見出し画像

雑感記録(304)

【どうせ終わっているのなら…】


 書くことがあるうちはまだ駄目なのだと以前から考えている。書くことが思い当るうちは、表現はまだ本当に真剣ではない。発想が底をついて、しかも表現意欲だけが動いているという状態があるはずだ。その時、私は自分の有りようから、世間の中に有る、血縁の中に有る、あるいはただ椅子の上に坐って有る、その有りようから僅かな言葉を摑み出すかもしれない。
 その時がやって来るまでに、私はすくなくとも、日常の取りとめもない意識の断続の中で、自分が端的に有るその有り方への感覚をいくらかでも磨ぎ澄ましておかなくてはならない。

古井由吉「力の世界にあること」『言葉の呪術』
(作品社 1980年)P.237

酒に酔えなくなった。以前、僕は急性膵炎で入院し、今では普通にお酒を飲む訳だが、どうも気持ちよく飲めない。1人で飲んでいてもそうだ。仕事の帰り道。僕は神保町駅から九段下駅まで500mlの酒を飲み切る。こうして言葉で書くと一駅分だから距離があるのかと思われがちだが、侮ることなかれ。東京の1駅間など大して距離はない。せいぜい10分ぐらいで辿り着く。つまりは10分で500mlを飲み干す。

ここには落とし穴がある。

僕は誇張して「どうだ、凄いだろ」というニュアンスを事実孕ませて書いている訳だが、実際には大したことは無い。例えば暑い日。コカ・コーラの500mlのペットボトルを10分で飲み切るということと大して違いはない。それに、僕はお酒に強い訳ではないという前提が存在している訳で、お酒が強い人からしたら全く以て「普通」のことである。大したことを僕は全く以てしていないのである。

面白いことに、言葉というのはこうして如何様にでも取り繕うことが出来てしまう。これは文章を書き続けるとよく分かる。という書き方をすると如何にも上から目線で、「お前ら文章を書いた方が良いぞ」ということを暗に孕んでしまう訳であって、これも書くことを生業にしている人ならば至極当然のことなのだし、何も言葉を普段から使用していればそんなことはいとも簡単に分かってしまえる。

しかし、どうして人間という存在は自分自身の存在を誇張したがるものなのだろう。僕も事実こうして自分を誇張し、どこか大きく見せようとしている訳だ。いや、実際の所、僕自身はそんなことは全く以て思っていないのだが、これを書いたところで逆説的な意味を孕み、「大きく見せていない」と言うことで逆に大きく見えてしまっているのである。


言葉というものに絶大な信頼がある。

日本には特に「言霊」という考え方が存在しているから至極厄介である。記号的なドライな考え方がその「言霊」によって阻まれる。そして使用している文字、ひらがな、カタカナ、漢字。同時に3種類もの文字を駆使してコミュニケーションを取り、その孕む意味が多元的に広がって行くものである。これがコミュニケーションの幅を広げ、同時にコミュニケーションをより複雑なものにしているような気がしてならない。

最近、どうもそういう下らないことばかり考えてしまう。僕は字義的な意味でその通りに書きたいし、伝えたいのだけれども、それが一度こうして書かれ、話されると字義的な部分を越えたところで別の意味が発生してしまうのである。通り一辺倒の解釈だけでは事足りなくなる。当たり前と言えば当たり前なことだが、しかしこれが僕にはどうも苦しくて仕方がない。

じゃあ、これから僕は英語を話すか?フランス語を話すか?と事はそう単純な話では決してない。僕は一応日本に生まれて、今後も今のところは海外移住などする予定もないので、日本に暮らし続ける訳だ。勿論、グローバル化が進み、外国人がどんどん流入してきているこの世界の中で多言語を操ることはもしかしたら必須になって来るかもしれない。だが、やはりそれでもこの苦しむべき日本語が…と言うよりも、日本が好きなのかもしれない。

文学の傾向を見ると、やはり多言語操れた方が面白いなと思う。

例えばだが、文学を中心に担ってきた人物たちは大抵日本語以外にもう1つあるいは多数の言語を操れた。僕はここでふと、二葉亭四迷のことを思い出す。彼は小説を書くとき、1度ロシア語で書いてから日本語に翻訳して書いたと言われている。これはあまりにも極端な例ではある訳だが、当時の所謂「言文一致体」という問題を考える上では非常に重要な事だろう。だが、ここで僕は近代文学の如何を語ることはしない。

