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雑感記録(231)

【意味からの逃避行】


今日も昨日に引き続き、ロクなことを書かない。

という書出しから始めてみれば「意味」というものから逃れられるかと思ったのだけれども、しかしこうして文章を成立させてしまっているというその時点で「意味」と言うものは勝手に生成されてしまう。また、日本語は漢字も使用する。漢字はそれ単体でもあらゆる「意味」を包含してしまうため、そもそも日本語を使うという時点でどうしようもない。例えばこれが英語みたいにアルファベット、「ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ」というようにただの記号としての連なりだったならばと考えてしまう。

何故こんなことから書き出そうと思ったか、まずはそれについて少し書いてみよう。


最近、古本まつりが各所で行われている。これらは過去の記録に『古本巡りはスポーツだ!』と題して過去4回に渡り記録として残してある。以下にリンクを貼っておくのでお暇な人が居ればぜひ読んでみて欲しい。

どの古本まつりでもそうだが、僕は大量の本を購入している。当然に自分自身が興味のある本、またこれから読みたい本として手元に置いておきたいがために購入した。しかし、購入後毎回悩まされることがある。それは本棚が足りないということである。いつも分かってはいるのだけれども、見て見ぬふりをしてどんどん購入してしまう。置き切れなくなって会社のデスクも古本で一杯で、実は置き場所がなく、現状床に平積み状態である。部屋の掃除がしにくいと言ったらありゃしない。どう考えても自業自得な訳なのだが…。

それで買った本や今途中まで読んでいる作品を読み始めるんだけれども、1度に購入する本の冊数が多いので単純に全てが全てに目を行き渡らせることが難しい。僕は結構飽き性な人間なので、様々な本をパラパラ読んでは次の本へというような、よく言えば流動的な読書をしている。だが、とはいえこれらの量をパラパラとはいえ尋常じゃない程の量である。所謂「積読」というものが僕にはかなりある。これを良いか悪いかということについては置いておくにしても、物理的に本の領域が広く、自身の生活範囲が侵食されていることを鑑みると少し考えててしまうところがある訳だ。

それで昨日も自宅に帰り身支度を済ませ先日の古本まつりで入手した『フィネガンズ・ウェイク』を読み始める。そしてその途中途中で、休憩と題して『阿部和重対談集』を読み始める。

実はこの『阿部和重対談集』については昨日購入ホヤホヤの本であり、対談の相手方を見て思わず手に取った。僕の好きな保坂和志との対談もあるし、高橋源一郎や蓮實重彦など名だたる名前が連なっている。個人的には浅野忠信の名前があったことにちょっとした驚きがあった訳だけれども、まあそんなことはどうでもいい。とにかく『フィネガンズ・ウェイク』の合間合間にこれを読むことにした訳だ。

相も変わらず『フィネガンズ・ウェイク』は訳が分からなさ過ぎてもはや面白いなと思いながら読んでいた。文章としての意味というより文字としての連なり?意味の発生?どのように表現したらいいのか悩むのだが、意味のない文章だけれども言葉という単位で見ていくとそれとなく意味が取れる?みたいな感じなのだろうか。言葉で表現することが難しく煩悶としてしまうのだが…。僕は個人的にだけれども「意味はないが意味はある」みたいなことを感じた。しかし、こういう文章に触れ続けていると頭が混乱する。それは言葉、日本語としての文法という僕らに染み付く無意識の制度から逸脱し、別の解釈軸?別のベクトル?からそれらを捉えなければならないからだ。これには骨が折れる訳だ。

僕は当たり前のように「読んでいる」と書いている訳だが、実際の所正確に言えば美術作品の鑑賞の如く「言語作品を眺めている」のだと思う。つまり、言語や文章を意味の総体として捉えるのではなくて「言葉そのもの」あるいは1つの「絵」として捉えているような気がする。この読み方が果たして正しいか正しくないかは置いておくとしても、事実僕にはそういう読み方しか出来ない。そういう状況に自分の中で凄く面白いなと思いつつ煩悶としていた訳だ。

