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努力は必ず報われない

大学3年目の後期にもなると

9割9分の大学生は入学前後に抱いていた希望は現実によって打ち砕かれてると思う。

留学や資格。就活。部活。

やりたいことを追及して、夢を叶えられる人なんてほんの一握り。

僕自身、

努力は必ず報われる(夢は必ず叶う)っていうフレーズは絶対に嘘だと思っている。

だって、「努力してる」っていう状態は主観的に評価することだし、「報われる」か否かは他者よってに左右されるから。

自分では死ぬほど努力してるつもりでも、周囲がそれを努力だと認めなければ努力してることにはならないし、どんなに努力していても、結果が悪ければ他人はプロセスに問題があったと考えて、それまでの過程を全力で否定してくる。例えキャパ一杯まで努力していたとしても。

報われるかどうかについては、同じ目標を達成したいと思っている周囲の人々(ライバル)が必ず存在する。その物事に取り組んでる人が自分しかいない場合を除いて。ライバルが多ければ努力が報われない可能性は高まるし、量・質ともに正しい努力をしていても自分よりキャパが大きい奴が更に努力してそいつが高い能力を手に入れていたらおそらく努力は報われない。

だから、何をもって努力とするのかは非常に定義しがたい。人は他人の痛みや苦しみなんてわからないから。しかもどんなに努力していてもそれを周囲の努力が上回ってこれば結果を出せないから報われない。

このことから、

努力してないから結果が出ないんだ!

結果が出ていない努力は努力とは言わない!

という、結果と過程の関係についての自己責任論的な主張がいかに暴力的であることがわかって頂ければと思う。

プロセスは外部からは見えにくいから、つい見える結果だけで人は評価を下してしまう。

結果を出すためには努力が必要なわけだから、結果を評価すること自体は間違っていない。結果を出すためにしてきた努力はリスペクトされるべきだと思う。

でも、それと結果が出ていない人は努力をしていないということはイコールではない。

世の中には、報われない努力も必ず存在する。

例えば、マラソンで世界記録を出した(最も優れた結果を出した)選手だけが努力をしているわけではない。もし世界記録を出した選手のみが「努力をしているから結果を出すことができている」とするのであれば、世界記録保持者以外のマラソン選手の存在意義はなくなる。他のスポーツも同様で競技スポーツはヒエラルキーの頂点付近にいる数人の選手やチームだけで行えばいい。結果を出す(いかに速く走る≒世界記録を出す)ことが「正義」とされる世界において、結果の伴わない努力をしてるその他大勢の選手(世界記録を出す努力ができない選手)は「悪」でしかなくなるから。

でも。実際は多くのマラソン選手が感動を与えているし、結果が出ていなくても懸命に努力している選手はたくさんいる。彼らの努力を結果に結び付いていない(世界記録を出すことのできない)からといってそれは努力ではないというのはあまりに暴力的であると思う。ファンは結果だけに感動しているわけではない。くどいようだけどそうであるなら、トップ選手以外のファンは存在しなくなる。

マラソン選手なんて大それた言い方ではなくても、小学生が運動会で走る姿にも私たちは感動するし、他のスポーツも同様。社会に与えているものが結果による感動だけではないわけだから、アスリートは存在を許されるし、社会もそれを応援する。

でも、

努力している姿(目標を達成しようとする過程)に私たちは感動するのに、何かを評価するときの物差しは結果となる。

そんな矛盾が努力していても結果を出せない人々をどれだけ苦しめているかも知らずに。

表面的に見えて、かつ分かりやすい結果というものに依存して誰かについての評価をしてしまいがちだけど、結果の背後にある見えないプロセスやストーリー、そんなものを含めて、複眼的に評価をできるような社会になるといいな。

「3月のライオン」より。

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