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雑感記録(150)

【詩について覚書】


突然だが、最近僕は詩をよく読むようになった。それは簡単な話で、過去の記録でも書いたが単純に吉増剛造の作品を沢山購入したからであって、特別な話でも何でもない。昨日も本当は後藤明生の『夢かたり』が結構いいところで終えていたので、仕事から帰宅後続きを読もうと思っていたのだが、読まなかった。いや、厳密には「読めなかった」という方が正しい表現なのかもしれない。

いつも言っている、「最近の小説が読めなくなった!」という現象とはまた違う。これは単純な疲労からくるものである。ここ数日、中野重治についての文献をあたるために仕事帰りに大学図書館へ赴き、数多くの文献を読んでいたことが影響していると思われる。それにしても、大学図書館が22:00までやってくれるなんて、なんと幸せなことか。大学生にとっては当たり前すぎて分からないだろうが、社会に出てこの有難みを知ることになるだろう。本当に本が好きだったらの話だけれども…と嫌みのような注を加えておくことにする。

しかしだ、例え本が好きであってもずっと読み続けるということは難しいように思う。無論、そういうことを簡単にこなしてしまえる人も中には居るのだけれども、僕はその域の人間ではない。それに、本ばかり読んでいても外にもそれなりに世界はある訳なので、その世界つまり肌感を持って現れる世界に触れることも重要だと考えている。だから美術館や水族館とか映画とか、あらゆるジャンルのものに触れ続ける訳である。前にも書いたが、これは実は体裁良く言っているだけで、本当はただの「飽き性」である。

それで図書館で文献をあたり、数冊パラパラ捲ってはメモして…と繰り返しているうちに気が付けば21:40ぐらいになっている。愉しい読書であることには決して変わりないのだけれども、やはり疲労感は半端じゃない。そしてヘトヘトになりながら帰宅し、夜飯を食べるのが面倒くさくなって今度は好きな本を只管読み耽る(無論、夜飯以外のことは全て済ませあとは寝るのみ!という状態で読書している)。しかし、ここでも1つ大きな問題が発生する。

「文字が頭に入らない…」

仕事でも文字を追い、図書館でも文字を追い、そして自宅でも文字を追い…。そこまで僕の身体は丈夫に出来ていないので、楽な方向へと楽な方向へと自然と動いてしまうものである。ただ、それでも本は読みたいという何故か毎回ここだけは折れない。自分でもよく分からない現象ではある。冷静になって「いや、休んで次の日に読んだ方が絶対よくない?」とは思うのだけれども、僕は僕の読書欲には勝てないでいる。

それでいざ本を読もうと『夢かたり』を開くのだけれども、読むことが何だか作業みたいな様相を呈してきていて、作品の面白さを自ら半減させているような気がしてならない。これでは流石にいかんなと思い、読めそうなものを探すのだが正直なことを言うと僕の手元にある本でライトに読めるものなんてないのだ。手元にリカルドゥとデリダ、フロイトが転がっているし、本棚を見ても小林秀雄や柄谷行人、蓮實重彦、カント…そんなものばかりがお出迎え。ちょこっとサクサク読めるの買っとくかと思う。何か難しい本ばかり挙げてるけれども…「そういうの読めるよ」っていう自慢じゃないから!…(と書いてしまうことが既に自慢しているのである!言葉はいつだって難しい。豊饒な想像力が欲しい…)。

そうすると選択肢的には、話の内容とか云々ではなく、物理的に且つ総体的に文字数が少ない作品ぐらいしか読めないのである。これは画集か詩のどちらかになる(僕の場合は)。しかし、画集は単純に重い。そう、物理的に重い。わざわざ本棚から取り出して(いや、詩集もそこの労力は同じなんだけれどもね…)、自身の膝上に置いて眺める…。うーん、姿勢的に落ち着いて見られない気がする。じゃあ、コンパクトに読める本!詩集!以上!

