見出し画像

檸檬読書日記 川端康成は谷崎潤一郎と三島由紀夫の顔をして、太宰治は志賀直哉に構って欲しい。 1月15日-1月22日

1月15日(月)

本屋に行って、先週買い忘れた『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』を購入。
ついでに、発売前から気になっていた、森田たま『石狩少女』を買う。パラッと少し拝見させてもらったら、結構良さそうだった。
あらすじから全体的に苦悩が多く辛そうだけれど、文学を愛した本読み少女の話らしいから、きっと良いに違いない。
後、表紙が素敵。

「鉄道無常」、正直単行本の表紙の方が好みで、少し残念感はあったけれど、見ていたらこれはこれで渋くて良いかもなんて思ったり。
それにしても、内田百閒に凄い見られてるな。じっ。



谷川俊太郎『朝のかたち 谷川俊太郎詩集Ⅱ』を読み終わる。

1の「空の青さをみつめていると」も良かったけれど、こちらも素敵だった。
「朝のかたち」の中では、個人的に「わらべうた」の項目がどれも軽やかで面白くて好き。
わらべうたながら、単純なだけではないのが谷川さんらしくて、それがまた良い。

例えば「ふつうのおとこ」という詩。


ふつうのおとこが いたってさ
ふつうのめはなに ふつうのてあし
ふつうのすぼんに ふつうのうわぎ

(略)

ふつうのおとこは ふつうのひもを
ふつうのおんなの ふつうのくびに
ふつうにまきつけ ふつうにしめた


普通に読んでいたら普通に怖くて、普通にえっ!?ってなった。これがわらべうたなんだもんなぁ。普通に凄い。
他にもわらべうたながら、えっ!?が多くてそれまた見所。

少し前に谷川さんの最近の詩を読んで、今回の昔の作品を集めたものを見て思ったけれど、今よりも昔の作品の方が固めだったんだなと思った。
読みづらいとか重いという訳ではないのだが、複雑というか、糸が絡み合って、一つ一つ目を凝らして噛み締めていくという感じ。
今の谷川さんの詩は、もっとストレートですんっと入っていく感じがする。個人的な感覚というか感想だけれど。

かといえ、どちらが良いとか駄目とかではなく、どちらも良い。
人の感覚というか感性って、その時その時で変わってくると思う。特に歳をとると、変化してくる。だからそういうことなのかな、と。

詩でなくても、小説や他の創作物でも、年代順に読んでいったり堪能するのも、そういう変化が分かって面白いのかもなと感じた。

「朝のかたち」を読んで、やはり谷川俊太郎の詩は良いなと思ったから、これからも少しずつ読んでいこうと決意。





1月16日(火)


自家製カボチャ。どっさり。
割と食べているのだけれどなかなか。それだけたくさん採れたのだなあ。有難い。
他に食べ方ないかなあ。



高原英理『川端康成異相短篇集』を読む。
「死体紹介人」を読み終わる。

とんでもないものを読んでしまった。

新八という男のもとに訪れた「私」は、彼からある話を聞かされる。
大学生だった頃、新八は勉強するための部屋を帽子修繕屋の一室に借りていた。そこは既に借りて住んでいる女がいて、いない間だけ間代を半分持つ条件で通っていた。
しかし新八は、1度もその女・ユキ子と顔を合わせることはなかった。
そんなある日、ユキ子は死んでしまう。その時、新八は初めてユキ子の顔を見た。とても綺麗な死顔を。
ユキ子には引き取り手がなく、家族に繋がる手がかりもない。そんな彼女の死体を、彼女が死ぬ前に新八の友人の医科大学の助手が、解剖学に役立たせるために寄付してくれないかと頼んできていた。そのために新八は、ユキ子と結婚し…。
少し経った頃、ユキ子の妹と名乗る女が新八のもとに現れる。
妹・千代子に姉・ユキ子の骨と称したものを渡し、務め口が決まり家を持った新八は、千代子を女中として雇うことになるのだが…。

