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雑感記録(184)

【ゆるゆる読書感想文】


先日、芥川賞の記録を残した。それ以来、過去の芥川賞作品が気になり、色々と読み漁っている。

それで僕は昨日から古井由吉の『杳子』を読み返しているのだが、これがまた非常に良い。今日はそんな『杳子』のゆるゆる感想文を書くことにしよう。本当にゆるゆるだから気を付けて。


まず以て、古井由吉を知らない人にどんな人かを説明しようかとも思ったが、僕の言葉で説明することすら烏滸がましいので辞める。ゆるゆる読書感想文だから許して。みんなググって。

どの作品が良いとか、どれが悪いとかそれも一概に言えない。だって全部好きだから。「どれもオススメなんで…」としか言いようがない。そうだな、『眉雨』とかは書出しが好き。『円陣を組む女たち』はストーリーが好き。『辻』は名作過ぎる。『われもまた天に』は泣くかと思った。というぐらいには今日はゆるゆるなのである。

それでね、古井由吉って3回目になるのかな、その3回目の『杳子』と『妻隠』が芥川賞候補になったのね。1971年ぐらいかな。『文藝春秋』の1971年3月号、第49巻第3号3月特別号である。原本で(と言ってもデジタルアーカイブにはなるのだが)読んだんだけれども、いや、やっぱりね当時の状態で読めるの、良いよね。

その前の年だったか、更にその前の年だったか覚えてないけれども、『円陣を組む女たち』と『男たちの円居』も確か芥川賞候補になっている。僕としては正直、芥川賞を取ったとか取らないとか本当にクソどうでもいいことなんだけれども、でもそういうの抜きにしてもレヴェル高えなって思った訳なんだよね。

まだね、正直『杳子』とか『妻隠』とか、それこそ『円陣を組む女たち』とか『男たちの円居』も別にそんなに読むのが難しいって訳でもない。普通に読める。僕も久々に『杳子』を読んだんだけど、不思議とスンスンと入ってくるのね。初めて読んだ時は大学生の頃だったけど、その当時は本当に何読まされてるんだ!という感じだった。でも、授業で『杳子』やって何となく見方が変わった。

でも、それ以来あまり実は『杳子』って読み直すことしてこなくて。もうこれは僕の怠慢以外の何物でもないんだけどね。まあ、『木犀の日』とかあとは『野川』とか『辻』辺りは何度か読み返しているんだけどね。どうも『杳子』には戻らないんだよな…不思議と。


それで改めて読み直してみたんだけどね、何となくだけど「ああ、読み返そうかな」ってならない理由が分かった気がするのね。それは言ってしまえばね、単純に言葉の層?って言うのかな、どこか薄っぺらいんだよね。勿論ね、あれはあれで凄く良い作品だと思うんだけれども、どこか僕は物足りなさを感じてるのね。つまりね、僕の好きな「古井由吉的言語」で書かれてないのよ。

「古井由吉的言語」って何ぞ?ってことなんだけれども、僕は古井由吉の扱う言語は日本語のようで日本語じゃないと僕は常々感じてるの。『眉雨』の書き出しにしてもそうなんだけどさ。もう1回引用しとく?

 この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。
 独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮りにも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくても、身が身から離れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。

古井由吉「眉雨」『古井由吉自選短編集 木犀の日』
(講談社文芸文庫 1998年)P.113

何て表現すればいいのか難しいんだけれども、独特の表現形式があるのよ。だから実際に読んで体感してくれ!としか言えないのが辛い所なんだけど、今日は『【ゆるゆる読書感想文】』なんでそこは堂々として言える。皆、古井由吉を読むべし!体感しろ!「古井由吉的言語」を!

そんな冗談はさておくとして(いや、決して冗談ではないのだが…)、いずれにしろ僕には『杳子』の段階ではまだ成熟した古井由吉は存在しないのね。個人的な肌感として。そりゃ当然ちゃ当然の話で、だって芥川賞って「新人」に向けて送られる賞な訳でしょ。そら、これが賞を取るってことはこの段階で古井由吉はまだ「新人」扱いされてるんだな。

まあ、実際そんなことはどうでも良くて、新人だろうが何だろうが、上手な人は上手であるってだけの話なんで。自明のことでしょ。他の候補者と比較したらずば抜けて優れているってことでしょ。ま、僕は他の人の作品なんて知ったこっちゃないから、知らんけど。