手元についこの間購入した吉増剛造たちがある…。もうこれしかない!というわけで吉増剛造を読み始める。しかし、とはいえ吉増剛造をライトに読める訳もない。「……ん?…むむ?」ってなるのはもはや必然な訳で、意味が分からない。ただ、だからこそ感覚で読めて凄く良いのだ。普段、僕らは言葉で書かれているとそれを言葉の持つ意味とか文法とか、そういう制度の下で理解する。しかも無意識に。ラングとパロールの問題がここで出てくる訳だが、深く突っ込みすぎると難しくなるので、簡単にサッサと触れておこうと思ったが辞めた。めんどくさい。

いずれにせよ、何か文章を読む時というのは僕らが意図していなくても、当たり前のようにこの言葉がこの文脈においてはこういう意味でとか、この言葉は全体に対してこういう役割を持っていてこういう意味があるというのを認識してしまっている。個人的にはこれにはかなりの演算能力が必要だと思っていて、あまり意識しないだろうがそういうことがごく当たり前のように行われている。ところが、詩というものはこの演算機能から外れた形で存在している。つまり、頭でどうのこうの処理してというよりも読者の言語感覚によって愉しまれるものである。

今書いていて凄い変な比喩が思い浮かんだんだけれども書いちゃう。小説を「煙草」とするなら、詩は「葉巻」って感じ。

説明すると…って書いていて恥ずかしいんだが、まあいいや。煙草って肺に入れて喫煙するでしょ。最初はすごく肺に入れるの難しくて咽るんですよ。ただ、段々吸っていくうちに自然と肺に入れることが可能になっている。無意識に肺に入れることができる。ところが、葉巻は基本的に肺に入れる喫煙方法ではない。正確に言うならば「口腔喫煙」と言われる方法で吸う。つまりは肺に入れないで、純粋に煙を愉しむのである。実はこれが難しい。煙草に慣れていると無意識に肺に入れてしまうのである。そうすると何だか気持ち悪くなって、体調は最悪になる訳だ。ただ、肺に入れなければ気持ちがいい。……小説と詩はそんなようなもんだと書いてて思いました…はい…。

そんな訳で、ここ数日は吉増剛造の詩を味わい尽くしている。



ここ数日は吉増剛造『頭脳の塔』を読んでいる。先にも書いたがもはや感覚で読んでいるので、この内容がどうだとか、この言葉はこの詩に於いてこういう役割を果たしていて…云々など講釈を垂れる気は更々ない。そもそもそんな感じで今回は読んでいない。純粋に「うわ、言葉がかっけえ…」という感覚なのでむしろ語れることなどない。強いていうのであれば「この言葉に俺はなんかビビッと来たぜ…」ということだ。

でも、大概僕は詩を読むときなんかは正直、他の作品を読む時よりゆったりした心持で読むことができる。ごくごく稀にだけれども、しっかり読みたい詩というのもあって。吉増剛造もそのうちの1人な訳なんだけれども、他には吉岡実とか谷川俊太郎とか、それこそ中野重治、小熊秀雄あたりなんかは集中して読みたい。

まあ、ちょっとこれは吉岡実に対して熱が入っちゃったので自分でも一時の感情で書いてしまった感が否めないが、しかし思っていることや考えていることは平常時と変わらないなと自身で読み返してみて思う。ただ、読み返してみてやはりどうも中身のないことを言っているような気がしている。というか事実そうだ。よくよく読んでみるとやはりテマティック的な話もちょろちょろしているが、「吉岡実も感覚で読んでます!」とあれじゃ宣言しているようなもんだ。でも、詩ってそういうもんなんじゃないのかね?

詩の成り立ちを考えてみると、これ大前提として日本には明治時代あたりから始まってる訳で。外山正一の『新体詩抄』が一応原点的な扱いされている。僕からしたら森鷗外とか小金井喜美子とかが参加していた新声社が出した『於母影』とかの方が大きな影響だったんじゃないかって思うんだよな…。まあ、西洋詩をただ翻訳しただけの詩集だった訳だけれども…。実際にそれで島崎藤村は『若菜集』書いちゃうぐらいだからね。それなりに影響はあったんじゃない。

それで、そもそも日本に於いて詩は西洋から輸入してきましたとか簡単に言っちゃてるけれども、詩そのものの起源というかどんなものだったのかなとは思う訳だ。ちょっとここから専門的な話をしよう。

ニッポニカによると詩は大きく3種類に大別できるらしい。①叙情詩(lyric)、②叙事詩(epic)、③劇詩(dramatic poetry)。①は個人を主体にしていて極めて主観的で短い作品。②は物語の形態を取ったものが多く、客観的で極めて長い作品。③は韻文による劇。いや③なんて文字面そのままじゃないかって感じなんだけれども、ニッポニカによると大体がこんな説明らしい。