あまり書くとネタバレになってしまうから、ざっと前半部分をまとめるとこんな感じ。だけどこれだけでも凄いとんでも感。
正直上手く書けなかっただけで、もっとある。

今まで読んだ川端康成作品の中で、飛び抜けて異質な感じがした。この作品だけ毛色が違うような…。 

何より、この作品だけ人の匂いがした。

いやでもそこまで近すぎず、見た目は完全に人なのだけれど、模倣された人もどきのような、少しズレた匂い。(自分は何を言っているのだろう…)

もしかしたら、今までの中で一番死に近かったからなのかもしれない。死に近づくほどに、人の匂いが増した気がした。
川端康成にとって死とは、生という現実に一番近いということだろうか。んー。

今までは、あえて避けているように人の体温をなくし、美しさを際立たているようだったが(個人的見解だけど)、この作品は艶めかしく、生々しさに美しさをのせたような感じがした。 

例えば


「ほおう、綺麗ですね。」と、新八は死顔に吸い寄せられるように顔を近づけた。胸の病で死んだ人に特有の透き通る臘(ろう)のような美しさ、それになんと子供じみた安らかさであろう。
(略)
「眼をあいていることが少しも無気味でない程美しく微笑んでいるような死顔だったんですよ。」と、新八は話しながら私に言った。
眼の色はまだ生きていた。新八の顔がその瞳に写っていた。しかし見つめられても動かないユキ子の眼の底から、冷たいものが新八の体を貫いた。
「もうたんまりと見たからいいわね。」と、婆さんはユキ子の上瞼を撫で下ろしてやりながら、
「死人ってほんとうに冷たいものですね。」
新八はしかたなしに、死人の顔に指をあててみた。初めはよく分からないが、暫くすると底知れぬ冷たさが伝わって来る。


(略)新八はユキ子を抱き上げてやった。冷たい異常な重さなのに、汗と熱の匂いがまだ、消毒剤の匂いの底からほのかに内縁の妻らしい親しさを漂わせた。階段の途中で硬いユキ子の腰ががっくり折れた。はっと腕をゆるめた新八は、落としそうな死体を今度は胸に抱きしめて、尻餅を突いていた。ユキ子はやっぱり死んでいた。新八は彼女の冷たい顔にそっと接吻した。 


いやぁ、ドキドキしてしまう。
死人の裸体を写真に撮って残しておくなど、どちらかというと、川端康成というよりも谷崎潤一郎の作品のように思えた。
ただ谷崎潤一郎だけでなく、どことなく三島由紀夫みも感じる。谷崎潤一郎の特殊な性の妖艶さと三島由紀夫の皮肉なユーモアさに、川端康成の冷たい美しさが加わった感じ。

いや、文章の間に入る言葉の選択が、あえての人臭さを演出する芥川龍之介のような感じもあったけれど…。
でも「うぶ毛」と「汗」くらいだから、やはり谷崎潤一郎と三島由紀夫かなあ。

二人の作品、どちらかといえば谷崎潤一郎作品が好きな人には、川端康成は苦手という人でも、もしかしたら読めるかもしれない。気に入る、かも。(とはいえ、谷崎潤一郎作品をきちんと読んでいない奴の意見だから、あまりあてにはならないけれど)

美しさ、以外にも、川端康成らしさはある。
最後の驚愕性だ。

川端康成の作品の題名は、いつもシンプルで、正直目立たない。最初は。けれど短く簡潔ながらも、見事に作品全体を表している。凝縮されていて、数文字の題名だけで、あらすじとして成り立ってすらいる気がする。
だからこそ、読み終わった後に余計に題名が輝く。強烈な存在感を持つ。

本の中では1番長い作品ではあるし、川端康成にしては異様さがある。(ただ自分が知らないだけで、こういうのたくさんあるのかもしれないが、この本だけで考えると異質。)まだ確立する前のグラグラ感のような、川端康成の潔癖な美しさが好みの人にはもしかしたら合わないかもしれないけれど、彼の1場面を見るのには最適な作品ではないかなあと思った。
ただ本当に、とんでもだけど。倫理観は皆無。

そういえば、しょうもないことだけれど、新八という名前から、読んでいて片隅にちらちらと『銀魂』の新八の顔が浮かんで困った。
本当に、どうでも良いことだけれど。




1月17日(水)

