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雑感記録(323)

【言葉への信頼】


ここ数日、何だか自分の言葉が浮足立っているような気がする。

地に足は確実に着いていることは確かで、でもどことなく自分が書いていることや話しているその言葉にちょっとした浮遊感を感じる。その原因は分かりきったことだ。嬉しいことが頻発して発生している中で、紋切型な表現になる訳だが「まるで夢を見ているみたい」であるのだ。日々新鮮さは増すばかりである。そういう真っただ中に僕は居る。

こう考えてみると、言葉が浮足立つということは、同時に身体も浮足立つということにはなるまいか。例えば、何か緊張するとソワソワしてしまって落ち着きがない様子が身体性として現れる。そして何かを話そうとすると上手に話せない。身体と言葉は連携しているはずである。デカルトが「Cogito elgo sum」と言ったのも何となくそういう方面から見れば頷けなくはないとふざけたことを思ってみる。

質問 四

どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
                (こやまさえ 六歳)

(追伸:これは、娘が実際に母親である私に向かってした質問です。
目をうるませながらの質問でした。正直、答に困りました~)


谷川さんの答

ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながら
さえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
その後で一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
言葉で問われた質問に、
いつも言葉で答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

谷川俊太郎『谷川俊太郎質問箱』
(ほぼ日 2007年)P.18,19

この間、手紙を書いた時にふと思い出されて読み返したのだが、やはりこの言葉と身体性という意味に於いて、この回答は非常に示唆に富んでいるのではないだろうかと思うのである。ポイントは「言葉に対して言葉で応える必要はない。心も身体も使って応えることも肝心。」という点にある。言葉というのは何もこうして今タイピングされている文字としての言葉ではなく、身体や心によって創出できるものである。

僕等は画一的に、「文字=言葉」と考えがちなのかもしれない。しかし、これは僕が過去の記録で書いた通り、文字の始まりなどを考えれば絵画などに辿り着く訳で、文字そのものが自然の形を模したものであるということが最新の研究で判明している。以下、僕の稚拙な記録を参照されたし。

だが、そうは言われても、僕等に潜在的に刷り込まれている意識として「文字=言葉」というものは存在している訳だ。僕はしばしば「言葉にできない複雑な感情を言葉にする努力は必要である」ということを書いている。勿論それはそうなのだが、言葉で表現したくても言葉では表現しにくいことだってある。こういう時、もどかしさを感じることがある。

努力はするけれども、それが叶わない時というのは何時でも苦しいものである。誰かに何かを伝えたい気持ちはあるのに、それをどう表現したらいいのか分からない。例えば、これは身近で小さいレベルの話だが、外国人観光客に道を尋ねられて案内する時に、お互いがお互いの言語を話せなくてもどかしくなることがある。あるいは、何か上司に対して「こうしたい」と伝える時に上手く伝えられないことだって、僕は何度も経験している。

そういう時、僕はやはり「言葉の身体性」というものを抜きにして考えられないのではないかと思うのだ。というよりも、そもそも身体そのものが言葉なんじゃないかとさえ、最近では思えてくるのである。先の外国人の道案内の例でいくと、大概何とか必死に伝えようとして「ジェスチャー」使うでしょ。「Over there!」って言いたいのに分からないから「向こう!」と指さして教えたりするでしょう。あるいは、上司に何か伝える時に僕はいつも手や身体が動いちゃう。言葉よりも先に。

そう考えるとやはり身体、というか身体空間を考えるということは同時に言葉の空間を考えることであり、そしてまた逆も然り…なのではないかということを最近考えるようになった。


と、何だか綺麗に書こうとしている訳だが、実際の所は、先日の記録でも少し触れたが中村雄二郎と鈴木忠志の対談集である『劇的言語』を読んでからである。これが中々ウィットに富んでいて面白い。僕は現在進行形で読んでいる。

ところで、鈴木忠志を知っておられる人は居るだろうか。恐らく演劇をやって来た方なら少なくとも知っているのではないかと思う。僕は恥ずかしながら、演劇に対する素養みたいなものが皆無である。たまたま、本当に偶然、東浩紀の『新対話篇』で対談の相手が鈴木忠志の回があったのだが、この対談がかなりアツかった。ちなみに、僕が過去何度も取り上げ馬鹿にしている某直木賞受賞作家の「僕は面白く書ければそれで良いんですよ」という内容が語られていたのが、鈴木忠志との対談の中である。

少し時代的な話をすると、一応この人は柄谷行人のお友達ポジションみたいな人だ。中上健次ほどまでは無かったろうが…って僕には分かんないけどね。いずれにしろ、雑誌を一緒にやったりとかしていた。あとこれは僕は知らなかったのだけれども、どうやら「スズキ・トレーニング・メソッド」と呼ばれる訓練法があるらしい。ちょっと、申し訳ないけど、『ウシジマくん』を思い出してしまう。

まあ、そんなことはさておき。とにかく、僕の最近の事情も相まってこの身体感覚と言葉というのが物凄く密接に関わってくるのがよく分かる。肌感を以て僕の方に向かってくる。言語空間に晒された僕等の身体は、その空間の中で制御されているのかもしれない。少し話はズレてしまうが面白い部分を引用してみようと思う。