だが、冷静に考えて。というよりも、僕の肌感。

そういう人たちが書く小説は何処となく面白い。少し独特な感がある訳だが、それがまた面白い。言葉が浮いているというか、何だろうな。日本語なんだけど日本語じゃないというか、そういう感覚に陥ることがある。最近読んだものだと、多和田葉子の『文字移植』を読んでそれを感じた。

日本語に違和感を与える日本語というのはやはり面白いなと思う訳だ。僕はその中でもやはり何度読んでも衝撃を与えてくれるのが古井由吉である。やはり何度立ち返っても良い作品だ。


僕は古井由吉の作品で言うと、やはり『杳子』と『辻』が何だかんだで好きなんだ。

以前、僕は『ゆるゆる読書感想文』と題して古井由吉の『杳子』について論じた(?)訳だが、やはり『杳子』は何度読み返してみても良いなと思う。実は先日も本棚整理をしていて、たまたま古井由吉の『杳子・妻隠』が目に入ったので読んだのだが…これが堪らない。日本語はこうもエロく書けるものなのかと毎回毎回興奮する。やはり僕は変態なのかもしれない。

古井由吉は書き出しで心を掴まれることが多い。これは過去にも『眉雨』を引き合いに出して書いた。あの書き出しで僕は一瞬にして引き込まれた。「ツカミが上手い」とはこのことである。お笑いの世界でも「ツカミ」が上手いと面白いということはある訳で、1つの起爆剤として集中して入り込んでしまうものである。

僕は『辻』の中の書き出しだとこれが好きだ。

 人から深刻な身上を打明けられた時には、滅多な口はさしはさむものではない。小ざかしい世間智は論外、自分の憑む経験もあてにはならない。それを承知の上なのに、ある時、相手の話を聞くうちに、話の筋道からして大事とも思われぬひとつの光景が、それだけ目に浮かんで、あまりくっきり見えるので、つい感慨めいた、まるですべてが終ったところから振り返っているような言葉を口走った。相手は不可解そうに黙り込んだ。話はそれで切れた。別れて一人になり、知りもせぬくせに余計なことを言ったものだと恥じた。恥の念は絶え絶えながら何年か続いた。それも忘れた頃になり、その人の身に不幸が起った。伝えた人は多くを話さなかったが、因果だ、と本人は言っていたそうだ、と洩らした。ひさしく聞かぬ言葉だと異和感を覚えた後で、差しこんで来たのは恥よりも暗い、罪悪感のようなものだった。あの時、本人の前で自分の口走ったのは、まさにその言葉なのだ。由なきことを言い散らしたように後から悔まれたが、因果だなあ、とその一言だけだった。しかし、日頃の自分の口からはまず出ない言葉だ。
 何も知らずに言ったのだ、と一人で繰り返し弁解していた。取り返しのつかぬことをした暗さは遺った。

古井由吉「割符」『辻』
(新潮社 2006年)P.56,57

特に、「ある時、相手の話を聞くうちに、話の筋道からして大事とも思われぬひとつの光景が、それだけ目に浮かんで、あまりくっきり見えるので、つい感慨めいた、まるですべてが終ったところから振り返っているような言葉を口走った。」この部分である。

この部分だけ読むと「因果だ」というセリフを導く為にここまで遠回りをしながら書いている。しかし、この遠回りが堪らなく魅力的である。恐らくだが、この遠回りの喜びが分からない人間にとっては「因果って言っちゃった、しまった。やってしまった…」という所だけが読み取れればそれで良いのかもしれないだろう。

そうすると、引用箇所の最後の1文。これが眼の前に屹立することは無い。ただの1文として終わる。何かを表現するということは正しくこの遠回りの中で突然出て来る一撃必殺のパンチ。こういうことなのかもしれない。このダイナミズム。これこそが文章を読むことの愉しみであり、文学や小説というものの面白さの1つなのではないか。

しばしば、「小説は自分が表現出来ない感情を表現、代弁してくれているから良いのだ」という人が散見される。勿論、それはそれで小説の愉しみであり、遠回りのダイナミズムを感じていることに他ならない。しかし、そこで表現されていることが自分の抱えている感情と同等であることを確かめるというのは少し短絡的すぎやしないか。そこで描かれている感情発生のプロセスにこそ着目せねばなるまい。