少し前に読んだ、岡根谷実里『世界の食卓から社会が見える』を母親に貸したら、面白かったという嬉しいお言葉をもらった。
普段全く本を読まない人なだけに、余計に嬉しい。食とかも書かれているから気に入るかなと思ったが、当たっていたようだ。良かった良かった。

本当にこの本、普段本を読まない人でも読みやすくおすすめな作品。食、歴史というか世界史好きな人には、必ず何かしらが刺さると思うのだけどなあ。



葉室麟『読書の森で寝転んで』を読む。本エッセイ。

本『豆腐屋の四季 ある青春の記録』松下竜一の話。


考えてみれば当たり前のことだ。仕事に勤しむ者は何かしらの憤りを胸に抱いている。それを爆発させるか抑えるかが、人生の岐路だという危ういところを生きているのではないか。平凡な人生などない。誰もが波乱万丈で喜びもあれば、悲しみも憤りとある人生を生きているのだ。


人生とはそういうものだよなあ。

けど、最近思う。人生って上手くできているなと。
苦しみもあれば喜びもあって、上手いバランスで成り立って人生は出来ている。同じ分量で巡る。
そして全ての出来事は、意味や原因があるから起きているのではないかと感じる。

その時は辛くて苦しくて、終わりがないんじゃないかと思えて、絶望さえ感じるけれど、一生続くわけではない。結局終わりはあるもので。
そしてそれらの苦しかったことは、日が経つと意味を持ったりする。それがあったからこそ、今難なく乗り越えられたり、糧になっていたり。

自分も色々あったからこそ、今は何とかやっていけていたり、今が幸せだと思えている。
だから本当は、不条理や不合理というものは小説の中だけのものであって、実際はないのかもしれないなあと思うようになってきた。
振り返ると、悪い事は大概自分が招いた、自分がやったから返ってきたことだったりするし、何で自分だけと毎日元気な人を羨んで不条理だと恨んだけれど、今はそれらがあったからこそ気づけたことや成長したことも多い。今冷静に生きてられる気がする。
だから不条理だと思える事柄には、何かしらの意味や原因があって起きているのではなかろうかと。

最近本当に感じる。自分のことだけでなくても、他の人を見ていても、小説でいう伏線回収のように、繋がった瞬間を感じることが多くある。そのためのあれだったのかと。本当に、上手く巡っているなあと。

とはいえ、渦中の時は、意味が無いとか理不尽とか不条理と感じて、そんなことなかなか思えないかもしれないけれど…。自分も受け入れられなかった。
それに世の中にはあまりにも理不尽に思えることが多すぎる。

それでも終わりはあるし、無駄はないし、繋がる時も気づける時もくる気がする。
実感がいつまでもなくても、そう思った方が少しは気持ちが軽くなるし、人生が明るいものになるんじゃないかなあ、なんて思ったり。

それにしても『豆腐屋の四季』気になるなあ。




1月18日(木)

古本屋へ!
なんと危険な場所なのだろうか…ありすぎた。

ででーん!


何よりもずっと探していた、井上ひさし『自家製 文章読本』を発見して、かなり沸いた。舞い上がっている。もう嬉しすぎる。
井上ひさし作品、他にもたくさんあってついつい買ってしまった。こんなに出会ったのは初めてだ。一気に売った人がいるのかな。

他にも長年探していた『海の仙人』と『草の花』を買えたのは、かなりの僥倖。
その上、noteの記事を読んで読みたいと思っていた、岡本かの子『老妓抄』があった驚き。岡本かの子の本は1度も見たことがなかったのに、読みたいと思ったら見つかる奇跡よ。この本1冊のみで、その上丁度読みたいと思った作品が…!

幸田文『きもの』は、探しているものではなかったけれど、最近幸田露伴のことを書いて見つけたから、何か運命を感じ購入。

田山花袋は、今まで1度も読んだことはなかったけど、折角見つけたから購入。

大江健三郎は、本当は『同時代ゲーム』を探していたけれど、こちらも気になっていたから購入。

国木田独歩は、探してはなかったけれど、たまたま「日記」が目について、日記好きとしては買うしかないと購入。(どういう理屈?)