起源的には僕の推測だけれども、元々は叙事詩が多かったんじゃないかなと思う。元々は神様に捧げる歌みたいな意味合いだったんじゃないかなと勝手に僕は思っている。フレイザーだっけ?『金枝篇』とかもそうだし、それこそ『ギルガメシュ叙事詩』だってある訳で…。ある種の呪術的な要素を孕んでいたのではないかなと思う。これは詩に限らず、日本でも和歌という形態ではあるものの、そもそもが天皇(=神)に対して献上する歌が多かった訳なのだからそう考えると…って書いていて思ったが、叙情詩もじゃね?と段々思ってきた。

つまり、何が言いたいかってことなんだけれども…。これから凄く阿保らしいこと書くけど、別に詩って小説みたいな娯楽から始まった訳ではなくて、ある種必要とされて生まれた訳で小説より歴史は長い訳だ。ということは、僕らが「この詩の解釈は…云々」ってやっていることが凄く小さな世界で生きているみたいで、悲しくなってきてしまった。無論ね、自分なりに解釈して理解するのは十分大切なことではあるんだけれども、そこに落とし込んじゃったら言語の神聖さ?みたいなダイナミズムが失われる気がするんだけれども……気のせいかな。

とにかく、詩の起源とかっていうのは元々こういうのらしい。それで日本に『新体詩抄』で入ってきて、それが色々あって『若菜集』とかになっていく訳だけれども、実を言うと今僕らが読んでいるような詩の形になったのって萩原朔太郎かららしい。それまでは所謂「言文一致体」とかの運動で色々とあって、一時的に口語詩が衰退したんだけれどもそれを助けたのが萩原朔太郎なんだって!『月に吠える』(1917年)。萩原朔太郎って何が凄いのかぶっちゃけよく分かっていなかったけど、なるほどこういう背景もあったのかと感慨深くなる。感謝!朔太郎!

という訳で今の詩になってくる訳だが、これをさらに論じようとすると結構骨が折れそうだ。「詩的言語」なんていう言葉を持ってき始めたらいよいよ収拾がつかなくなってしまう。ただちょこっと触れてこの駄文の嵐を締めようではないか。


ところ変わって、場所はロシアになる訳だけれども、所謂「ロシア・アヴァンギャルド」なんていわれる運動があった訳。そこで詩も矢面に上がって「詩はこうあるべきじゃね?」とかなんとか言ってお偉いさんたちが理論を打ち立てようとしたっていうのが超絶簡単且つ超絶雑な概略となる。これを「ロシア・フォルマリズム」と呼ぶようになる。

「ロシア・フォルマリズム」と聞いてパッと出てくる人が居れば大したもんだと思う。僕はシクロフスキーとヤコブソンあたりしか出てこない。シクロフスキーは所謂、異化作用の人である。とだけ書いてしまうと何だか心もとないが、ここで詳しく説明するほどの気力が実は残っていないというのもまた事実である。だから本当にざっくり、めちゃくちゃ省いて説明する。

異化作用とは…
「当たり前の概念をぶっ壊して、新たな現実を現出させる」

凄く雑な説明、いや、もはや説明でも何でもないのだけれども…。ざっと言うとこんな感じである。詳しくはシクロフスキーの『散文の理論』という名著を読んでみてほしい。ぶっちゃけ、これだけ読めれば「ロシア・フォルマリズム」の7割ぐらいは理解できたも同然!(というのは些か言いすぎな感はある。いや、言い過ぎである。陳謝します。)

とんでもないことついでに、さらにとんでもないこと言っておけば、ぶっちゃけ「ロシア・フォルマリズム」のこの異化作用なんかは究極のリアリズムだと思うんですよ、僕はね!当たり前に使っている言葉の概念を破壊し、そこに新たな視点からの現実を現出させる。リアリズム以外の何物でもないような気がするのは果たして僕だけだろうか。だからリカルドゥが言ってることや、中平卓馬がそのリカルドゥを引用してまでリアリズムを語るように、原点は僕は「ロシア・フォルマリズム」にあると思っている。

そうそう、関係ないけれどプロップの時期もこのあたりなのかな?『昔話の形態学』を書いたね。あれも結構面白かったんだよな…。もう1回読み直そうかなって思ってるんだけど…腰が中々ね重くて…。


はてさて、そろそろ纏まりがつかなくなりそうなのでここらへんでやめておくことにする。今日はあまりにもテキトーに書いてしまった気がする。しかし、思っていることは書けた気がする。

そりゃそうか。場所が場所だし。少しは雑になるか。

よしなに。



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