それでね、実際に『杳子』について思うことを書いていく。

僕ね、初めて読んだ当初から実はずっと思ってたことがあるんだよね。それがさ、「これ、スマホとか携帯電話あったら成り立たねえな」って。凄い馬鹿なこと考えてた訳ね。本当に馬鹿なんだけど。あほらし。

これ例えばさ、最初は山で杳子と出会う場面から始まる訳じゃない。それでさ、主人公も「うわ、何かやばそうな女いるわ…」と思って近づいてみたりかと思ったら遠ざかってみたり…。そらね、気になるけど、結局主人公は杳子を助ける訳でしょう。吊橋の描写なんてまさにそれじゃん。もし仮にだよ。一応さ、これ山で若干の迷子と言うかさ、杳子の持病が発生して杳子は山を彷徨った挙句に倒れてる訳でしょ。

でもさ、それを主人公は「はてさて、どんな女が寝てるやら…ニヤニヤ」みたいな感じでしょ。いやいや、助け呼べって。普通、倒れてたら一応それでも助け呼ぶだろう。まあさ、状況が状況で、描写の中にも人っ子1人いなさそうな場所だから、助けを呼ぶことは難しいわな。仮にここでスマホ持ってたら秒で解決だよね。「女性が倒れてるんです」でお終い。吊橋のあの場面(僕の乙女心は勝手にキュンとしたけど…)がない訳だ。詰まらん。

しかも、何というか妖艶な杳子がこの後延々と出てくる訳だが、スマホがあればそういった場面はなくなる。カフェでの待ち合わせ。

「来週の今日、あの時間に、あのお店で待っててもいいですか」
 彼はいまのいままで、まるで別れれば自然にまた出会えるみたいに、これから先のことをすこしも考えていなかった自分の迂闊さに驚いた。

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.312

実は個人的にこの文章が凄く好きなのね。特に杳子のこのセリフ。くぅ~…男心を擽るような言葉だぜ…。これさ、スマホとか携帯電話がないからこそ言えることよね。それにこの主人公の心情も何か凄く良い。「自分の迂闊さに驚く」っていうのが個人的に刺さった。自分自身に驚くって中々ないことだと思うんだよね。そう思わせる杳子はきっとエロい女だ…。

それでね、これを現代に置き換えて考えてみた訳ね。そうするとさ、まず以てこんな状況が発生しないんだよね。こちらから意図的にそういう状況を作り出すこと以外にはあり得ないのね。現代人ってさ、初めて会う人、とりわけ親しくなりたい人とまず「LINE交換しません?」から入るじゃないですか。まずそもそも会話の前提がスマホ、携帯電話ありきで進行している。ところが、これが書かれた当時なんてのは、当然にそんなものはない訳だ。

今だったら、あらかじめ連絡取り合ってとか、何ならGoogleマップの地図を共有して、アプリ使って迷子にならずにくる訳でしょう。杳子がカフェの入り口でウロウロする場面がごっそり意味を持たなくなっちゃうよね。何なら話の全てが成立しない可能性がある。いや、確実に成立しないんじゃないのかなとさえ思う。


しかしだ、とはいえこうしてスマホや携帯電話が普及している時代に読まれ続けているのも何だか面白い話である。普通(かどうか分からないけど)、今を生きている人からすれば当然の疑問と言うか、発生してもおかしくはないことだと僕には思うんだよね。でも何の違和感を持たずに作品としてそれが読めてしまう。一体何だろう。

という問題の解決を僕は先に書いた「古井由吉的言語」に求めたいっていうことなんですよ。もう少しばかし中身に突っ込んでみていくかい。

この作品って最初は山での遭遇から始まる訳でさ、第1章は全て山での出来事が延々と語られる。山の描写、杳子の描写、彼(=主人公)の描写。まず文量的に長い。これは物理的側面からして長いという事である。加えて、山の描写に合わせて杳子の描写があり、何というか「杳子」という人物像がハッキリしない。少し引用してみよう。かなり最初の方。

 谷底から見上げる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した灌木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼうっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明るさの中で、杳子は平たい岩の上に躯を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでいった低いケルンを見つめていた。

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.298

これは杳子を見つけた場面である。ここでは杳子と言うよりも、杳子の周辺環境、置かれている状況で杳子の様子が描かれるのである。つまり、これはあくまで杳子そのもの、例えば髪の長さはとか、年齢はどれぐらいで、どんな服装をしていてといったような、杳子の外面の外面を描いているに過ぎない。杳子に近づけない。この引用に続くすぐの文章も見てみよう。

