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檸檬読書日記 再びぼくの伯父さんが、センチメンタルな旅と、国木田独歩の運命。 8月19日-8月25日

8月19日(月)

ジャン=クロード・カリエール『ぼくの伯父さん』を読む。こちらは小説版。

先日映画版『ぼくの伯父さん』を観て、良かったから持っていた小説版を読んでみた。
内容は殆ど同じ。けれど視点が「ぼく」だからか、「ぼく」が登場していなかった部分が多少省かれている。

自分は最初映画を観たけれど、小説を読むのは映画を観た後で良かったと思った。映画を観たからこそ面白く感じるところが多く、観ていない状況だともしかしたら掴みづらいところもあるかも。

ただ、同じ内容だから読まなくてもと良いといえばそうではなく、寧ろ読んでよりこの作品が好きになった。
映画では、あまり個々の心情が分からず(自分が読み取れてないだけかもしれないけど…)、特に「ぼく」が伯父さんに抱く感情が分かりづらかった。伯父さんに対して、面白い人とは感じていても、その他にはどう思っているのか、よく分からず結構淡白だなとさえ感じた。
それが小説では、伯父さんという存在が「ぼく」にとって、とても大きな存在だったということが分かる。

伯父さんは何に囚われることなく自由で、誰にも流されることなく、何にも影響を及ばされない。持っているものは少ないけれど、決して不幸ではない。
片や「ぼく」は、全てのものが揃いほしいものは何でも手に入り、自分が何かをしなくても勝手にやってくる。けれど、自由がなかった。オモチャは勝手に自ら遊び、自分で想像する自由も、自分で何かをする自由もなかった。それは少年にとっては不幸で、寂しいものだった。
その寂しさを埋めてくれたのが、伯父さん。自分とは違う、自由な伯父さん。


旅立った伯父さんが、最後のサインを、最後の別れの挨拶をぼくに送ってくれた(略)彼はぼくに、彼にまつわる何か、奇跡のような偶然の力、ある種のファンタジー、ある種の自由を残していってくれたのだ。


そして最後、伯父さんは素晴らしい贈り物を残す。「ぼく」が望んでいたものを。

小説では、あぁ、そうだったのかと知れるところが多く、とても身近に感じることが出来た。読めて良かったし買っておいて本当に良かった。買った時は内容は知らず、ただ絵に惹かれて手に入れたのだけれど、あの時の自分、ナイス。

最初に惹かれた絵も、フランスらしいシックでオシャレな無駄がなく、どれも素敵な上にたくさん収録されていて、それだけでも十分満足できる。
そして絵を担当したピエール・エテックスは、映画『ぼくの伯父さん』でアシスタントを務めていた方、というのも良い。どのシーンを絵にすれば最適かと分かっている感じで、絵を見るだけで映画を思い起こさせた。
なんといっても表紙の絵が良い。自分が好きなシーンだから、特に。「ぼく」を見ないまま、「ぼく」に手を伸ばす伯父さんと、その手を掴もうとする「ぼく」。
あぁまた、映画が観たくなってしまった。今度は「ぼく」がどう思っていたのか分かった状態で。

本の最後に、『ぼくの伯父さんの休暇』のノベライズ版も出ていると知って(勿論絵は『ぼくの伯父さん』と同じ方)、これは買わねばと調べてみたけれど、絶版だった…。なんてこった…。
くぅ、古書店で地道に探すしかないな。






8月20日(火)

父親の奢りで鰻を食べに行った。やらかしたお詫びに。
本当は結構前から行こうということになっていたけれど、皆の都合が合わず今になってしまった。かれこれ7ヶ月は経っているかも。ようやくです。


川越の「いちのや」というところ。
自分はひつまぶし。
ボリューミーだった。

撮るの忘れたけれど、鰻巻きも食べた。初めて食べたけれど卵が甘めでふわっふわっ。こうやって食べようと最初に考えた人、天才だね。






8月21日(水)