そこで話は最初に戻っていく。

僕等は「言葉で書かれている」「文章として成立している」というように眼前に提出された者に対しての意味を看取しようと努める訳だ。これは僕らの癖なのかどうか定かではないが「そこに書かれたことには意味がある」って無意識のうちに考えてしまうような気がする。看板でも街中に至る所にある標識でも何でもいい。そこに言葉で書かれている以上、意味を持ってしまう。では逆にそれに「意味を持たせない」ことは可能なのか?あるいは「意味から逃れる」ことは可能なのか?とも考えてしまった訳だ。


こういう時にバルトの『モードの体系』とか『記号学の原理』とか、あるいはソシュールとかヤコブソンとかの言語論とでも言うのかな。そういったものを引き合いに出して語れればカッコいいのだろうけれども、生憎なのだが『モードの体系』は大学以来読んでいないので悔やまれる所ではある。読み直してから書こうとも思ったが、しかしそれもそれで何だかな…と感じてしまった。別に僕はこれから書評、ましてや批評をする訳ではないのだし、哲学みたいなことをやろうともしていないのだから。まあこれらは唯の言い訳にしか過ぎない。

僕が微かに記憶しているのはバルトの「コノテーション分析」である。図は頭の中ですぐにポンと出てくるし、デノテーションとか何かそういう言葉もポンと出てくるけれども、それについて説明することは正直出来ない。悔しいことに。自分の勉強不足だなと思う反面、また読めばいいんだよなという楽観的な自分が居ることも確かで、こういう読書に於ける忘却っていうのも悪くないもんだなとも考えてみたりする。これは古井由吉からの教えである訳だ。

だから何となく肌感でしか書けないのだが、少し書いてみようと思う。

僕がこういう時、いつも手掛かりにするのは詩である。あれこそ何というか「意味がないようである/あるようでない」ということを表現した作品群であると僕は少なくとも考えている1人だ。僕もそこまで詩に造詣がある訳では決してないのだけれども、感覚として分かるって言えばいいのかな。読んでいて何となくこの人たちは言葉が絶対のものであるということを考えていないのだと思う。だからこそ新しい可能性を求めて詩を書いているんだと思うんだ。これも僕の感覚だからあてにしない方が良い。

詩については過去に何個か記録を残している。

それでやはり詩人にもそれぞれのやり方でというか、それぞれのエクリチュールを以てそういう言葉について真摯に向き合っているのかもしれない。僕等に潜在的にある制度を解体しようとする試みが詩であると僕は思っている訳だ。しかし、詩にも一定の制度が出来てしまっている訳だ。それは言葉を使用しているからだ!というのは本末転倒になってしまうので一旦括弧に入れておいて…。詩にもそれなりに形が出来てしまっているのである。

例えば、詩というものはオーソドックスな形式で行くと1連、2連と数えられるようにある種の纏まりみたいなものが発生している。その纏まり同士の相互連関、あるいはその連の中の言葉による相互連関によって様々な世界を展開していく訳だが、これが詩を書く時のスタンダードになってしまっている訳である。僕等が「詩を書こう」と仮に考えた時にパッと思い浮かぶのはその形式が1番最初に浮かぶ。そして「短い言葉の連なり」というように長ったらしい文章を書かなくて良いという認識がある訳だ。既に詩にもそういった所での潜在的な制度というのは潜んでしまっている。

これは一概に詩の特性とも言って良いのか分からない所ではあるが、所謂「形式」か「内容」かという萩原朔太郎や横光利一が展開していた問題から端を発している訳だ。横道に逸れるならば、どこかの作家は「詩的精神が大事だ」とか「いやいや、何言っとる。構造的美観が大切なんやで。」という作家もいる訳だ。だが、小説にも詩にも「構造的美観」というものは通底しているような気がしていると僕は思っている。これも久々に読み返さねばなるまい。図書館にでも行こうかな…。

