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雑感記録(311)

【「あそび」としての拘り】


この記録は前回の記録の続きである。

サンリオピューロランドを後にした僕は朝ごはんを食べていなかったので、すぐ側にあるイトーヨーカドーの中にあるロイヤルホストで昼ごはんも兼ねて食事をすることにした。そしてお酒を入れた。何だか僕は少し心が荒んでしまったみたいである。そこでお酒とご飯を愉しみながら読書をして過ごした。この時間が至福であった。

(言葉にならないそれ)

 言葉にならないそれ
 それと名指せない
 それ
 それがある

 いつでもどこにでも
 なんにでも
 誰にでも

 癒しながら
 傷つけるそれ
 決して失くならないそれ

 名づけてはいけない
 それを
 惑わしてはいけない
 言葉で

谷川俊太郎「言葉にならないそれ」『虚空へ』
(新潮社 2021年)P.46,47

やはり谷川俊太郎の詩はいつ読んでも良いなあと思いながらご飯が来るのを待つ。この詩集は出来得る限り短い言葉で詩を書くというコンセプトの元で書かれた詩集である。実際この詩集の殆どは非常に短い言葉で書かれており、文字記号として読む分には難しくないが、所謂「行間」というものを考えた時に世界が開かれる感じがするのである。この短さこそ世界の可能性を広げてくれる。

僕は以前に武田砂鉄の話を引き合いに出して、「自分の書きたいことや伝えたいこと、考えていることを要約させないように、長く文章を書いている」みたいなことを書いた。確かにそれも今のご時世的に重要な事である。しかし、その逆を取って短い言葉で表現をすることで要約させないようにする。これは言ってしまえば東浩紀が『存在論的、郵便的』で表現していた「否定神学的」なものであると僕には思うのである。まあ、そんな話は置いておくとして…。

ご飯と1杯のビールが届き、僕はそれにがっつく。

モグモグとしながら先程の嫌な気持ちを全て噛み砕き、ビールでそれを流し込む。黙々とただ食べて飲んでを繰り返す。食べ終わってスマホを見る。すると大学時代の友人から連絡がある。僕がサンリオピューロランドのことをInstagramのストーリーに連投していたので、それを見た友人から連絡が来たのである。「何してんだよ」の一言の後、「今日、多摩市立中央図書館行こうと思ってた」とのメッセージ。

そう、サンリオピューロランドすぐ近くには、多摩市立中央図書館がある。ここ最近新設されたばかりで施設が非常に綺麗である。しかも、僕は偶然にも仕事の関係でここ最近訪れたばかりであり、少し驚いてしまった。実際ロイヤルホストでご飯を食べながらお酒を飲み、本しか読んでいないということ、そして近くに図書館があるならばそちらで読むべきである。その後やり取りをして14:00に待ち合わせすることとなった。

その待ち合わせ時間が決まった時刻は11:50ぐらいだ。

つまり、僕はここから2時間を潰さねばならない。だが、それは全く以て問題が無い。それは近くにMARUZENがあったからである。僕はMARUZENに直行し、広いフロアを縦横無尽に歩き回る。久々にワンフロアに沢山の本がある書店に来た気がする。いつも行く新刊書店は大体ジュンク堂か紀伊国屋書店である。あれはワンフロアではなく、階数によるフロアの区別である。僕の好きな用語で表現するならば、それら新刊書店は建物全体で「渾然として一」であり、今回のMARUZENはワンフロアで「渾然として一」であった。


書店で2時間の時間を潰すことなど余裕である。

これが例えば物凄く狭い書店であれば話は別である。限界がある。ただ今回はだだっ広いワンフロアである。僕は端から端まで舐めまわすように見て回った。こういう時間は至福である。以前の古本祭りの記録でも書いたが、友人が言っていた言葉が思い浮かぶ。「目の前にこれだけ本が並んでいて、本のことしか考えなくていい時間って幸せだな」という言葉だ。

本当に幸せな時間である。様々なジャンルの本が横断的に並ぶ。こういう場というのは面白い。というよりも中々存在しない場所だなと思う。例えて言うなら、1つの会議室に様々な知識を持った人が一同に会している状況である。自分が気になっている分野、そして全く興味関心が無い分野の情報も手にすることが出来る。こういう場所は今の時代には必要不可欠なような気がしてならない。

