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檸檬読書日記 韓国の本屋と、この世は危なく、萩原朔太郎には追悼を。 12月4日-12月10日

12月4日(月)

ファン・ボルム『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』を読み始める。

追い詰められ会社を辞めたヨンジュは、小さい頃に憧れた本屋を開くことに。
期限があると思っていた書店だったが、次第に悩みを抱え疲れた人達が休息や心の落ち着きを求めるように集まってきて。


閉店時間までヨンジュは小説を読む。小説は、自分だけの感情から抜け出して他人の感情に寄り添えるとろこが良い。登場人物が嘆き悲しめばともに嘆き悲しみ、苦しんでいればともに苦しみ、奮い立てばヨンジュも一緒に奮い立つ。他人の感情をたっぷり受け止めたあと本を閉じれば、この世のすべての人を理解できそうな気分になる。


普段では感じることが難しい他人に感情も、学べる・知ることが出来るのは、本の利点な気がする。
当たり前だけれど忘れがちな、他人にも感情があるということを、本では気づかせてくれる。何よりも自分と同じ感情を持つ人がいるのだという安堵感と、自分とは違う感情があるのだという学びがあるからこそ、人は本を読むのかもしれないなあ。と、思ったり。
まあ娯楽だったりと、本は読む理由はそれだけでなく多種多彩だと思うけれど。



最近、noteで昔の記事を振り返るみたいな投稿をよく見かけるけれど、密かにあれ凄くいいなと思っている。
なかなか昔の記事を見に行けないから、まとめられたものを見られるのは凄く助かるというか嬉しい。
特にその人が気に入っているものだとかを知れたり、その記事に対しての感想が見れるのは凄く面白いなと思ったり。
だから凄くいいなという話で…もごもご。




12月5日(火)

モネ展をやっているらしい。見たい。とか言って、また行かずに終わりそう。
騒動前は無料のチケットが貰えていたからよく美術館とか行っていたけれど、今はめっきりだな。
美術館とか博物館とか好きだから行きたい欲はあるのだけれど…。

いっそ、チケット買ってしまおうかな。買ってしまったら、強制的に行かなくてはいけなくなるから、いいかもしれない。



ファン・ボルム『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』を読み終わる。

小説、だけれど、どこか哲学的な話だった。
働くことや人生について、凄く考えさせられた。
人生には、これが正解というものはないのだと思う。
働いてお金を稼いでいるから正解、働かない・もしくは定職についていない人は駄目、ということではなく、自分にとっては何が大切なのか、それが生きてく上で大事なのだろうなと、改めて思った。

文化の違いから多少の差異はあれど、きっと韓国も日本も、何処の国も関係なく問題は同じなんだろうなと感じた。
色々な据、お金や視線やプライド、それらによる息苦しさ。生きていく上では、完全に捨てることは難しいのだと思う。けれど、時には肩の力を抜いて、一息つく、自分を大切にしてみてもいいんじゃないかなと思えた。

書店や本について書かれているから、その面でも楽しめるが、全体的に心温まる、生き方について改めて考えさせられる、とても素敵な本だった。



モネ展のチケット、調べたけれどよく分からなくてハテナが飛び交っている。
前売り券ってこんなに複雑だったかなあ。
後、今って2800円もするのか。値上がりしましたか?それともモネだからなのかな。
どうしようかな。

とりあえず、行くにもお金かかるから、お金貯めよ。




12月6日(水)

祖父の家の冷蔵庫が壊れたらしい。
でも、20年以上も使っているから、寿命も寿命だし、それだけ使えれば御の字だろう。
今こんなに持つ家電はないだろうな。
祖父の家にある家電は、テレビ以外は昔のだから、殆ど20年以上持っている。凄い。

今の家電は10年しか持たないらしい。というか、10年しか持たないように作られている。
化学は進歩して、機能は盛りだくさんになったのに、その点は後退した模様。
人や環境のために考えるなら、寿命を重視するだろうけれど、それだと儲からないからだろうなあ。
エコだとかSDGsとか節約とかは、どこへ行ったのだろう。ゴミとお金が積まれてく。
優しくないなあ。



柿内正午『プルーストを読む生活』を読み終わる。

長かった。
最初、11月19日から日記が始まるのだが、同じように去年の11月19日から読み始めて、同じ日付を辿り、毎日読んでいった。だからか、なんだか考え深い。毎日共にあったから、達成感と共に寂しさがある。

読書傾向としては、自分とはまるで違い、難しさも感じることもあったけれど、知らない分野を堪能出来るのは楽しかった。
『プルースト』も、読んだことはないけれど一緒に読み進めているような、読んだ気になる。でも実際は読んでいない訳だから、いつか読みたいなあ。

