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【天才】映画『笑いのカイブツ』のモデル「伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ」の狂気に共感させられた

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伝説のハガキ職人・ツチヤタカユキの自伝を映画化!『笑いのカイブツ』は、狂気的才能をとことんまで濃密に描き出す衝撃作だ

私たちは「たまたま名前が残った天才」のことしか知らない

映画『笑いのカイブツ』は、「伝説のハガキ職人」として知られ、大喜利番組への投稿などを経て放送作家となるも、「才能」ではなく「社会」に屈する形で盛大に挫折していくツチヤタカユキという1人の男を描き出す物語だ。同名の自伝的小説が原作になっている。

そんなツチヤタカユキを観ていて感じたのは、「レオナルド・ダ・ヴィンチやソクラテス、バッハ、ミケランジェロなども皆、ツチヤタカユキみたいな奴だったんじゃないか」ということだ。つまり、「狂気的に創作と向き合っていた社会不適合者だったのではないか」みたいなことである。
 
ツチヤタカユキの名前が100年後、200年後も残っているのかは誰にも分からないだろう。ただ本作を観て、「いつの時代もツチヤタカユキのような人間はいて、その中で、レオナルド・ダ・ヴィンチのように名前が残るのはごく一部なのだろう」と感じたのである。名前が残った人物はもちろん凄いのだろうが、名前が残らなかったからと言って才能がなかったことにはならないだろう。何かちょっとした差、例えば「実家が裕福だった」「運良く理解者が近くにいた」みたいな要因に左右されるだけであって、「たまたま名前が残らなかった天才」もたくさんいるはずだ。
 
そしてそうだとすれば、本作『笑いのカイブツ』で描かれるツチヤタカユキの物語は、「たまたま名前が残らなかった天才」の人生を想起させるとも言えるように思う。
 
以前、『犬王』というアニメ映画を観た。「犬王」とは室町時代の能楽師であり、後に観阿弥・世阿弥として知られるようになる能楽師と同時代を生きた人物でもある。恐らく多くの人は、観阿弥・世阿弥の名前は聞いたことがあるが、犬王のことは知らないはずだ。しかし僅かに残されている史料によれば、室町時代にはむしろ、犬王の方が圧倒的な人気を誇っていたのだという。ただ現在は、犬王が披露していた能楽は一切残っておらず、かろうじて名前が記録されているだけなのだそうだ。

また、以前読んだ『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・ カリエール/CCCメディアハウス)のことも思い出した。本作は、「紙の本」を主題にして縦横無尽に様々な話題が展開される作品なのだが、その中に次のような文章がある。

我々は今日なお、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスを読みますし、彼らをギリシャ三大悲劇詩人と見なしています。しかしアリストテレスは、悲劇について論じた「詩学」のなかで、当時の代表的な悲劇詩人たちの名前を列挙しながら、我らが三大悲劇詩人の誰についてもまったく触れていません。我々がうしなったものは、今日まで残ったものに比べて、より優れた、ギリシャ演劇を代表するものとしてよりふさわしいものだったのでしょうか。この先誰がこの疑念を晴らしてくれるのでしょう。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・ カリエール/CCCメディアハウス)

現代を生きる我々にとって、「ギリシャ三大悲劇詩人」と言えばエウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスである(らしい。私自身は詳しくない)。しかし、同時代を生きたであろうアリストテレスは自身の著作の中で、「悲劇詩人」の代表格として先の3人の名前を挙げていないというのだ。ここから次のような推定が可能になる。現代には名前が残っていないものの、我々が知っている「悲劇詩人」以上に優れた悲劇を描く詩人が存在していたのではないか、と。まさに「たまたま名前が残らなかった天才」の話と言えるだろう。

また、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』においてはネット社会についても論じられており、非常に興味深かった。詳しくは本作を読んでいただきたいが、大枠の主張としては「『紙の本』には『忘却』という機能があるからこそ価値がある」という話になる。ちょっと何を言っているのか分からないだろうが、短く説明するのは難しいので、ざっくりとでも知りたい方は、私が書いた紹介記事を読んでいただければと思う。

繰り返しになるが、ツチヤタカユキが後世まで知られる存在になるかどうかはまだ誰にも分からない。というか、同時代を生きる人間にそれを判断する術などないだろう。しかし本作『笑いのカイブツ』を観ると、「ツチヤタカユキぐらい圧倒的な才能を持つ人物でさえ、そもそも『評価される』という段階までたどり着けないことがある」のだと理解できるはずだし、また、「『社会性の無さ』が『圧倒的な才能』さえ上回ってマイナスをもたらすことがある」という現代的な問題としても受け取れるだろう。そしてそんなツチヤタカユキの人生を追うことで、「我々が知らないだけで、これまでにも『圧倒的な才能を持ちながら忘れ去られた者たち』が山ほどいたのではないか」という思考が誘発されるようにも思えるのだう。

するのもされるのも同様だが、「評価」の難しさを改めて感じさせられた作品である。

「正しい世界で生きたい」というツチヤタカユキの感覚に共感させられた

ツチヤタカユキがある場面で、魂を振り絞るようにして出した声で、次のようなことを言う場面がある。

やるだけやって燃え尽きたら、それまでじゃ。その先に何があんねん。
誰かが作った常識に、何で潰されなあかんねん。

この言葉もかなり私の心を撃ち抜いた。メチャクチャ分かるなと思う。特に、「誰かが作った常識に、何で潰されなあかんねん」という言葉にはグッときた。私もよく同じように感じるからだ。世の中のあらゆる場面で、「誰かが勝手に設定した『ストライクゾーン』から『外れている』というだけの理由で否定される」みたいな状況が繰り広げられているように思えてならないのである。

野球の「ストライクゾーン」の場合は、「その設定を許容する」という共通理解の元に成り立っているのだから問題はない。しかし、議論などの場面で意識させられる「ストライクゾーン」に対しては、「それって、お前が勝手にそう思ってるだけだよな」としか感じられない。だから、そんな「ストライクゾーン」から外れていると指摘されたところで、「だから何?」としか思えないのである。

さて、しかし先のセリフ以上にグッときたのが、次の言葉だ。

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