昨今ではインターネットで調べればすぐに調べることが出来るが、それは自身の調べたい検索語を入れて調べる。要するに、自分が必要な情報しか得ることが出来ない。自分が好ましくない情報は手放すことが出来る。しかし、こういう書店や図書館というのは不可避的に様々な情報が一同に会している。避けたくても避けれれない。勿論そういう場に於いても自分が求める情報だけ得ることが出来る訳だが、それを得るまでの道中が面白いのである。つまり、書店や図書館というのは現在では忌むべきとされている「遠回り」が出来る格好の場所でもある。

僕は2時間のんびりゆっくり見て回った。ただ僕が哀しいなと思ったのは自己啓発本ばかりが全面に出されている。そしてキャピキャピした表紙の本が所狭しと並んでいる。僕はいつもこの光景に辟易してしまう訳だが、これも遠回りの醍醐味と言えば醍醐味である訳だ。そして自分が全く以て触れたことのない科学分野の雑誌をパラパラ見てみたり、プログラミングの本を見てみたり、様々にして2時間を過ごした。

文章術のコーナーを立ち読みした時には驚いたものだ。

こういう本が今は売れるんだなと思いながら見ていた訳だが、文章術を簡単に得ようとするというのは何だか変な感じがするなあと思った。それにタイトルの殆どが「売れるための文章術」などというように売れるが前提の書き方指南みたいなものが横行している。面白いなと思う。文章の書き方を学ぶというのは僕からすると不思議な感じである。僕は言ってしまえば、真面な文章術など学んだことは無い。お恥ずかしながら。

自分自身の過去を振返ってみた時、文章術など学んでこなかった気がする。ただ教科書を読んだり、大学生になってからは本をひたすら読んだ訳で。書き方に関しての本は読んだ試しがない。だが、それでも現にここまで書ける(と書いたが実際に書けているかは読まれる側の方々に委ねられる訳だが)ということを考えてみると、純粋に読むことから遠ざかっているだけなんじゃないのだろうか。

読むことと書くことはやはり両輪である。僕はそう考えている。読むことなしに書くことはあり得ないし、それはまた逆も然りで書くことなしには読むことはあり得ない。僕が文章を書きたくなったのは純粋に文芸批評の文章や哲学の文章に格好良さを覚えたからであり、「こういう文章が書けたらいいな」というのを念頭に入れて読んでいたからである。まず以てそういう一種の憧れみたいな所から始まるのではないかと思ってみたりする。

まあ、これはあくまで僕の話である。


2時間MARUZENで時間を潰し友人と合流する。

とりあえずフードコートで腹を満たす。ウェンディーズのハンバーガーを食べる。僕はこれが人生初のウェンディーズで、ちょっぴり愉しみであった。そこではガヤガヤしていたのであまり話せず。最近、友人がイギリスに旅行へ行って来たとのことでその話を聞いた。写真なども見せてもらい、純粋に良いなと思った。

僕は元々が出不精な人間である。極力遠出はしたくない質である。なるべく手近な所で済ませたい人間である。加えて単純に面倒くさいということもある。遠出するまでの準備が面倒である。興味関心がある分野でも実は遠いと考えてしまう。いや、厳密に言えば、1人で行くことはしないだろう。自発的に遠出はしない。誰かに誘って貰えれば全然行くというスタンスである。ある意味で僕にはそこまでの拘りが無いのだ。

だからその友人がイギリスの様々な場所に行って来たという話を聞いて、まず以て感じたことは「凄いな…」ということである。それは僕には出来ないからである。いや、「出来ない」というより「やらない」ことだからである。

その後、ハンバーガーを喰らい、多摩市立中央図書館へ向かう。

多摩市立中央図書館に着き、まずは若干のツアーをする。どこにどの書籍があるかをぐるぐる見ながら、読む場所を探す。中々読む場所が見つからない。図書館には小さい子からお年寄りまで老若男女がひしめき合っていた。人が沢山居ると集中出来ないよなと思いつつ、先程のMARUZENで見付けた内田樹の本のタイトルだけが脳裏を過る。

友人はここ最近、良い図書館をディグっているらしい。

その中で今回の多摩市立中央図書館を見付けたらしいのだが、彼には彼自身にとっての良い図書館の基準があるらしい。それは『古井由吉自選集』が置いてある図書館は大抵本のラインアップが良いらしいということだ。なるほど、僕はあまり図書館には行かない質なのでそれは非常に面白いなと思った。行くとしても大学図書館になるので公共図書館にはあまり赴かないので発見であった。

