大きなバランスで保たれているという話だ。

政治、国力、平和、人権、平等、境界、移民、、、 そんな言葉がぐるぐると頭のなかをかけ巡り、悶々としながらお気に入りの耳飾りを手に入れるべく事前に調べていたオパール街を目指して歩を進めていく。



どこからか、楽器の音が聴こえてくる。
音階を無視したでたらめなアコーディオンの音、重なる少女のわめき声。

その音の出所に辿り着いた瞬間、あれほど疑念と怒りに駆り立てられていたはずの、爆心地のカメラマンと同じ行動をとっていた。


(誰かに伝えなくては )


過去は遠い記憶の縁から跳ねかえり、一心の想いがふたりを貫いた。一心の使命感だった。

(蝿がたかる泥だらけの身体、絡まりきった長い髪の毛、自分の身体と同じくらいの大きな壊れたアコーディオンを膝に抱え弾き叫び続けている少女の皮膚は栄養失調なのか斑点だらけだった。連れに止められ結局はシャッターを切る勇気に及ばなかった。
後に、この地域はアメリカから脱獄して逃げた人や、紛争の絶えない他国からの亡命者が自由を求めて国境辺りに潜伏していること、無法地帯でとても危険な場所だったと知る。いまは壁が立っている)

みんな地平線のうえ

国を隔てる境界が、生活にも大きな隔たりをつくっているという事実は、ある視点では当たり前のことかも知れず、それを当たり前のままにする社会に生きている。

おおきな矛盾、おおきな差。
なにが欲しくて破壊を繰り返すのか、極端なバランス体型はこの時代にあるべき姿なのか。 

性別、ジャンル、派閥、領土、宗派、政治、
足元に引いた線をまたいでは搔き消した。
わたしはどこに立っているのだろう?

モノクロが物語る真実

報道写真とは、真実を伝えるもの。

世界的報道写真家、セバスチャン・サルガド。
「神の目」を持つ男として世界で最も有名な報道写真家だ。

わたしがこの偉大な写真家を知ったのは、ヴィム ヴェンダース監督のもと映画化が決定したのち、恩師がサルガド氏に密着し 地球へのラブレターの日本公開のプロジェクトに関わっているときだった。

初めて写真を見たとき、なぜ「神の目」と呼ばれるのかは疑問だった。
壮大で壮絶。隅々までピントが合い、鋭く迫り来るリアリティは絵画のように美しく圧倒的。総じて、生命の尊厳が強く映し出されている。

最近、その「神の目」がようやく腑に落ちた。
死・破壊・腐敗に無の境地になれるその強靭な精神こそ、その所以なのだと。あらゆる脅威を前にして、彼の写真にはカメラマンという"第三者"の存在を感じさせない。


いま振り返れば、被災した少女を撮ったカメラマンの心情は無の境地からかけ離れたものであったであろうこと、それが写真に反映されていたのだろうと思う。

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この偉大な報道写真家との出会いは、わたしの過去の疑問符を線で結び、継承されゆく真実が一貫して訴えているものは何なのかを教えてくれた。


破壊は死しか生まず、美しいものは尊く脆いということを。

わたしたちはいま、大きな選択の淵に立たされている。歴史の継承がなにを物語っているのか、本当に守るべきものを守る方法を考え、真実をもとに可能性と希望を見据えた選択をとっていかなければ、わたしたちの当たり前のまえに大きな壁が立ちはだかってしまうことになりかねないのだ。

レンズをつらぬく鋭い眼光、
四季に恵まれた美しい日本を生きた先人の祈り、
破壊によって失われた沢山の命、
この地球上の崇高な真実、
すべての願いはこの先の希望へと向けられている。


Genesis 

大きな問題は、激しい嵐とともに暮らし、破壊がもたらされる事なのです

森での暮らしに戻るわけではありません
しかし、私たちはその精神に立戻らなければいけません
地球に敬意を払わなければなりません

すべての人々、国際的な組織、政府、企業、個人がともに 同じ方向で取り組まなければなりません

まず学校で小さな子供たちから始めなければなりません
小さなことから始めるのです

私たちが今持つものを守るのです 

破壊する権利などもうありません

私たちは地球から受ける恩恵を大量に消費しています
でも もうそれは無理なのです

私たちは生き方を変えなければなりません
もし私たちがそうすることができれば 企業のあり方 政府のあり方を変えられるのです 

人類はひとつであり、この地球で生きるよりありません

私は大きな希望があると思います
力をあわせれば出来るのです

そうすれば この地球で平和に暮らしていけるのではないでしょうか







サルガド氏とレリア氏にサインをいただいたこの1冊の写真集はわたしにとって、それ以上の意味を持つものになりました。真実に向きあう機会をくれた友、恩師、出来事、出会いの全てに感謝を込めて。

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