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雑感記録(33)

【数字という悪魔】


昨日、ジュンク堂が近々無くなるということで本を購入してきました。

この百貨店の商品券が使えるとのことでおおよそ17,000円分を全部使い果たしてきた訳です。合計で9冊ですかね。これ全部文庫本にしたらもっと購入できたのかなと思いつつも、読みたい本が購入できたのは僕の中では非常に良かったのです。とりわけ、トマ・ピケティ『21世紀の資本』は兼ねてから読みたかった作品なので、非常に楽しみです。

帰ってきてそれとなく読み始めたのですが、吉増剛造『詩とは何か』が本当に最高でした。個人的に吉岡実あたりについて触れられている所は感動したものです。あとは円城塔の『文字禍』。これも非常に面白かった。最近あまり小説を読んでいなかったので、何というか新鮮な気分になりました。ちなみに『21世紀の資本』はまだ読んでいません。いや、1番最初に読まんのかい!なんて…。


「9冊の本がおおよそ17,000円」と僕は表記してしまった訳ですが、基本的に本に対して数字で語ることってある意味でナンセンスだと僕は常々感じています。例え金額的に高価なものであっても、その金額に見合う程の作品ではない場合もある訳ですし、逆に安価なものであってもその金額以上の価値を持った作品もある訳です。まあ、それは読む人によって変わってくるものではありますし、ハードカバーの作品が文庫化して安価になったということも考慮すれば一概にそうとは言えないのかもしれませんが、こういった現象はしばしばあるように思われます。

あとは、だいぶ前の雑感記録でも書きました。

所謂、「〇〇冊読破」「年間〇〇冊読んでいます」「月に〇〇冊読んでいます」等々の文言。やはり僕はこれに納得がいかない。投稿は人それぞれですから、一概に否定するつもりはありませんが、読書好きと公言している人が声を大にしてプロフィール欄に堂々と書いていることが許せない。

そこで、今回は雑感記録(3)を踏襲しまして、再度の警鐘を鳴らしたいと思います。大きなお世話ですが。


〈数字への信仰〉

まず以て考えたいのは、我々が数字をどう捉えているかということです。
これは具体例を挙げると分かりやすいかもしれませんね。

(ⅰ)偏差値教育

これは誰しもが通る道だと思います。高校受験や大学受験、まあこれはとりわけ大学受験によく見られる傾向ですが「偏差値」が重要視されますよね。自分が行きたい大学はどのぐらいの偏差値で、今の自分の偏差値はこのぐらいだからちょっと厳しいから志望校を変更した方がいいのかな…など偏差値を基準とした大学選びが励行されています。

自分の学力と大学の学力を相対的に捉えるという意味ではいいのかもしれませんね。客観的に自分の現状がどの位置にあって、どれ程の努力をして、いついつまでに偏差値を〇〇ぐらい上げれば志望校へ余裕を持って行けるななどと捉えて目標設定なども出来てしまう。

またこれは学友同士の間での学力の指標になる訳です。進学校だとよくあることなのかもしれませんが、「偏差値至上主義」とでも言いましょうか。偏差値が高い者が覇権を握るというと言いすぎですが、偏差値が高い奴は一目置かれます。

高校はどちらかというと学校の定期試験もありますが、模試が重要視されると思うんですね。これはあくまで僕の経験則でしかないですから、他の学校がどうであるとかということは知りえないので、恣意的になってしまうのが申し訳ないんですが…。外部の試験がより客観性を高めますし、全国の猛者たちと一緒に受ける訳ですから、自分の立ち位置を確認するには持って来いです。

しかし、ここでよく考えてみて欲しいのは僕らの学力が数字のみで表しきれるのか?ということです。これは高校時代から僕は感じていた違和感です。


(ⅱ)各調査によるグラフ等の表現

よく街頭アンケートとか世論調査とか、会社の関係でも何か調査したらそれを数字にして表現しますよね。あとはグラフを利用してその数字を一発で分かるようにします。

円グラフ(例)

適当に作りましたが大体こんな感じです。確かにこうすると一目で何に対してどれ程の興味があるとか、どれ程の人がどれぐらい関心を持っているとかそういったことが言葉で示されるよりハッキリと捉えることが出来ます。

さらにポイントとなるのはこの割合での表示です。母体が多い場合にはこれは非常に有用になってきます。例えば100人にアンケートを取ったとします。そのうち10人が何かに対して興味を持っているということを表現したい場合。「100人のうち10人が興味を持っている」と表現するのと、「10%の人が興味を持っている」と表現するのでは恐らく後者の方が断然分かりやすい。