鈴木 : 現代は、等身大の軀が持っている想像力—同時に創造力—としての表現が非常に稀薄になっている。例えば平安時代と現代を比べてみれば、仕切りの壁や電灯のない平安時代のほうが、嗅覚とか聴覚とかの五感は異常に発達するはずですよね。季節の移り変わりを感じることも、今の都会でクーラーの入ったマンションにいるのと平安時代の暮し方とではまったく違っている。闇というものの感じ方だってずいぶん違うでしょう。これは、いいわるいの問題ではなくて、事実としてあるわけだけれども、われわれの軀に備わっている全体的で本能的な感覚は、消えてしまったわけじゃない。そういう感覚と切り離せない言葉が、われわれの日常会話などでも、かなり大事な部分を占めて、まだ生きている。法律用語とか科学用語とかは別だけれども、一般の日常会話とかコミュニケーションの用語というものは、そういう感覚と切り離せないし、演劇というのはそういうものと不可分な表現ジャンルですよね。ところがその点を非常に曖昧にしたのが、新劇と呼ばれる近代演劇だろう、というのが僕なんかの認識です。だから僕たちの演劇活動は、言われるような単なる「肉体の復権」ということじゃなくて、言葉のあり方というものが軀とどういうふうに密着しているのかということの洗い直しなのです。

鈴木忠志・中村雄二郎『劇的言語』
(朝日新聞社 1999年)P.17,18

最初の1文は結構身に染みて分かる気がする。例えばだけれども、この引用にもある通り、僕等はまず暑さに直面した時に何を想像するか。当たり前のように「クーラーのある部屋」を想像する。そこに扇風機という選択肢は現代に於いてはほぼほぼない。この「ほぼほぼない」というのは、涼を取るための扇風機ではなく、クーラーの空気を循環させるための扇風機が存在している訳である。それもある意味では涼を取るための工夫ではある訳だが、それが涼を取る為の直接的な道具とは現代ではなり得ない。

僕らが過去に思いを馳せることが出来るのは、この引用にもある通りに「感覚と切り離せない言葉」によってではないだろうかと考えてみたりする。確かに僕はここ最近、浮足立った言葉を感じる訳だが、それは僕の身体に基づくものであって、何も心や頭だけで考え出された言葉ではないのである。言葉を話すこと、誰かとコミュニケーションを取るということは全身を使うものである。改めて畏まって書くまでもないことだが、僕たちは全身で言葉を使っている。

僕はしばしば「想像力の欠如」の問題を保坂和志の作品を引き合いに出して書くことがある。再度重要なことなので改めて引用をしたい。                                                                                                                      

想像力のない人の考えることは途方もなく馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しさが底知れなく怖い。想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。いや冗談や言葉遊びを言っているわけではなくて、2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。

保坂和志「想像力の危機」『人生を感じる時間』
(草思社・2013年発行)P.232

相手に対する想像力を鍛える。それは身体と言葉の関係性についてしっかりと考えることなのではないだろうか。当たり前だが、誰かとコミュニケーションを取るには言葉以前にその場に語る主体が存在しているのである。無論、1人でも自分という他者を想定すればコミュニケーションは出来るだろう。しかし、場として存在するのは自分自身の身体そのものである。

身体を考えること、例えばコミュニケーションを取る時の相手の仕草であったり、癖であったり、服装も含めて良いだろう。そういった身体的な物も含めて言葉である。そして自身が語る言葉も含めて言葉である。僕等は存在そのものとして言葉を考えなければならないのではないだろうか。何かを表現することは何も言葉だけではない。だから僕は全身でぶつかって行きたいと思っているのだが、中々難しいものである。


よく、「言葉にしなきゃ分からない」という言葉が散見される。

勿論その気持ちは分かる。共通言語で理解することが可能であるから、言い方は些か悪いが手っ取り早く理解できる。しかしだ。何度も言うように、自分自身の複雑な感情というものは全てが全て言葉に出来る訳でもない。そこの距離をどう埋めていくか。言葉だけか?あるいは行動だけで見せるのか?そこが直近の僕の課題でもある。

そういう中で、僕は谷川俊太郎の「あそび」という概念を拝借し、言葉のみの部分で「あそび」を探るように過去に書いてきているが、やはりあれは言葉だけで考えてしまっている所に脆弱性がある気がする。あそこでは「場」ということについても若干触れた訳だが、そこに身体性を考慮していたかということを考えた時には、圧倒的に思慮が足りていない。それこそ、僕も想像力が足りていなかったということになる。

これも過去に何回も何回も書いているが、読書という行為は「読む」ことと「書く」ことの両輪があってこそ初めて成立するのである。そして、僕等がコミュニケーションを取ることもまた身体と言葉の両輪があって成り立つのではないか。そう考える様になった。しばしば、コミュニケーションで大事にされるのは「聞く」と「話す」ことが大切であると言われる。勿論そうだと僕も思う。だが、それは余りにも細分化しすぎではないかと僕には思われて仕方がない。

そもそも、「読む」「書く」「聞く」「話す」という行為自体は僕等の身体性が存在しなければ成り立たないことである。そして「言葉」というものはそういう中で醸成されていくものであるのではないか。僕等の想像力があってこその「言葉」であり、「言葉」があってこその僕等の想像力というものがあるのではないだろうかと身も蓋もないことを書いてこの記録を締めたいと思う。

そう言えば、この記録を書くきっかけになったのは勿論『劇的言語』を読んで触発されたということもある。しかし、それ以上に密なコミュニケーションを図ったからである。昨日の夜。幸せな時間の中で考えた。電話というのは中々考えることが多い。それを気付かせてくれたことに感謝をしたい。

よしなに。

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