アンネ・フランクのやつは、探してはなかったけれど、最近彼女の童話を読んで知りたくなったから購入。

須賀敦子さんのは、なんか良さそうだから購入。この本知らなかったけれど、他にも「ローマ」と「ミラノ」があるらしい。集めたいなあ。

後は、載せてはいないけれど、漫画『シュトヘル』の13巻と14巻を買った。後1冊、12巻が見つかれば全巻揃って読める。早く見つけたいなあ。

いやぁ、それにしても本当にありすぎた買いすぎた。でも『須賀敦子のヴェネツィア』以外は110円だから、お財布には優しかった。(それでも、ヴェネツィアも220円)
ただ、また積読本が倍増。かなりマズイ。
しばらく本屋は禁止だな。

後で気づいたけれど、井上ひさし『自家製 文章読本』に書き込みがあった。だから安かったのか…。綺麗なのに110円なんてとは思ったけれど…。やはり綺麗でこの値段はないよなあ。くぅ、残念。
書き込みというか線だけだけれど、読んだ人の思考が押し寄せるからなあ…。
まあでも読めるから良いか。



別冊『暮しの手帖』を読む。

創刊75周年を記念して出版されたもの。
75年の歴史、今まで出してきた『暮らしの手帖』を見てきた読者が振り返ったり、初期の頃の特集やレシピなどなど、見所満載の1冊だった。

まだまだ初心者な、読み始めたての自分としては、こんなことをやっていたのか、載せていたのか、特集して書かれたりしたのかと、見れたのは興味深かった。何よりも、何故この雑誌が作られたのか、その理由を知れたのも良かった。

特に初期の頃の特集はどれも貴重で、考えられている。昔から「暮らし」に寄り添い、日々を豊かにするために、向き合い続けてきたのだなというのが分かるのがまた良い。

今でも、やってみたいと思えるのが結構あって、昔の『暮しの手帖』を集めて読みたいとさえ思えた。読むことで、当時を知ることも出来そう。

そして、これを読むまで知らなかったが、『暮しの手帖』には一切広告がないのだとか。読むまで気づかなかったが、確かに1つもない。でもだからこそ、余計なごちゃごちゃが目に入らず読みやすかったのかと分かった。

広告を何故入れないのかというと


「(略)広告をのせることで、スポンサーの圧力がかかる、それは絶対に困るからである。
暮しの手帖は、暮しの手帖なりに、一つの主張があり一つの志がある。それがほかの力でゆがめられるとしたら、もっての外である」


広告を入れると、忖度が生まれ、自由に出来なくなったりする。けれどやはり広告料がないと雑誌というのは厳しいもので…。それでも貫いて、今まで読者にのみ支えられてここまでやってきたのは、本当に凄いなと思った。
改めて、買って読んで支えていきたいと思った。
改めて、この雑誌の信念の素晴らしさに虜になった。

それにしても、全然読めずに溜まってきている。まずいぞ。まだ26と27がある上に、今月はもう28が出てしまう。
ゆっくりじっくり読んでいきたいというのもあって、ゆったりペースで読んできたけれど、もう少し上げていこう。




正直「Twitter」でも「X」でもどちらでも良いのだけれど、「X」が未だに慣れぬ。
特に文章の中に「X」があると、一瞬「ん?」てなる。容疑者Xですか?と。自分だけかな。ミステリーの読みすぎかな。




1月19日(金)

父親が用事があって1週間実家に帰ることになったらしい。でも父親は凄く憂鬱そう。
行くとなったら、田舎の情報網は凄い、色んな人から連絡が来て、それなら会いたいと言われ、スケジュールを組むのが大変なのだとか。へー。

今住んでなくとも、1日一緒に飲むためにわざわざ帰ってくる人もいれば、わざわざ足になるために1週間会社を休みにした人までいて、幼稚園が一緒だった人からも、誰に会いたいかという話で父親が真っ先に上がったのだとか。
父親のあまりものモテモテ具合に驚いている。
昔から人に好かれる質ではあったけれど、それほどだったとは…。子としては嬉しい限りだが。親がたくさんの人に愛されているというのは。ただ本人はあまり気づいていないのが残念だけれど。
上手くいかないものだよなあ。