いずれにしろ、詩というものはどこか「形式」を追求することにより「内容」これは言ってしまえば「意味」と考えても…いいのか?まあ、いいや。とにかく、詩は僕の勝手な妄想に過ぎないのだけれども、「形式」が「内容」(=「意味」)を凌駕するものだと思っている。そもそも言葉だって言ってしまえば「形式」であると思う。それは言葉という形を持っているからという何とも短絡的な考えなんだが、特に日本語いや漢字というのはそういった側面が強いのかもしれないなと思ってみたりもする訳だ。

話は脱線するけれども、小学生ぐらいに漢字の成り立ちとして、象形文字とか指示文字とか会意文字、形声文字とか色々とあるとか習ったと思う。それを考えてみれば分かりやすいのかなとも思うのだけれども、物の形をかたどったりして感じが作られている。それはつまり自然の形(これを「形式」と呼んでいいかどうかは不明だが)に寄せて作る訳だ。漢字というのは先の繰り返しになるが、それ単体で様々なことを表している。とこうして書いてみて僕は自身の過去の記録を思い出す。東浩紀と石田英敬の『新記号論』だ。

石田 つまり、人間は、自然のなかの事物を見分けているパターンと同じ頻度で識別要素を組み合わせ、文字を作ってきたということです。
   こうした研究から、人間の文字は、動物としての人間が自然界の見分けシステムのなかで使っている識別要素とほぼ同じしるしから構成されていると考えられる。つまり、世界のどの文字も、同じ空間識別のしるしから派生した同じ特徴を要素として成り立っている。それらは三ストローク以内で書けるしるしであって、世界の文字はそれらの要素を組み合わせてできている。それらの要素は自然界の中に見つかる要素と同じものだという仮説をかれらは立てたわけです。
東  これはほんとうに感動的な研究ですね。まず第一に、人間がつくったすべての文字は、構成要素の出現頻度の点で見るとみな同じ分布でつくられている。そして第二に、その出現頻度は自然界における構成要素の出現頻度と同じ分布になっている。つまり人間は、自然のなかのかたちの出現頻度をまねるようにして、文字をつくっている。文字と自然は対立していない。それはじつは同じかたちの分布でできている!

東浩紀・石田英敬「ヒトはみな同じ文字を書いている」
『新記号論 脳とメディアが出会うとき』
(2019年 ゲンロン)P.74,75

これから突拍子もないことを書くので全く以てあてにしないで欲しいのだが、僕が思うに言葉を書く、あるいは文字を書くということは自然を書いていることになるのではないかと思う訳だ。そうしてその自然を人間の手でパッケージ化していつでもどこでも運びやすく改良したのが文字であり、その文字を連ねることで自然の広大さを表現する。それが言葉なのではないかと僕は勝手に考えている。言葉そのものが「形式」であるというのは僕個人の考えとしてはここから来るんじゃないのかなと思っている。

それで、人間は自然をパッケージ化したのは良いんだけれども、そこに意味を付与してしまった訳だ。文字だけでそれがイコール自然という認識だったのが、交通、つまりは他社との交通の中で「これはなんだ?」と障害が発生してしまうから「意味」というものを付与したのではないかとも思う。ここで僕が言いたいのは詰まるところこういうことである。

・文字そのものが自然の模倣=形式
・言葉は広大な自然の表現。
・「形式」がアプリオリにあり「意味」はアポステリオリに存在する。

それで話を戻す訳だけれども、詩というのは「形式」がどうのとか「意味」がどうのとか言っている訳だが、僕には言葉を使っている時点で「形式」なのではないかと考える訳だ。しかし、僕らが詩を想像する時、1連2連といったあの特殊な言葉の形式を想像する訳で、結局詩も制度に縛られている訳である。そうすることに「意味」があると勝手に付与しているのだ。

結局、詩の大家と呼ばれる人たちもそういう無意識の制度に囚われてそのような流れで書いてしまう。そこに何も「意味」などない。あるのは仮象としての「意味」に過ぎないのである。ここをまずは破壊すること、そして言葉や文字の持つ形式を凌駕すること。これが詩人のある意味での魅せ処…と言ったら上から目線で本当に申し訳ないのだが、詩の面白さというか醍醐味なんじゃないかなと思う訳だ。


それでまたまた話は戻るが、「意味を持たせない」ということを積極的かつ果敢に挑んでいるのが僕は吉増剛造だと思うんだ。(小説ではジョイス『フィネガンズ・ウェイク』かな?)