またこの母体の数が中途半端な数だった場合、例えば「257人中32人が興味を持っています」という表現よりも「12.4%の人が興味を持っています」と表現する方が圧倒的にさっぱりしていて明解なのは言うまでもありません。

しかし、この「〇〇%」という表現の中に含みがあるように僕は思うのです。つまり、中間層を蔑ろにしているということです。これは数字では表現しうるのは難しいのかもしれない。

例えば「Yes」と「No」で答えるアンケートであっても「Yes寄りのNo」とか「No寄りのYes」も存在しますし、「この状況であればYesだけれども、別の状況であればNo」っていうこともありますよね。今回は選択肢が2つしかないからどちらかにするしかないといった、何でしょう、しぶしぶ感とでも言えばいいのでしょうか。仕方なくこっちを選んだということもあるように思います。

仮にそこに貴重な意見があったとしてもそこへ反映することは難しい。それは簡単な話です。数字で表現されてしまっているのですから、数字が大きい方に優位性が生まれてしまう。また、その次に大きい数字に着目され、所謂「その他」という項目には誰も目も触れない。


(ⅲ)絶対的差異を隠す相対的差異の創出

上記の例を見て頂ければ分かるかもしれませんが、数字で表現が不可能なものあるいは表現できるけれど困難なものの2つの代表だと思うのです。ここで重要なのは、数字で表現し得ないものを無理矢理に数字にしている訳です。また、本来的には数字での表現が出来ない訳ではないけれど、ミクロな視点を捨てるといったこともある訳です。

つまり、絶対的差異を数字で表現できる相対的差異に還元することで分かりやすくしてしまうということです。

偏差値教育は正しくそうだと思います。生徒の学力は数字で表現できるものではないですよね。学校の勉強が出来なくても、何か他の部分で秀でた才能があるかもしれない。それはそもそも学力という尺度では測りきれない相当なポテンシャルを持っている生徒もいるかもしれない。

また、街頭アンケートや世論調査でもそうですが、調査を受ける人は皆が皆それぞれ異なっている訳ですよね。みんながみんな同じ属性をしている訳ではない。

この「共感について」という雑感記録にも少し通じるところがあります。つまり、シミュラークルの差異です。ここで表現したシミュラークルも絶対的差異な訳です。人によって諸力が異なりますから、同じものに対する思考も差異が生じる。それは絶対的差異であって、お互いが全く以て同じシミュラークルを保有することは不可能であります。

数字で表現できないものを数字で表現してしまうということは、その絶対的差異を隠すということに他ならない。数字というものに置き換えて平板化し、相対的差異に還元することによって簡単且つ明解に分かりやすく比較するのです。そして我々はそこに具体性があると信じ、その数字のみを信じてしまう。そこからあふれてしまった、こぼれてしまったものは捨て去る。その上に成り立つ似非の具体性。そこに対する飽くなき信仰。


(ⅳ)読書に於ける数字信仰

少し話は脱線しましたが、ここから僕が声を大にして言いたいことについて書いていきます。雑感記録(3)のアップデート版だと思ってくれれば大丈夫です。

僕はそもそも読書を数字で表現することについて些かの疑義を感じています。それって数字で還元できるものなの?と常々思います。「〇〇冊読破」「年間〇〇冊読んでいます」「月に〇〇冊読んでいます」等々表現している訳ですが、根本としてそんなこと別に表現しなくていいっちゃいい。

読書経験というのはそれこそ絶対的差異です。その本を読んで何を感じ、何を得たかというのは人によって異なる訳で当然、シミュラークルも異なってくるのは言うまでもないことです。しかし、それを数字で「〇〇冊」と表現することで、あたかも相対的差異に引きずり出そうとしている。「俺の方がすごい読書経験を積んでるんだぞ」というのを数字に還元し表現しようとしている。例えその気がなくとも数字で表現するということはそういうことだと僕は考えます。

つまり、自身の読書経験を何冊読んだかで表現しようとしているその魂胆が僕は気に入らないのです。

こんな馬鹿げた話があってたまるものですか。僕が色んな本を読んで得たことを数字で表現されたら堪ったもんではない。例え読んだ本の冊数が少なくてもそこで自身にとって掛け替えのないものを得られたならそれでいいじゃないですか。無理矢理に数字にする必要性なんてどこにもない。

しかし、読書をしない人からすれば「この人ってこんなに本読んでるんだ、凄いな」って感じると思うんですね。「この人はきっと凄い思考を持っている」と大きな勘違いをしてしまう。先にも述べましたが数字が持つその似非の具体性というものに麻痺している証左であるように思います。

