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檸檬読書日記 「お葬式」の日記、文豪の印影、生命の詩集。 2月26日-3月3日

2月26日(月)

『覚和歌子詩集』を読む。


死について考えていると
土のことを考える
還るべきその土について

(略)

梢がまぶたにそよぐとき
落葉がくるくる回るとき
わたしのなかに
風が生まれ

記憶の奥から吹く海風に
十五のわたしが
よみがえる

十五のわたしは想像していた
三十年後の
五十年後の自分
いまわの際の自分を

そのころは
何かをあきらめているかしら
悔やむ昨日があるかしら
誰かを恨んでいるかしら
そのどれもないという一生を
どうしたら過ごせるものかしら

十五のあのときからずっと今も この先も

死について考えていたら
いつのまにか 考えていた
生きることを

「ひとめぐり」


死ぬことも生きることも、結局は一緒なのかもしれないなあ。





2月27日(火)

洗濯が 拒絶するよう 冷たくて 軍手対策 するりと落ちる

濡れた洗濯物が冷たすぎるから、対策として軍手をして干しているのだけれど、やりづらくてたまに落としてしまう。どこまでも拒絶してきます。そんなに干されたくないのか。もしや反抗期?



伊丹十三『「お葬式」日記』を読む。

映画『お葬式』のシナリオ台本と、撮影の期間に書かれた日記、そして監督・伊丹十三へのインタビュー、3つで構成された本。

自分はこの映画『お葬式』を観ていない。だけど日記の部分に惹かれたのか、何故か気になって、読んでみた。

『お葬式』自体の内容は、一言でいうなら、素朴。昔の映画だなあという感じだけど、個人的には好きな部類。
1人の男が亡くなったことで(不自然でなくおそらく寿命)、家族親族が集まり、戸惑いながらも葬式をする、というもの。本当にただそれだけの話。でも、どこか惹かれるものがあった。

「お葬式」というと、暗くて影を生んでしまいそうだが、この映画にはその要素がなかった。寧ろいい意味で重さを感じない。それがまた凄いところ。
いなくなってしまったという悲しみはありながらも、明るく、ユーモアがあり、とてもバランスがとれ作品だなと思った。だからか最後は、スッキリとした読了感。(いや少しは、あれはどうなったのだと気になるところもなくはないけれど…でも、枝豆がスポンと抜けたような気持ちよさ?(余計分からないな…。上手い言葉が思いつかないけど、そういう後味の良い感じ)がある)

総じて、昔ながらの良さが詰まった作品だなと思った。その素朴さが、自分は良いなあと感じたのかもしれない。

ただこれも昔ながらなのか、お色気シーンもあったのは少し驚いた。お葬式をテーマにそれを持ってくる凄さよ。

日記の方には、写真がふんだんに載っていたりと、このシーンはこういう感じだったのかと知れるのもまた良い。これで観れなくともわりと満足出来た。

日記の部分で気になったのは、映画のあるシーンでは「レベッカ」のダンバース夫人が背後から忍び寄るのを引用した、とあったり。
寺山修司の「ロープ」を引用したとあったりして、その場面凄く観たいなあと思わされた。(ちなみに、これは友人であった寺山修司への個人的追悼なのだとか。より観てみたい)

もう1つ、日本では葬式から帰った後、玄関前で塩をまいてもらう風習がある。ただ外国で上映した場合、何をまいているか分からない。だから塩と分かるようアップにして撮ったりしたのだとか。撮ってる最中からも、外国に出た時のことまで考えているのが凄いなあと関心してしまった。そういう細やかなところが、昔映画の凄いところでもある。だから昔映画は良いのかもしれないなあと思ったり。(勿論、今の映画にも素晴らしい作品はたくさんあるけれど)

本を読んで、とても観たくなってしまった。本だけでも充分満足感はあったけれど、でもやはり実際に観たいなあ。でも図書館に置いていないのが残念なところ。いつか見つけて観てみたいなあ。





金柑をもらった。凄く大きくて驚いている。最早蜜柑。大きいものは、ピンポン玉よりも大きいかも。こんなの初めて見た。凄い。


通常の金柑と比較(といっても煮てしまったものだから分かりづらいけど)すると余計に驚くデカさ。
中は結構酸っぱいけど、皮は凄い甘い。だから最初は酸っぱさが来るけど最後甘いから、総じて凄く甘い。

金柑は、よく風邪によい(咳とか)言われているけれど、冷え性予防にも良いのだとか。たくさん食べよ。





2月28日(水)

西川清史『文豪の印影』を読む。

昔の本には、奥付に一つ一つハンコが押されている。
何故かといえば


出版社が著者に支払う印税に正確を期すためである。出版社は著者に対して、千部印刷して売り出せば千部分の(略)印税(定価の一割前後)を支払わねばならない。その売り出し部数に正確を期すために検印制度が導入されたわけである。