そういえば、父親は憂鬱そうだけれど、母親は反対に凄くご機嫌。何故なら1週間父親がいないから。

「いっそ1ヶ月くらい行っちゃえばいいのに」

とまで言っていて、かなり笑った。



安東みきえ・文、牧野千穂・絵『へそまがりの魔女』を読む。絵本。

暗い森の中に住む、呪うことしかゆるされない魔女のもとに、ひとりの娘がやってきた。行き場のない娘は、魔女のもとで働くことに。
けれど魔女は、娘に対して優しい言葉もかけることはなかった。それでも娘は平気で、魔女もとに居続けた。
けれどあるきっかけから、魔女と娘の関係は変わり始める。
そんな時、魔女は得意の呪いを作る。生まれた王子に呪いをかけるために。
そして…。

読み終わった後、そういうことかと晴れやかな、温かな気持ちになる本だった。
とてもよく出来ている。絵も内容も、ダークな感じはありつつも、優しさと愛情に溢れていた。


「おいしいからって、ぜんぶとろうとしちゃいけないよ。欲をかいたらいけないんだよ」
そっと娘の手をとります。
「いいかい。良いことの裏には悪いこともくっついてくる。ふたつはうらおもてにできているんだ。
良いことばかりを手にするわけにはいかないんだよ」


深い。
本当にそうだよなあ。必要な分だけ。でなくては、欲をかいて手に入れた分だけ損をする。失ってしまう。

絵がモノクロと、1色赤だけというのもまたお洒落で、海外絵本のような暗めな感じも、個人的にとても好みだった。
どこもかしこも素敵すぎた。

子どもというよりも大人に向いている、飾るにも贈るにも良さそうな作品だなと思った。





1月20日(土)


カボチャグラタン!
これは良いな。丸ごと1個の消化。



葉室麟『読書の森で寝転んで』を読む。

「樋口一葉は、かなり近眼だったらしい。」

そうなのか。

「たしかに写真で見ると近眼のひとによくある美しい目をしている。」

ほう。
個人的には、目の良い人も綺麗だと思うけれど、確かに近眼の人は深い森みたいで美しい。

「話している相手の顔もよく見定められないほどだったという。」

へー、そんなに。

「それだけにじっと見つめられた男性は、何か誤解をしてぼうっとなったかもしれない。」

きっとそうだろうなあ。罪深いですね。




1月21日(日)

悪夢を見た。
せっかく今日は寝れる日なのに、早く目が覚めてしまった。見た夢が酷い内容すぎて、頭の中でグルグル回ってなかなか寝れない。最悪だ。このまま寝れなかったらどうしよう、早すぎるけど起きるか?でもせっかく寝れる日なのに。あーーーーーーーーーーーーと思っていたらいつの間にか寝ていた。ぐっすり。目覚めすっきり。結果オーライ。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「太宰治」編を読み終わる。

言わずと知れた。誰もが名を知っているだろうお方。

あの死に方ゆえに、追悼としては難しかった模様。まあそうだよなあ。当然のようにあまり良くも言われない。

ただそうであったのには死に方だけでやく、他にも理由があったようだ。
問題は『如是我聞』という本(?)。
この中には、志賀直哉を否定する文というか、最早悪口がつらつらと書かれているらしい。
いやー、もう本当にケチョンケチョンなのだ。
『暗夜行路』に関してなど

「この作品の何処に暗夜があるのか」

とまで書いている。ここまでくると、批判というよりかは、やっかみというかイチャモンだろう。
ただ個人的には、なんか面白いなと思ったけど。結構笑った。子どもが必死になって親に反抗しているように思えて。

対して志賀直哉はといえばいたって冷静で、「あっ、そうなんですか」といった感じ。太宰治は頑張って絡んだのに、あまりにも相手にされてなくて、少し可哀想にさえ思えてくる。
総じて面白いなと思ったし、二人への興味が上がった。

俄然『如是我聞』が読みたくなってしまった。
だから調べてみた。

『人間失格 グッド・バイ 他一遍』岩波文庫

が、まあ無難な感じ。後は、ちくま文庫の『太宰治全集』か。でも、ちくまは全10巻。んー。
かといえ、岩波の方も『人間失格』は単品で持っているからなあ。んー。

保留!




今週は、もう1つ記事を投稿する、かも。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に、1秒でも1分でも幸せだと感じられる時が訪れますよう、願っております。
ではでは。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?