勿論、本を多く読んでいることに越したことはないし、多くの読書経験を積んでいることは凄く立派なことだと思います。そこは僕も非常に尊敬します。しかし、だからと言って「今月は〇〇冊読みました」「年間で〇〇冊読みました」などと表現するのはちゃんちゃらおかしな話だと思うのです。お前の読書経験は数字で還元できる程に浅いのか?と疑問を呈したい。また、こんな数字で表現してしまうから読書のハードルが上がるんだよ!とこれも声を大にして言いたい。「そんなに読まなければならないのか…」とこれから読書を始めようとしている人に若干の負い目を感じさせてしまうではないですか。読書人口を増やしたいと考えている奴が自分でその読書人口を減らしていることに少しは気づいたらいかがでしょう。


(ⅴ)数字信仰者の読書案内

さて、ではこういった文言を掲げている方たちはどのような読書をし、どのようなことを語っているのでしょうか。

僕も一概に否定はしたくないので、色々とそういった読書アカウントをこのnoteでもInstagramで見てみることにしました。正直な感想を言えば「ガッカリ」その一言に尽きます。ではどのような点にガッカリしたのでしょうか。端的に挙げると以下の通りです。

・ハウツー本、自己啓発本のオンパレード
・投稿者の思考性の皆無さ
・本の内容ばかりに執着

順々に見ていきます。まず以て本のラインナップにこれまた些かの疑義を感じています。別になんの作品を読もうが僕は知ったこっちゃないですが、それにしてもハウツー本や自己啓発本が多く紹介されている。勿論、ハウツー本や自己啓発本が悪いと言ってる訳ではありません。中には良書もありますから。問題なのはあまりにもそれらの本の占める比率が多すぎるということにあります。

僕はこの傾向を見てやはり数字への信仰があるんだなと感じます。正直、ハウツー本とか自己啓発本ってあんまり読むのに時間かからないじゃないですか。社会人とかが時間がない中で読めるようにしてますから、非常に分かりやすく難なく読める。つまり、これらを読み続ければ相対的な読書量を稼ぐことが出来る。

数字を稼ぐためだけの読書。これに尽きる訳です。また、これに関連してですが、本を読む作業をしているに過ぎませんから、そこに対する自身の思考性というものが皆無なのです。

その本を読んであなた自身は何を感じて、それに対して何をどう考えたのかという部分が全く以てない。紹介するという傾向が強いからとは言え、キャプションやら画像やらには殆どがその本の大筋ばかり。ハッキリ申し上げますと、そんな浅くて薄っぺらに本の内容紹介するぐらいなら自分で読んだ方が分かりますし、なんならそんなキャプションは不要です。(あと、「いいね、フォローしてね」という文言も僕は少し気に食わない。)

ここにも記録しましたが、本を読むことの効用は世界との繋がりを知ることにあります。その醍醐味を伝えなくてどうする。と僕は思ってしまったんですね。何よりそこに対するあなたの思考性を知りたい訳で、どう考えなにを感じたかにその投稿者の魅力がある訳です。

勿論、こういったSNSですと前提として見てくれるフォロワーの数がないとまず以て注目にも値しないし、そもそもの目的として「数多くの人にその魅力を伝える」というのも1つのSNSの醍醐味であるように思います。数を稼ぐことも確かに1つの重要なファクターだと思います。

しかし、だからと言って、大衆に迎合しその投稿の質を落とすのは僕は納得がいかない。これは自称読書家と名乗るのであればそこは大切にすべきであると思っています。以前、僕も好きな本が紹介されていたことがあったのですが、あれには心底参りましたね。つまらん。本当につまらん。あれだけの面白い作品をこうもつまらなく紹介できるとは逆に凄い。


(ⅵ)最後に

ここまで思うことを我ながら痛切に書いてきたつもりではありますが、僕だって本の良さや芸術に触れることの良さを伝えたいんです。でも、伝えるからにはそれ相応の良質な(?)もので伝えたいのです。今、こうして記録としてつけている訳ですけれども、自分で読んでいて本当にこれでいいのか?と試行錯誤を繰り返している訳です。

僕は文章が本当に下手くそだから、いつもいつも迷いながら書き進めています。そういうこともあって余計なお世話ですが、同じ読書の良さを伝える者同士として僕は見過ごせない。だからと言って「投稿のスタイルを変えろ」とか「今すぐその投稿の仕方を辞めろ」と言いたい訳ではないのです。ただただ非常に残念だなと憂いているだけにすぎません。

果たして僕のこの拙い記録を何人の方がご覧になられているかは分かりません。ですが、僕は少なくともその見て頂いた方にほんのちょっぴりでもいいから読書の良さを伝えられたらなと日々感じています。

今後も僕は好きなものを好きなように記録していきたいと思います。どうかお付き合いいただければ幸いです。

よしなに。


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