そうだったのか。知らなかった。
自分は奥付にあるハンコ自体気にしていなかったけれど、著者は気になり、そして根気強く探し集めたよう。その結晶がこの1冊。

この本、文豪好きにはなんとも堪らない作品になっている。

様々な文豪たちの印影、そしてそのエピソードなど、彼ら彼女らの写真と共に載せられている。
エピソードも然ることながら、写真が結構良くて、わりとマニアックなものが使われているから、(自分は)見たことがないものも多く、その点でも楽しめた。
特に永井荷風と三島由紀夫は、それぞれある意味凄い。

印影自体も、それぞれに拘っていたりそうでもなかったり、その人らしいなというものもあったりと、面白い。個人的には、宇野浩二(正直存じ上げなかったが)の印影が美しいなと思った。バランスが良い。後は、室生犀星の印影は凄く彼らしくて、良いなと思った。
そうやって、自分でお気に入りのものを見つけながら見ていくのもいいかもしれない。

この本で興味深いなと思ったものはもう1つ。
「印鑑」について。自分たちはハンコを印鑑と呼ぶが、それは間違っているらしい。


(略)「印鑑」の「鑑」は「図鑑」などの「鑑」で「記録簿」の意味。わが国には実印などを役所に登録する「印鑑登録」という制度があるが、これは「印影」と「印章」の所有者を一致させるための制度。つまり自身の「印影」を役所に届けて「印鑑」に記録してもらうのである。ところがいつの間にやら印章全般を「印鑑」と呼ぶようになり、だれも怪しまなくなったという次第。(略)


知らなかった。
これからは印鑑ではなく、ハンコと言うようにしよう。

そして最後はなんとも憎らしい演出。
そして読んだ後は、奥付が気になってくる。
文豪好きには必ず刺さるのではないかなあと思う1冊。そういう方へのプレゼントにも良さそう。




高原英里『川端康成異相短篇集』を読む。
「無言」を読み終わる。

透き通る綺麗な女の幽霊が、そろりそろりと背後から近づいてくるような、そんな感覚を読みながら覚えた。
少しずつ少しずつ、体温を奪われて寒くなっていくような。

大宮明房なる60すぎの男は、小説家であるが、今は1文字も文字を書くことはなく、1文字もたりとも喋ることはなかった。
そんな男の元に「私」は訪れる。途中、女の幽霊が出るという道を車で通りながら。
そして「私」が見舞いに行っても、やはり大宮が話すことも文字を書いて伝えることもなかった。その姿は、まるで生きた幽霊のようで。
常に無言で返す男に、男の娘と「私」はそれでも話しかけ、通じ合おうとするのだが…。

なんだか恐ろしく、読みながら落ち着かなくなった。何かが迫ってきているような。
結局幽霊が恐ろしいのか、無言と対峙することで狂わされた人が恐ろしいのか、分からなくなった。
総じて少し、体温が低くなる話だった。

そういえば話の中で、トンネルが出てきた。雪国もトンネルで、トンネル好きなのかなあ。
はたまた、境目として使いやすいのだろうか。





2月29日(木)

雪舞うは 桜の花と 和歌あるが 今は染まりて 雪にはならず

昔は白い桜しかなかったらしい。だから雪を桜と見立てていた。今の桜の色は品種改良で生まれたもの。
「桜吹雪」という言葉もあるけれど、あれも同じ理由から来ているのだろうか。白い桜の花びらが、雪が荒れて舞う景色に見えたから。



ボーモン夫人『美女と野獣』を読み始める。

アニメなどとは若干内容が違った。短いということもあって、あっさりめ。後、厄介な姉が2人もいた。

驚いたのが名前「ベル」とは美女という意味らしい。だから「美女」と「野獣」だったのか。なるほど。

そういえば、結構前に『美女と野獣』の実写版を少しだけ観てから、その綺麗さに全部観てみたいなあと思っていたことを思い出した。図書館に置いてあるみたいだから、この機会に借りて観てみようかな。



癌もどんどん増えてくるんだろうなあ。





3月1日(金)

金柑を 採るため梯子 登りけり 落ちた記憶は 食べて消えたか

数ヶ月前に柿の木から落ちた祖父が、今度は金柑を採るために梯子に登ったらしい。おいおい。大変な思いをした記憶は、何処に行ったのだろう。食べて消え、美味しかった甘さだけが残ったのだろうか。

梯子以外にも自転車にも乗っていて…。電動自転車が壊れているから、普通の自転車に乗ったらしいけど、よく行けたなあプラスよく戻ってこれたなあと驚き。
まあ元気なら何よりなのだけど。けど。心配が絶えませぬよ。