もう五時間ちかく人の姿を見ていない男の目の中に、岩の上にひとり坐る女の姿は、はるか遠くからまっすぐに飛びこんできてもよさそうだった。三日間の単独行の最後の下りで、彼もかなり疲れてはいた。疲れた躯を運んでひとりで深い谷底を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えてくることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮んでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。それほどまでに、杳子の躯には精気が乏しかったのだろうか。

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.299

結局のところ、主人公であるところの彼の状況を通してでしか杳子の姿は露にならない。杳子の周りの状況と彼の思考が相まって、彼の中で幻想の杳子象を作り出しているに過ぎないのである。では、実際に彼が杳子と会うようになってからはどんな形で杳子が描かれるのか。これも少し引用してみよう。

 喫茶店の席にむかいあって坐ったとき、彼はまた相手の年齢をつかめなくなった。椅子の上で、上半身をゆったりと支えて、腰がにわかに女くさくなった。しかし色の白い腕には透きとおったうぶ毛がいっぱいに生えていて、艶のない肌にそって流れている。全体になんとなく年齢のない躯つきで、蒼白くくすんだ精気をそこはかとなく発散して、かすかな不快感を彼に覚えさせた。彼はまた自殺のことを思い出した。彼は自殺者について彼流のイメージをもっていた。自らの命を断とうとする人間は、男にしても女にしても、その時、年齢というものを洗い流されて、老人とも未成年ともつかない蒼白さにつつまれる……。

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.310

何というか常に肩すかしを食らうような文章である。杳子の姿を掴めたとその刹那、彼にもその杳子の姿は確固たるものとしてつかめず、自分の思想に埋没してしまう。読んでいる僕らとしても、結局分かり得ることは、杳子がやべえ奴という以外にはない。この引用箇所に於いても何だか杳子は泉鏡花の書くような幽霊じみた様相を呈している感じがする。ま、僕個人の感覚だけどね。

何というか、「言葉でけむに巻く」っていう言葉があるじゃない。これ正しくそれだなって思うの。あと、単純に読んでいてパッとだけど谷崎潤一郎とそれこそリカルドゥを僕は思い出すのね。谷崎は『陰翳礼讚』で、リカルドゥはもう、これは言わなくてもいいよね。リアリズムの問題だね。つまりは、「影があることの美しさ」「現実を崩壊することによるリアル」みたいな話さね。

まあ、ここからは余談も余談になる訳だけれども、その昔ね、森鷗外が『今の批評家の詩眼』っていう作品の中でね、レッシングの『ラオコーン』引っ張ってきてこういうのね。「人物描写に於いて、その特徴を仔細に描写するとその人物像が崩壊する」って。これは僕の以前の記録で小栗風葉のことを書いた時にも利用したんだけど、つまりね例えばだけど、「杳子は背丈が何センチで、親は何センチぐらいで、そういえば兄貴が居て、兄貴の身長も高くてその遺伝子を受け継いで…その影響もあって首が長く、どこぞの民族でも首長族が居て、彼女らは首にリングを…」とかって延々に語られても、結局さ杳子ってどんな人か分からないんだよね。(ちなみにこの「杳子は背丈が…」って僕の作り話ね。)

だけれども、古井由吉の『杳子』はどうも様子が違うんだよな。結局、杳子は彼の状況でしか語られなくて、読み進めるうちに本当に居るのかどうかさえ分からなくなってくるのね。言葉という鎧を主人公自らが着せて遠ざけているような印象さえある訳。これがね、でも、何か…分からなくもないんだな。言葉を費やしてうやむやにして離れるというか、何でも理由をつける奴っているじゃん。それの高尚版って感じがするのね。


だけれども、僕は初めて杳子を認識した瞬間があるのね。それがセックスの描写なんだな、これが。

 それから二時間ほどして、二人はそのレストランから遠くない一室で、薄暗がりの底に冷えた躯をふたつ並べて、窓のすぐ下を通り過ぎては急にどこかで消える幾組もの男女の足音を聞いていた。薄い毛布が二人の躯を四月の夜気の冷たさから隔てていたが、その下にいつまで経っても温みが集まってこないのを、彼は訝っていた。シーツも乱れてなくて、はじめに素肌を触れた時のよそよそしさをまだ保っていた。冷たい毛布とシーツの間に横たわって、彼の躯は内側からの存在感を失って、不安な輪郭の感覚だけに瘠せ細っていった。カーテンをとおして滲んでくる街燈の光の中で、杳子は毛布のへりから痛々しい肩をのぞかせて、目を大きく開いて天井の暗がりを見つめていた。躯を寄せあっているのに、温みがすこしも伝わってこない。気がつくと、杳子の手が彼の肘のところを指先でかるくつかんでいた。街の中を歩いていて、ふいに方向を見失って躯を寄せてくる時と、すこしも変りがなかった。