そして何より、時たま出る奥さんとのやり取りや出来事が微笑ましく、読書以外の日常も良かった。
本好きの日記って、やっぱり良いよなぁ、と改めて思った。本愛に溢れているから。
本に向ける愛情を感じるだけで、嬉しくなる。
長かったけれど、楽しい読書体験だった。


あぁ、明日から何を毎日読んでいこう。
日記だったら『アンネの日記』か、はたまた、日記ではないけれど、相当長い、何故買ったのか不明な『ブレヒト全書簡』か。んー。

見たら『アンネの日記』は、6月が始まりだったから、アンネは同じ6月に読み始めるとして、とりあえず『ブレヒト全書簡』を毎日3つ(手紙でいうと3枚?)ずつ読んでいこうかな。



岡本かの子『或る秋の紫式部』を読む。

タイトル通り、紫式部のある日の話。短く、小説というよりかは戯曲。
だからか、はたまた実際の人物が主人公だからか、あっさりとした雰囲気。
『追悼の達人』で強烈なイメージを抱き、文章もまた濃厚さが滲むのかと思っていた。けれど読んでみて衝撃。淡々というか、何処か達観した、どちらかというと岡本一平が言っていた「お嬢さん」のよう。いや、それでは若すぎるか。「お姉様」かな。まあそれはどっちでもいいか。

内容は、紫式部と老侍女の元に、謎の美男子が現れる。美男子は老侍女に、紫式部に対しての文を渡すが…。

最初だけなら、何やら夢見る乙女のような、願望が描かれるのかなと、そわそわした。
けれどもそんな風もなく、どちらかというと夢見るどころか、現実的で冷静。
もしかしたら、紫式部という実際の人物だからなのかもしれない。そしてもしかしたらこの話は、「岡本かの子」が書いたと思うのを抜きにした方が、面白く読める気がする。紫式部のある1場面と捉えた方が、断然に面白い。

ただ、全くらしさがないかといえばそうでもなく、文に囚われ内なるものを文にせずにはいられないという面でいえば、通ずるものもあるのかもしれないなとも思った。




12月7日(木)

イタリアンパセリが凄い採れる。もはや野生化して、もりもりで1つ1つがドデカ。
そして使い道が迷子。

どうしようかなと考えた末、パリパリにすることにした。生ではなかなか使わぬ。使えぬ。
重ならないように置いたイタリアンパセリを、レンジに数秒チンして、1日か半日干す。


そうするとパリッパリになるから、それを手でもんで細かくする。


携帯くらいのサイズの瓶1杯分の乾燥パセリが出来た。
これなら日持ちするし、パスタとかグラタンとかラザニアとかトマト系の料理にパラパラかけて使える。便利で簡単。



ベルトルト・ブレヒト『ブレヒト全書簡』を読み始める。

そもそも、ブレヒトとは一体何なんだろうか。それすらも分かっていなかった。
少し調べたら、ドイツの劇作家であり詩人らしい。なるほど。
手紙、1~3を読んだが、確かに詩人らしい。言葉遊びとか。
最初の手紙も、詩のような文体で始まっている。


ぼくらが今朝、のどかに
戸外を眺めたら、
吐いたんです、雲が
たっぷりも雨を。こりゃユカイでしょ!
テモのんびりと、いつまでも。
かくて、いま、一日じゅう雨降りです
こやみなく。
退屈極まって
何をしたらいいかわからない!
雨は降る降る、どうしようもまるでなく、
品位をもってがまんするしかありません。
もしあなたたちのほうも雨ならば
笑っちゃうんですけどね。


なかなか、良さそう。
だから買ったんだろうけど、好みだな。
少しずつ読むのが楽しみだ。



高原英理『川端康成異相短篇集』を読む。
「地獄」を読み終わる。


私は七年前に死んでいるが、生き残っている友人の西寺とときどき短い話をする。


とんでもない出だしから始まるこの話は、幽霊である村野と生きている西寺が、村野より前に亡くなった彼の妹・辻子について話をする。彼女が亡くなった理由について。

これは愛なのだろうか、愛というにはそれぞれが捻れていて、愛に狂わされている。
凄いものを読んでしまったとは思うのに、その凄さを表現するのが難しい。
死と生が曖昧で、どちらが本当に生きているのか死んでいるのか、分からなくなる。死んでるはずの辻子は、西寺の中で生者のように生き続け、西寺の妻・巻子は死に取り憑かれ、死者のように彷徨っている。