3月かあ。
そろそろ種まきを初めなくてはなあ。後じゃがいも植え、冬越しスナップが伸びるためのやつ(名前が思い出せない)作り。
これからどんどん忙しくなるなあ。でも今年は色々成功させたいから頑張らねば。





3月2日(土)

太陽光パネル、エコと言いつつ1つもエコがない。もうこれ以上増やして見栄えを悪くするのやめてほしいなあ。
1番問題なのは、使い終わったもしくは壊れたものは、再生や処分が出来ないということ。だから土の中に埋めるしかない。中国では、処分できない持て余された大量のパネルを、大きな穴を掘って中にどんどん捨てて埋めているのだとか。
太陽光パネルは、有毒なガスを産む。電気を作っても全部活用出来ず持て余し、尚且つ赤字ばかりとも聞く。本当に良いこともエコも何一つない。
その上10年くらいしか持たない…。何故こうも今だけなのだろう。先を考えなさすぎて悲しくなる。
何かを作るなら、終わった後のことまで考えて生み出してほしいよ。きちんと再生または、ただのゴミにならないものを。どうかどうか。
エコとはそもそも、環境に優しいことを言うのですよ。人に優しい、人にとって都合のいいものではないのです。



『覚和歌子詩集』を読み終わる。


かみさま とよびかけて
はーい とへんじされたら
なんだか こまる

かみさま とよんだあと
しばらくの しずけさに
かみさまは いる

「かみさま」


全体を通して、少女のようだなと思った。
純粋な、少女のような。
そんなふわふわさと、実際は大人な重さを感じる。
生命と、その神秘性を感じるような、身体の中にすーと入っては消えていくような、なんとも独特な味わい。

表紙の絵や所々にある中の絵も、詩と混ざり合うようで、雰囲気に合っていてとても良かった。

そういえばこの方『千と千尋の神隠し』の主題歌の作詞を担当した方だったらしい。最後に書かれた川上弘美さんのエッセイで知って驚いた。
でも、確かにその要素があるような。






3月3日(日)


おやつ。
またもや登場。
五三焼きカステラ(白)に、クロテッドクリームに、黒蜜。そして今度はバナナをのせてみた。凄く合う。甘みがよりまろやかになって食べやすい。
そして紅茶。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「火野葦平」編を読み終わる。

小説家。自分は存じ上げず、名前も読み方が分からなかった。調べて「ひのあしへい」と読むことを知る。ほう。

お祭り好きな人格者だったらしく、追悼も悲しみと賛美と、批判的なことは少ない。

驚きなのが、自殺だったにも拘わらず、病死だとされ、死後十二年後にその事実が発表されたのだとか。
そしてそのためか、彼の文学としての評価はぼんやりとしてしまった。
芥川龍之介に憧れ、彼のように彼と同じ日に自殺したが、それも空振りに終わってしまった。尚且つ、自殺と発表された数日後、川端康成の自殺し、全てそちらに持っていかれてしまったらしい。
なんとも切ない。まあでも仕方ないですね。



ヨシタケシンスケ『日々憶測』を読む。

ヨシタケさんが日々の中で、もしかしてあれってやあれはこうだと思うことなど、憶測が詰まった作品。

自分も日々、もしかしたらあれはと考え妄想を膨らますことは多々ある。でも誰しもがあることではないかなと思う。何気なく落ちていたものが、何故落ちたのか何故ここにあるかなど想像を膨らませたり。
けれどヨシタケさんの憶測は、結構斜め上で、それがまた面白い。良く思いつくなあというものばかりで、くすりと笑えるものもたくさんあった。
ただそれだけでなく、考えされられることもあるのが、ヨシタケさんらしかった。

その中で個人的にいいなと思ったものを3つ。


ちっちゃい子がぬいぐるみを持ち歩いてるのって、かわいいですよね。
大人もみんな一匹ずつ、ぬいぐるみを抱えていてもいいのになと思います。
争いごとが減りそうな気がします。


ちっちゃい子が照れていてかわいかったです。
その後、自分が最近、全然照れていないいことに気が付きました。
さいごに照れたのはいつだろう…
人生の充実度はつまり、「照れ」の回数なのでは?と思いました。


フードコートで、机のスベスベ感を楽しむ赤ちゃんがいました。
大人にも「さわりごこち」だけを純粋に楽しむゆとりがあればいいのに、と思いました。


本の中には、他にも短い話、絵本のようなものも数点収録されていて、それもまたヨシタケさんらしいユーモアが詰まっていて、なんとも贅沢な1冊。
考えることは人を豊かにする上で大切だなあと改めて思った。

考えることが楽しくなる、考えることの楽しさを教えてくれる、とても楽しい作品だった。






ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に優しさが巡ってきますよう、願っております。
ではでは。


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