それで友人は本を手に取り、僕は電車で読むように持って来ていた本を読むことにした。座って読める場所を探したのだが…中々見つからず。館内を歩き、階段のスペースに座れる場所があったのでそこに座り30分程度読書をした。僕は東浩紀の『観光客の哲学』と谷川俊太郎の『虚空へ』を交互に読み始める。友人は『古井由吉自選集』と『大江健三郎全集』を読み始める。

お互いに隣り合って座っているけれども、無言で読書をするのは面白い。というよりも、大学時代もカフェで向かい合って話をしたりしたけれども、こうして黙ってお互いに読書することもあったなと懐かしくなった。言葉のないコミュニケーションというか、同じ行為で繋がっている感じが堪らなく居心地が良い。いつも読書は1人で行うし、読書というのはある意味で自己と向き合う時間でもある訳だが、こうして同じ場を共有して別々の本を読むことも大切なのかなと感じたりもする。


30分後、友人の車で近くの南大沢のアウトレットに行くことになった。

実はウェンディーズを食べ終え、タバコ休憩をしていた際にどうやら友人は服を買いたいとのことでアウトレットに行こうと提案されていた。僕はここ最近殆ど服を購入していない。偶然にも着ている服は丁度1週間前に購入したばかりである。値段はそこまで高くはない。上下合わせて5,000円ぐらいである。いつも僕は安い服で済ませがちである。というよりも、それ程服に対して拘りが無いのかもしれない。こういうタイミングでもないと高級な服を買わないので、連れて行って貰うことにした。

友人と車の中で色々と話をした。

毎回毎回思うのだが、車の中で話すことが結構記憶に残る。閉じられた空間で、2人しか居ない訳だからそれは深い話も出来るというものである。アウトレットに向う道中、様々に話をした訳だが、その中の一種のテーマが「拘り」であったように思う。少し詳細に話を辿ってみよう。

友人から「服とかお店で見ないの?それこそ大学の時とかよく一緒に古着屋行ってたじゃん?」と言われたので、最近はめっきり見に行かなくなったことを話した。すると「そう言えば、お前ってあんまり拘りないよな。本以外に。」と言われた。その時にはたと「確かにそうだな」と僕自身でも思った。その時に友人はいくつか例を出して話をしてくれた。

例えば使用しているシャンプー。僕には全く以てシャンプーに何ものの拘りもないので、市販薬局で目ぼしいものを見て購入し利用している。しかし、友人は拘りがあるらしく「そこのお店にあるそこのシャンプー」でないとダメという訳ではないと思うが、それが良いということであるらしい。そして他のことに関しても、例えば遠出先の食事。僕は別に腹を満たせれば良いので正直その土地のものを食べられなくても何とも思わない。旅先でサイゼでも全く気にならない。だが旅行する時、これは世間一般にだが旅行先のその土地のものを食べたいとなる。でも、僕はあまりそこまで拘りがない。「まあ、食べられれば良いかな」ぐらいの感覚である。

そしてそこから今度は時間の話になった。ここが僕には中々思いつかなかった視点だったので興味深かった。

僕は休日は暇を持て余している。別にどこかに行きたいとか全く以てない。旅行もそこまで興味ないし、どこか観光に行きたい訳でもない。だからこのnoteでも散々書きなぐっているように散歩ばかりしているのである。僕はそれで十分である。だが、拘りのある友人からすると休日はその拘りの為に時間を割き、中々過密なスケジュールになり、予定として組み込まないと本が読めないとのことらしい。だから「拘り」を出来得る限りどうにかしたいとのことであった。

なるほどな…と思いつつ、僕は逆に友人が羨ましかった。

拘りが無いということは言ってしまえば「興味がない」ということと同義であると断定してしまうのは危険だが、少なくともそういう態度があると僕は考えている。詰まるところ、僕は本以外に拘りがなく、興味関心が至って存在しない訳である。僕は以前の記録で「芸術的感性」として谷川俊太郎と同様に「生活や世界が好きだ」と標榜している訳だが、果たして僕は本当に生活や世界が好きなのかと疑わしくなってしまう。

ただ、ある意味で拘りが無い分、生活や世界をフラットに感じることは出来るなあとも思う。それは暇ということに象徴されるように、選択肢は自由である。そこら辺りに様々に転がっていて、何を選んでも選ばなくてもそれがどんな結果になっても「そりゃそうか」と成れる訳である。僕にとってはその道中が問題なのであって、それを選ぶまでの道のりを重視しているのかもしれない。そういう意味では愉しく過ごせている。