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.331

これは第4章の話なのだが、ここは杳子との情事が延々と語られる。僕は過去の記録で露骨にセックス描写のある小説は好きではないと公言している人間であるが、しかし、何故だか古井由吉のセックス描写は読める。これも言葉でどういったらいいのか分からないけれども、特に『杳子』に場合にはセックスを通して『杳子』が何となく大人になっていく様子が描かれる。そしてエロい。そうエロい。ただただエロい。

この引用部は杳子と主人公であるところの彼が食事をした後に初めてセックスする場面である。しかしね、この食事の場面も凄く良いんだよ…。まあこれはぜひ読んで欲しいものだが。

でも、何が良いかって言われると…これが説明が難しいんだよな。ただ唯一確実に言えるのは「セックスを通し、杳子の幻想性の解体を試みる」という点に惹かれてしまったんだな。だけれども、それを感じてるのは主人公だけなんだよな…。何ていうかさ、実感というか、よく僕は「肌感を以て感じた」とか書くんだけど、正しくそれな訳よね。だって肌と肌が密着してんだもん。当然。

 「あなた、子供、きらい……」
 彼はとっさに妊娠のことを思って、そんなたずね方に眉をひそめた。

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.336

結局のところ、主人公は何だかんだで快楽目的でセックスやってんだよ。杳子のことを知りたいとか、対話したいというかそんなつもりは何かなさそう。まあ、しかし、そんなことは実際どうでもいい。問題はこのセックスを機に杳子が現実化していくことにある。これが僕としては個人的に悩ましい。と言うか、『杳子』を読んでいて退屈する部分である。

そう、思い返してみても、このセックス以降の章って実は何度読んでも思い出せない。と言うか、何だか物凄く波のある小説なので読んでいると疲れる。個人的にはこのセックスの章、つまり第4章がある種の分岐点だと思ってるのね。このセックスをするかしないかという問題を境に杳子も幻想から現実へと引き戻され、そこでの紆余曲折の波にさらされる。つまりは、自分が「おかしい」と認識してしまった、主人公に気づかされてしまったことで彼女自身もどうしていいか分からなくなっちゃう。行き詰まり状態ね。

その移ろいを感じる意味では面白い小説だとは思うのだけれども、何だか退屈で仕方なくなってしまう。何というか、「杳子も普通の女だったんだな…」という落胆にも似たような感情が僕を襲うのである。勿論その話を読むのも面白い。堕落していく杳子というか…人間味を増す杳子というか…。僕はそれが何だかあまり納得いっていない所ではある。

しかし、物語の構造的に見れば面白いものがあって。つまり杳子の波と話の波というか起伏みたいなのが一致とまではいかないけれどリンクしているような気がしなくもないんだよな。例えば第1~3までは杳子は何にも知らない女の子であって、ある種の純粋無垢な状態である。不幸にも主人公とセックスすることで「リアル」を感じる。その齟齬に耐えられなくて主人公と距離を置いてみたり、風呂に入らなかったりと…現実になろうとするその必死さが僕には見ていて辛いものがあった。

でもね、でも、最後の彼女のセリフが堪らないんだ、これまた。

 「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」

古井由吉「杳子」
編集兼発行人 杉村友一『文藝春秋』
(文藝春秋 1971年3月)P.371

こんな言葉を言える杳子が美しい。杳子は精神疾患を患っている訳でしょう。別に僕は病気だからどうとかってのはどうでも良くて、精神疾患を持たせた登場人物に何の違和感もなくこのセリフを吐かせるその古井由吉の技量に感動したというだけの話さね。内容なんかどうだっていい、別に。正直、杳子や主人公がどうなったって関係ない。この最終部に持ってきたその技量に感動する。


『杳子』は何というか、時代背景とかは抜きにして、その主人公の持つ感覚であったりとかは何となく分かるし、何だか自分に引き寄せて考えちゃう。別に主人公に魅力がある訳では決してないけれど、山で座ってる女に声を掛けるぐらいの勇気は持ち合わせたいなと思った。

以上。今日の『【ゆるゆる読書感想文】』のコーナーでした。

よしなに。



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