いつまでも、『地獄』の中の文を借りるならば「骨にこびりついてしまった」ような作品だった。
そして最後の文も、何かがありそうな余韻が伺えて、想像が止まらなくなる。もしかして真相は、と…。

川端康成の作品はいつもそうだ。とらえて離れなくなる。
「愛」「地獄」「生」「死」がふんだんに含まれているにも拘わらず、相変わらずの生々しさが排除された、淡々とした文章もまた良い、個人的に凄く好みな作品だった。




12月8日(金)

どんなに美化しても、駄目なものは駄目ですよ。



アンリ・カルティエ=ブレッソン『スクラップブック 1932-1946 アンリ・カルティエ=ブレッソン写真帖』を見る。

先週アンリカルティエの伝記のようなものを読み、写真をもう少し見てみたいなと思って図書館から借りてきた。
届いてびっくり。大きい…。想像よりも分厚くてデカくて、一瞬やっぱり止めますと言いたくなるほどだった。
正直「や…」まで出かけた。けれど寸前で思いとどまる。折角引っ張り出してもらったのに申し訳ないから、ずしりと重みを感じながら持ち帰った。

中は分厚いだけあって、写真が豊富で見応え抜群。堪能出来ただけでも、頑張って持って帰ってきたかいはあった、気がする。

この本で彼の作品をたくさん見れて思ったけれど、アンリカルティエは人を撮る天才だったのだなと思った。一瞬を見事にとらえている。
そして写真というのは、人を撮るのが1番難しいものだと思う。(個人的感覚として)
だからこその名声であり、惹き付けられるのだろうなと感じた。

ついでに『アンリ・カルティエ=ブレッソン(ポケットフォト)』も借りて見てみた。こちらは写真帖と違いコンパクトで、内容もコンパクト。
でも個人的には、アンリカルティエの好きな写真が詰まっていて、尚且つ1枚1枚が大きく見やすいから、持っておくにはこれが1番いいかなと思った。
これは手元に置いておきたいな。探してみよう。




12月9日(土)

糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』を読む。


なんだか、たくさんの人の、とても多くの時間が、
「正解」を探すことに費やされているように
思えてなりません。
いや、遠慮なく言えば、
「正解」探しばかりで人生終わっちゃう人ばかりじゃない?

(略)
新聞で、こういうことが問題になっている
……どういう意見を持つことが正解だろうか?
(略)
どう生きたいのか問われてしまった
……どう生きたいのが正解だろうか?

こんなことばっかりのような気がするんです。
「正解」じゃないことを選ぶと、損?悪?迷惑?
「正解」病ってのが、いまの時代病のような気がする。


結局「正解」って、何なんだろう。
「正解」ほど、曖昧なものはない気がする。その時は「正解」でも、時が経てば「不正解」になることもあるし、「不正解」や「失敗」だったものが、時が経てば「正解」になることもある。
あの人が「正解」だったから「正解」。
あれは「正解」だと言うから、きっと「正解」だ。
「正解」「正解」「正解」
では「正解」と断定されていないものは?

「正解」ばかり考えていたら、何も出来なくなりそう。本当の正解なんてものはきっと何処にもなくて、あるとすればその人次第でいくらでも「正解」になっていくのではないかなあ。なんて、思ったり。



江原啓之『この世が危ない!』を読む。

この混沌とした世の中、その先を生き抜くために大切なこと大事なことが全て書かれていた。
この方について、単なる占い師と思う人も多いけれど、実際はもっと地に足ついたリアリストで、現実的で、一切甘くない。
だから、都合が良い言葉を求めている人には受け入れ難く、直視したくない内容になっているかもしれない。
けれど、もう現実に目を向けなくてはいけない時期に来ていると思う。だからこそ、読んでほしい。

ただ、読んでどう感じるか、受け入れず一蹴して笑い飛ばしてしまうかは、その人の自由だと思う。でもまずは、目を通してほしいなあ。
自分のために、大切な人のために、自分や大切な人の未来を明るいものにするために。健康や生活を守るために。
1人1人が考えて、少しでも改めて変えていけば、そんなに悪いものにはならないんじゃないかなあ。
だから、まだ戻れるうちに。





12月10日(日)

黒澤明『羅生門』(映画)を観る。

2回目である。1回目↓

こんなに早く2回目を観るとは、思ってもみなかった。
先日、この映画について熱く熱く語ったら、何故か「ずるい」と言われてしまい、観ることになった。
確かに、同じ黒澤明監督の『まあだだよ』も一緒に観たけれど、これは流石に興味がないだろうなと思ってしまったが、違ったらしい。