初期の詩も面白いっちゃ面白い。だけれども知的な興奮というのは正直なくて、文体も何もかもがこう言ってしまってはかなり失礼だけれども、他のそこらへんの詩人と変わらないじゃないかって思ってしまったことがある。勿論、書いてあることは当然に面白い。なるほど、こういう見方があるんだというようなどこか自身の思考に訴えかけてくるような作品であって、当然に読むことは難しいけれども読めないことは無かった。

しかし、ここ最近(と言って良いのか分からないが)は凄まじい。

本当なら引用したいところなんだけれども、どうやって引用したらいいのか正直僕には分からない。本当に『フィネガンズ・ウェイク』の詩版なのだ。言葉の意味というよりもその前段階、つまり漢字の意味から疑ってかかるような印象で、僕はいつも読むたびに「どうやったらこんな日本語が書けるんだよ」と感心して愉しくなってしまう。言葉遊び?と言っていいのか分からないが、漢字を「意味のある文字」ではなくただの「音」としか見ていない所が非常に面白いなとも思う。意味の解体を細かいレヴェルで行なってそれが積み重なっていく感じだ。

だから僕らが仮に書いている文章に「意味を持たせないようにする」といった場合には、まず考え得る手段としては漢字を極力使わないということもあるかもしれない。あるいは漢字をただの「音」として還元する事。そういった試みが必要なのではないかと思われる。つまりは、言葉を言葉に還元しない。もっとその次元を落として原初形態に戻るということ。言葉、ひいては文字は自然そのもののパッケージ化である。言葉の解体作業をするには、言葉としてではなく「音」として考えるのが有効なのではないか。そう思うようになった。

これは奇しくもかどうかは知らないが、吉増剛造は自身の詩の朗読をやっているという。過去に1度YouTubeでその光景を見たが鬼気迫るものがあったと同時に、耳で聞くと言っていることは分かるんだけれども、言葉でパッとそれを見ると全く分からないという変な現象が起きた訳だ。こういう「音」と「記号」という間にあるものが「意味を持たせない」ためには必要なのではないかと思う訳だ。


何だか結局これまた何を書いているか分からなくなってしまったのだが、こういうことも「意味を持たせない」ためには良いのではないかとさえ思う。着地地点が自分でも分からない。突飛な所に話が飛んでいく。これこそが重要かなとも思ってみたりする。という文章を書いてこれまた過去に引用したバルトの『文学の記号学』が思い出される。

すでに示唆しようとつとめてきたように、この授業は、自己の権力という宿命にとらえられた言説を対象とするのであるから、実際問題として授業の方法は、そうした権力の裏をかき、権力をはぐらかすか、あるいは少なくともそれを弱めるための手段に関係する以外ありえない。そして私は、書いたり教えたりしながら、次第に確信するようになったのだが、このはぐらかしの方法の基本的操作はといえば、書くときは断章化であり、語る時は脱線、または貴重な両義性をもつ語を用いて言うなら、遠足=余談(excursion)である。それゆえ私は、この授業において互いに編みあわされてゆく発言と聴き取りが、母親のまわりで遊ぶ子供の行き来に似たものとなることを望みたい。子供は、母親から遠ざかるかと思うと、つぎには母親のもとにもどって小石や布切れを差し出し、こうして平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描きだす。その輪の中では、結局のところ、小石や布切れそのものよりも、それが熱意のこもった贈物となる、ということのほうが重要なのである。

ロラン・バルト『文学の記号学』
(みすず書房 1981年)P.52,53

今日もいっぱい書いたな~。

さて、これから古本まつり3日目です。

よしなに。

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