これは結局、小説のある文章の結果としての愉しみであって、そこに至る道中はどうでもいいと言わんばかりの言説である。そこの差異を愉しむことも小説の愉しみではないのか。自分にはないプロセスで発生する感情を把握すること。そして自分が気づけなかった部分での感情の発露を認識することが出来ることが小説を読むことの醍醐味ではないかと思われて仕方がないのである。

そして、何よりも…。


自分自身の生活と小説はある意味で地続きである。

僕はそういうように考えている。現実では味わえない世界を体験できるから面白いのではない。その逆である。生活に根差しているからこそ面白いのである。僕等の生活や世界を出発点として描かれる小説は面白く愉しい。僕は先日の記録で「日常という非日常」について書いた。正しく小説の姿とは僕はこう思っている。生活や世界について具に見て考えるからこそ日常が実は見方を変えれば一瞬で非日常であることを教えてくれる。

「渾然として一」

僕は最近この言葉が好きでよく使っている。僕等が生きている生活や世界は何も「日常/非日常」と区別することは出来ない。この分化していく生活や世界の中で「渾然として一」つまりは「日常/非日常」と分化する以前を捉えることが出来るものこそ僕は小説だと思っている訳だ。だから僕は最近の小説傾向には危惧を抱かざるを得ない。

それは「面白い/面白くない」という対立軸の中でそれらが語られることにある。ひいてはそれが「売れる/売れない」という対立軸の中で語られてしまうということに僕は未だに慣れない。勿論、多くの読者に作品を届かせるという点に於いては確かに「売れる」ことは必要不可欠な条件であることは間違いのない事実である。それは僕も認めるところではある。

 詩をつくるということは、個人的な情熱のはけ口ではない筈だ。それを一個の商品として考えていい程、詩は社会的なものである筈だ。ぼくらはいいたい放題をいえばいいのではない。ぼくらは常に自己への誠実と、社会への誠実との間で苦しまねばならないのだ。詩の技術の問題もそこにあるのではないだろうか。片手間に医者がつとまらないのと同じように、ぼくらは片手間に詩は書けない。詩人が職業として成立しない社会は勿論いけない。同時に詩人を職業と考えない詩人もいけないとぼくと思う。

谷川俊太郎「詩人とコスモス」『沈黙のまわり』
(講談社文芸文庫 2002年)P.17

この谷川俊太郎が「詩」というものを「小説」に置き換えてもいいのではないか。と言うよりも、今では詩人というより小説「家」とされているのだから、彼らが創作する作品は「社会的なものである筈だ」。しかし、我々の感情を規定し「面白い」「泣ける」「感動する」と扇動した小説や「すぐに役に立つ」などの謳い文句の自己啓発本が跋扈する社会。

そして、以下の記録で引用した朝井リョウのエピソード然り。

本来的な部分から遠く離れたところで今そういったものが蔓延っている。そして、今では死滅した「純文学」を担っていた芥川賞などもどことなくそういった流れの中に徐々に回収されている気がしてならない。如何にその小説が良かったとしても、僕はその読む前提の部分で受け入れられなくなってしまう。そしてそういう社会の中で「純文学はまだあるんだ」と声高に叫んでいる人を見ると、過去の自分を見ているみたいでやりきれない。

僕が偉そうに言えたことでは決してない訳だが、もう僕は小説には期待していないというのは事実としてある。だから逆を返せば、純粋にもう「娯楽」として割り切ることが出来る。そしてハードルを下げておけば、何か些細な面白いことでも愉しめる。もうこれで十分ではないだろうか。

だが、何度も書く訳だが、僕の読書のスタートは幸か不幸か、その死滅した「純文学」な訳である。そして、どれだけそれに関してあれやこれやとnoteなどで書いても、それは今の社会では「趣味」の領域を出ないのである。まあ、今更悔やんでも仕方がない。閉じこもった世界で愉しむ。それで十分だ。


はてさて、何の話を書きたかったのかよく分からない。

元々、シリーズである『駄文の円環』を書こうと思っていたのだが、古井由吉のエッセー集を読んだら何だか火がついてしまった。結局最後まで何を書きたかったのかよく分からないけれども、やはりこうして自由に書けるのはいいなあとも思う。

よしなに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?