だが、拘りは持ちたいと僕は思う。

先の繰り返しになるが、それは純粋にあらゆるものに対しての興味関心があるからこそ拘れるのであり、パースペクティヴが広がるのは断然こちらの方があるような気がしてならない。というよりも、その淡いみたいな部分が肝要であると僕には思われて仕方がない。つまり、「興味関心/拘り」という二分化する以前の物。「渾然として一」の部分である。何回も書いて恐縮だが、浅田彰が『構造と力』で書いているように「シラケつつノリつつ」というような態度。「興味関心がありつつ拘りつつ」という曖昧な態度が必要なのではないだろうか。

僕流に書くとするならば、「拘り」の「あそび」に存在することを目指したいと友人の話を聞いていてヒシヒシと感じたのである。


そうしてアウトレットに着き服を見る。

友人は服にも拘りがあるとのことだった。僕にはない視点なので入るお店ごとに新鮮な感覚を抱く。こういう時間は面白いなと純粋に思う。先日のサンリオピューロランドの記録でも触れたが、やはり界隈に詳しい人と行くと発見があり面白いし、学ぶことが数多くあるなと感じた。これが1人で行ったのならばただ単調に見て終わってしまう。それこそ拘りが無いから「着て自分に似合って、価格がそこまでしなければOK」という感じで見て回っていたに違いない。

やはりアウトレットともなると値段が凄い。

勿論それは重々承知していた訳だが、実際それを目の前にしてしまうと考えてしまう。だが、これは友人にも言われたことだが、良いものを1つ持っておけば何年も着られる訳だ。毎回毎回買い換えている方がよっぽどお金が掛かる訳で、1着ドンと良いものを買って長い期間着る方が確かに良い。それに愛着も湧くというものである。

それで友人に案内されながら色々なお店を見て回る。

色々と知っているんだなと尊敬のまなざしで彼を見ながら歩く。そして恐れ多くも友人に服を選んでもらってそれを購入した。実際自分自身でも試着してみて凄く良かったので金額を気にせず購入した。これは過去の記録でも書いた訳だが、友人が選ぶものに関して僕は絶大なる信頼を置いている。それは大学時代から変わっていない、ある種の僕にとっての不変の真理である。

昨日の戦利品

僕は久々に人と一緒に服を見に行って思ったが、やはり誰かに服を選んでもらうのは嬉しい。それは少なくとも僕のことを考えてくれている訳で(と書くと些か烏滸がましい表現で友人に申し訳ないが…)有難いのである。誰かが誰かの為に何かを考えてやる行為そのものが、それが「良い/悪い」という如何に関わらず、その気持ちがあるだけで嬉しくなってしまう。

思いやりという言葉だけで済ませたくない。

だからこうして延々と書いてしまうのかもしれない。感謝の気持ちを伝える時にどう伝えるのかということを実は僕はここ最近考えている。「ありがとう」という短い言葉だけで伝えきれるものなのだろうか。そこに含まれる様々な過程があってこその感謝である訳で、それを一言「ありがとう」と伝えることに実は僕は抵抗がある。だからこういう場で長々と書けるnoteで書いてしまうのかもしれない。

直接言えば良いのだろうけれども、それだけでは伝えきれない何か。取りこぼしてしまっていることが必ずある。だから僕は言葉で伝える、それは本人に直接音声で「ありがとう」と感謝を伝えることと、このnoteで長々と書いて伝えることしか出来ないと、僕の場合はそうである。言葉に僕は絶大の信頼を置いていないからこそあらゆる言葉を以てして、僕に良くしてくれる人には感謝を伝えたいものである。僕の複雑な感情を出来得る限り言葉にしてみたいと思う。

勿論、僕は過去の記録で何度も書いているが、自分の複雑な感情を全て言葉にする必要は全く以てないと思っている。だが、伝えたい人には頑張ってでも伝える努力はすべきではあるとも考えている。

(書いた言葉を)

 書いた言葉を
 読む
 私から離れる
 意味

 私有できないのに
 負う
 私

 語が
 語に絡んで
 行

 行と行の
 間も
 私
 かな?

谷川俊太郎「書いた言葉を」『虚空へ』
(新潮社 2021年)P.60,61

よしなに。





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