それにしても、2回目でも惹き込まれる。
自分は1回観ているから、なんとなく流し見でもいいかなと軽い気持ちでいたけれど、始まってしまったら釘付けになって、結構がっつり観てしまった。内容は完全に把握しているのに、終始ソワソワした。

そして何度観ても、やはり映像と演技が素晴らしい。
そしてやはり、思った通りに音がポイントだった。1回目は映像と内容で手一杯だったから確信はなかったけれど、作り話と思われるシーンでは、自然の音はなく音楽だけが流れていた。
やはりあえてだったのだろうか。凄い。

それと終わりのシーン、下人と杣売りの帰る方面が違った気がするが、あれは芥川龍之介『羅生門』と同じ意味合いなのだろうか。どちらに行くかの分かれ道。

もう1つ、1回目では流してしまったけれど、下人の言葉。

「人間は都合のいいことしか信じない。その方が楽だからな」

が、ずしりときた。(セリフについて、多少の誤差はあるかもしれない。けれど、こんなようなことを言っていた)
江原啓之『この世が危ない!』を読んだ後だったから、余計に考えされられるものがあった。
このセリフ以外にも、結構下人の言う言葉は、ずしりと来るものがある。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「萩原朔太郎」編を読み終わる。

自分の中でわりと登場している詩人。才能ある者は、同時に問題も多い気がするが、萩原朔太郎もその1人。


年々、詩壇だの評価は高まっていたが、詩作で生活できるわけもなく、生涯貧乏であった。生活費は医院である実家に頼り、新宿のバーに出かけては酒を痛飲し、詩で認められていなければ生活無能者である。論敵も多かった。


とはいえ、敵も多ければ彼を認めている友人も同時に多い。


朔太郎のもとへ芥川龍之介が訪問したことがあった。朝早く、芥川は萩原家の家人の案内も待たず二階の書斎へかけのぼってきて、挨拶もせず、朔太郎の『郷土望景詩』に悲痛の感動がわきおこり、顔も洗わずに寝巻きで飛んできたと言った。芥川はそれほどに朔太郎を崇拝してい。


寝巻きでとは芥川さん…それほど抑えられなかったんだね。可愛いな。

追悼の中では、やはり群を抜いているのは、室生犀星。長いから載せないけれど、良い。
本当は室生犀星が作成した追悼文集「四季」の朔太郎追悼号をずっと探しているのだけれど、見つからず。でもこの本で垣間見れたのは嬉しかった。

芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄、三好達治、立原道造。
個人的に彼のこの周辺というか、人間関係が好き。彼の作品とかよりも、実はこっちの方が好きだったり。(え)
特に萩原朔太郎と室生犀星のエピソードと、関係はとても良い。正反対で、出会った時はイメージと違ってガッカリしたが、結局お互い認め合って仲良くなっているのがまた良い。

2人を知る北原白秋は、2人のことをこう評していた。


「犀星は健康、朔太郎は繊弱。犀星は土、朔太郎は硝子。犀星はロウソク、朔太郎は電球。(略)犀星はたくましい野蛮人、朔太郎はヒステリーの文明人、犀星は男性の剛気を持ち、朔太郎は女性の柔軟を持つ」


的確だ。
でも室生犀星は、自分の方が女性だととらえているのだとか。へー。

そういえば、ハマった時に色々本を買ったけれど、まだどれも読めていないなあ。そろそろ読もうかな。

萩原朔太郎が登場すると、どうもつらつらと書いてしまう。作品、ほとんど覚えていないのに。どちらかというと、娘の萩原葉子の作品の方が印象的だったからなあ。これ前にも書いたかな。

あった。
萩原葉子の作品、本当に凄いんだよな。読んでいる人いないかなあと探すけれど、なかなかいないもので。凄いのに。(2回言った。ただ色々な意味で、全くおすすめは出来ないけれど)
そして未だに3部作の2巻3巻が見つけられない。んー。




「また長くなっているが、何か言うことはないか」
と、鬼のような天使にチクリと言われた。面目ない。

基本的に自分の記事を読み返すことはないけれど、探すために見たら前も今も全く文章力が上達してなくて衝撃だった。
そして、前も今も長いことを反省してるが、直っていない驚きよ。
そしてそして、読みたいと書いているのを未だに1つも読めてなくて、詐欺が酷すぎて唖然としている。

本当、駄目な奴ですね。
またこうやって長くして。
ここまで読んで頂き、本当に感謝しかありません。ありがとうございます。
皆様の未来が明るいものになりますよう、祈っております。
ではでは。

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