『村山槐多全集』を読む。


血の強いにほひが
草木から、星から、走る車から
どくどくと、ほとばしる

血は血に滴たり
血は血に飛ぶ

生きたる物から滴たる

その強さと恐ろしさとに
わたしはぎよつとした

どくどくと血が滴たる
万物の動脈が切れた

命が跳ね上つた
そして落ちる
まつさかさまに

これはどうした事だ

逃げろ逃げろぐづつくな
血は滴る一滴、三滴、五滴、九滴
天から、地から、街から、電車から

こりやどうだ
血のにほひの強さつたらない
ぎよつとしてたたずむ私の体軀からも
血が点々として滴たるぞ

血は血に
血は血に滴たる

あ。

「あの日ぐれ」


あ。

あ。の余韻がいつまでもじわじわと染み込んでくる。血が滴って、皮膚に落ちた時に皮膚の細かな溝にじわっと染み込んで、枝分かれしたように広がっていくような。そうして血は皮膚の下まで染み込んで、体内にある血に帰っていく、というね。(何言っているのだろう)

「血は血に滴たる」という表現、村山槐多が使うとなんだか艶めかしくてドキドキするなあ。






8月22日(木)

『カフカ短編集』を読む。
「田舎医者」を読み終わる。

んー、何が起きていたのだろう。自分の脳みそがへっぽこすぎて分からなかった…。
田舎の医師が呼ばれて患者を見に行ったら、もうどうしようもない状況で、でも納得出来なくてこいつは医師失格だみたいな感じになるようなないような。

どうしようもなく救いがないというか、出口がない作品だった。
ただ時代を嘆いているのだけは伝わった。



観光客の迷惑行為、見る度に悲しくなる。
やっている人に、それ自国でも出来ますかと聞きたくなるよ。いや、自分が住んでいる周辺でも出来ますか、と。
結局他の国であり住んでいないから出来るんだろうなあ。自分には関係ないと思って。でもそれで汚すということは、自然も環境も汚すということで、世界は繋がって影響を受け合っているのだから、関係ないということはないと思うのだけれど…。
もう悲しいよ。良いことってなんだろう。
国まで日本を観光国にしようとしているし…辛いなあ。






8月23日(金)

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』が新訳で出たようで。


嬉しい。表紙も良い感じだし、これはぜったい買いだな。

最近新訳で色んなものが新たに出ているな。この調子で『オペラ座の怪人』も出してくれないかなあ。素敵な表紙で。



三島由紀夫『文章読本』を読み終わる。

分かっていたことだけれど、やはり自分には少し難しくはあった。けれど丁寧な口調、文章は読みやすく、分からないながらも所々拾うことが出来た。
その拾えた部分がまた興味深く、本当に小説や文章というものが好きなのだなあというのが伝わってきた。文に対しての徹底的美意識は、尊敬の念を抱かずにはいられない。




匂いが話題になっているようで。
今本当に、臭いを消す消臭剤とか柔軟剤とか多くて驚く。それだけ臭いを気にする人が増えているのだろうなあ。
でも本当に匂いを気にしているなら、消臭剤とかで誤魔化したり香水とかで上乗せするのではなく、食べ物に気をつけるのが一番良いと思うのだけれど…。
結局汗や、体からでるもの、鼻水とか目ヤニなどは体内にある毒素を出そうとして出ている。
特に汗は、その毒素が強ければ強いほど匂いという形で現れてしまう。
だからか、年齢関係なく今は若くても臭いを気にする人が多くなっている気がする。
それも今食べる物口に入れるもの人工物が多く、薬まみれ。だから体内でそれを出そう出そうと働いて、臭いとして現れてしまう。

数年前、父親は加齢臭が強かった。独特な酸化した臭いで、結構きつかった。
でも食事を変えて、肉を控えめに(それも良いもの(値段ではなく、餌や体に薬を使っていないもの)を少しずつ)してからというものの、それが全くというほどなくなった。結構酷かっただけに、その変化には本当に驚かされた。だからこそ、臭いは食べ物なのだなあと分かったのだけれど。

後、服に着いた臭い消しには、太陽が一番な気がする。
自分は洗濯物を毎回外に干している。(雨の日でも乾燥機は使わない)でも周りを見ると、割と外干ししている人が少ないようで。
けれど日光消毒は本当に強力。特に今、夏の強烈な日光の力といったら…。
洗濯物を雨の日でも、酷くなければ外か、酷ければ室内かで干すから、雨が続くと生乾きの臭いがつく時がある。特に頻繁に着て洗濯する室内着とかは、臭いが染み付いたりもする。結構染み付いて、洗っても取れないからこれは駄目かなあと思っていたけれど、照りつけほど晴れた日、その服を干したらあら不思議、臭いが、取れた…!いやぁもう本当、日光の偉大さを感じたよ。

