許可を求める真意

ねぇ、〇〇してもいい? とか、〇〇食べてもいい? とか、誰でも一度は聞いたことがあるのではないだろうか?

そして、誰でも一度は聞かれたことがあるのではないだろうか?

それは確かに、相手の意見を聞きたい時も含まれる。

純粋にAの選択肢とBの選択肢で迷ったから、相手の意見を聞きたい時。

しかし、こういう、何かの許可を求める質問というのは、おそらくもう本人の中である程度の結論は出ているのだろう。

自分がどうすべきだと思うのかも、どうしたいと思っているのかも。

しかし、自分が正しいと思うことと、やりたいと思う行動が矛盾しているため、その実は最善ではない行動を正当化するために、誰か別の人の許可を得て安心している場合もあるかもしれない。

例えば、夜中にアイスパフェ食べてもいいと思う?

という質問だとしよう。

聞いている本人は、おそらく、夜中に超糖質の物を摂取するのはあんまり良くないと知っている。血糖値もドカンと上がるが、夜中は眠っているだけで、運動で下げることは難しい。加えて、お風呂から出てしばらく経って、あんまり冷たい物を食べると体が冷えるとか、眠前の食事、それも量が多い摂食は逆流性食道炎のリスクだとか。同じ食べるならば、朝や昼の方が好ましいタイミングだろう。

でも、本人はそれを知っている。

それでも、食べたいと思うから、食べる方向に傾いているのだろう。

加えて、何を食べようが、最終的には本人の勝手だ。どうしてもアイスパフェが今食べたいと説得したとして、それに強く反発するだろうか?

じゃぁ、何故、他者に許可を求めるのだろう?

おそらくは、本人の中で、既に最善の行動と、自分が望む行動の結論は出ている。

しかし、そのギャップに罪悪感を感じるのだろう。

そして、集団心理の「赤信号、皆んなで渡れば怖くない」を求めるのではないだろうか?

だから、友人や家族に「〇〇してもいいと思う?」と問うのではないだろうか?

同時に、最善の行動と、自身が望む行動は頭では分かっているとしよう。

しかしそれでも、実際に今「取る行動」という結論が出ていないのではないか。

だから、多数決で自分が迷って決められないことを他者の票で決めようと、どこかで思っているのかもしれない。

すると、許可を求める時点で、もう自分の考えは整理されており、結論も出ているのかもしれない。

ただ、やりたいことに反して、正論を通すべきだと思いつつも、やはり欲が勝るのではないだろうか?

その時、聞いた相手がYESと言おうが、NOと言おうが、最終的な行動は変わるのだろうか?

一度観察してみると興味深いことが見えてくるかもしれない、自分が誰かに質問する際や、他者が自分に質問した際に状況とその後の行動、Yesと言った時とNoと言った時の相手の言動。

Noと言っても、別のYesを正当化する理由を出すことが多いか?

それとも、Noならば純粋に助言として受け取り、行動を決める一助にするのか。

朝から、何を考えているのだろう?

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