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父親の思い出 その3 流行り言葉~当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 父か他界して約30年、と言っても父の遺伝子は私の身体の中で生きているので、理系頭の私としては全く悲しく無いのですが。

 以下もご参考までに。

 父は怒るということが無く、何時も教育的指導の域を踏み出すことは有りませんでした。その教育的指導も皆無(私が正しい行動を何時もしていたから?)でした。

 人生に一度だけ少し感情的になって怒られたと感じたことがありましたが。

  今回は言葉遣いに関する教育的指導の話しです。

 忘れもしない小学校2年生の時、近所の同級生の友達と一緒に通学していました。友達のお父さんは同区内にある高校の教諭をされていて、知的な振る舞いをされるご家庭でした。その友達はクラスは違いました。その友達のクラスで
「いけない」
という言葉が俗語化した言葉遣いになっていきました。
先ずは、
「いけね~」
と順当な崩し方です。小学校2年生なので悪気はなく、子供なりに単純に言葉を崩すことを知的な(俗語もある意味一つの文化だと思っています。)遊びとして楽しんでいたのだと思っています。

 この「いけね~」がより進化します。

「しけね〜」

これは、なかなかの名作だと思います。人生でこの俗語を聞いたのは、小学校2年生の時だけです。試しにネットで調べてみましたがヒットしませんので、小学生の天才的(笑)造語だと思います。 
 そのうち、「しけね〜」と言いながら頭を掻く所作まで付加され、大進化(笑)したのでした。
 毎朝一緒に登校する子が使うので、この言葉か私に感染しました。私自身余りお行儀の良い響きではなかったので、感染していても口から発することは有りませんでした。むしろ流行りに乗らない姿勢がカッコいいとすら思っていました。変にませていたのだと思います。

 ところが、何かの拍子で自宅でしかも父親の前で

「しけね〜」

と、しかも大進化した頭を掻く動作付きでふざけてみたのでした。

 しかしまさかの···

見事に強い教育的指導が入りました。指導を受けながらも

「いやいやお父さん。ここは面白いね、と笑うところでしょ。」

と心で思っていました。

 それ以来流行り言葉が耳に付くようになりました。最近では、

「言うても」

という流行り言葉がとても耳障りに感じられます。

ハイ。そうです。こんなことが有ってか、面倒くさいおじさんに進化したのでした。

(笑)

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