どちらにせよ、自然が一番な気がするのだけどなあ。



トトロはやはり良いなあ。
自然豊かな景色、何度観てもいい。こんな所で住めたらなあ。
森が多くて、今なら熊とか出そうとか思ったけど。でもあれだけ森深いと、日常茶飯事で熊食すかな。






8月24日(土)

『オペラ座の怪人』調べたら、2022年に新潮社から既に出ていた…。ということは角川では出ないかなあ。んー。あの装丁シリーズ好きなんだけどなあ。



荒木経惟『センチメンタルな旅 冬の旅』を見る。写真エッセイ。


もう我慢できません。(略)
たまたまファッション写真が氾濫しているのにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とはちがいます。この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです。


noteで教えてもらって、見てみた作品。

写真家の荒木経惟の妻・陽子との新婚旅行の写真が数枚と、妻の死を記録した写真が収録されている。
2人の私生活であり、愛を記した作品。

見た瞬間、なんとセンチメンタルが似合う女性だろうかと思った。
こちらを見ている目が、雰囲気が、ズルズルと引きずり込んでくるように強く、暫く頭から離れなくなる。
確かにこれが本当だと、嘘っぱちでない写真だと強く感じた。
これがまさに日常であり私生活であり、きっと愛なのだろう。

よく分からない女の子のパネルの写真も、普通の風景も、言葉とは違う写真も、それがまた日常であると思わされた。

強烈、という訳ではない。でも最初の写真はじわじわと迫ってくる何かを感じ、後の写真ではぐらぐらと感情を動かされ揺さぶられた。



竹中直人・監督『東京日和』を観る。映画。

上の写真集を映画化したもの。これも一緒に教えてもらった。

最初に写真集を見たからか、写真と結末が思い出され、何気ないことで何度もグラグラと感情を揺さぶられた。
悲しいシーンでもないのに、妙に切なくなった。切なくて切なくて…。
日常というのは、なんと儚くて脆いのだろう。
それが正に現れている作品だなあと思った。
ヨーコは何処かいつも不安定で、明るい時も何か危うさがある。それはまるで、グラスが今にもパリッと割れてしまいそうで、でもそこに瞬間的美しさと切なさを感じた。

最近自分は日常ものにめっぽう弱い。
多少の衝撃はあるけれど、基本的に仲良し夫婦の日常で、その何気なさに結構グラッとやられてしまった。日常って、何気ないほど本当に切ない。そして愛おしい。
ヨーコ役の中山美穂さんの笑顔を思い出すだけで、いやぁもうなんかじわりときてしまう。
中山美穂さん、本当に役に合っていた。あの絶妙な表情、仕草、今にも消えてしまいそうな雰囲気。最初はあれ?と思うけれど、だんだんとその素朴さ(?)が寧ろ自然に見えてくる。あの役はあの人しかいない気がする。

他の役者陣も結構豪華で、中でも中島みゆきさんが出ているのには驚いた。しかもバーのママ役。それがまた美しいこと美しいこと。艶めかしさもあって、少しドキドキしてしまった。
中島みゆきさんが接客したり歌ってくれたりしたら誰だって通ってしまうよなあ。なんとも贅沢。

メイン曲も坂本龍一さんがやっていたりと、贅沢な作品だ。

映像も少しレトロ感があって、それがまた雰囲気があって良い。
昔(といっても数十年前)の街並みって、東京であってもなんか美しかったなあと改めて思い起こさせられた。少し不便で少し寂れてはいるけれど、それがまた良かったよなあと。
昔は電気も全体的な色合いもすべてが抑えられていて、全体的に調和がとれていて、美しかった。
それが便利と安さの代償か。大きいなあ。

そういえば、映画の中で出てきたオレンジの缶ジュース、まだ売ってるのかなあ。最近見たいけど。少し細長くて、全体的な色味は黄色みたいなオレンジで、文字は青。
あのオレンジジュースの缶も印象的だったな。『センチメンタルな旅 冬の旅』の最初、電車に乗っている写真で、おそらくその缶ジュースが何故か逆さまになって写っていて、印象に残っていたから、余計かもしれないけど。

後は映像の中で何度も足元が映っていたのも印象深かった。何故かは分からなかったけど…。
そして写真を見た人なら誰でもあっと思う、女の子のパネル。あれはかなり印象的。独特の雰囲気があって、小さめに映っているのにかなり目を引く。
そのさり気なさが上手い。

きっと教えてもらわなければ出会えていなかっただろう作品(写真集も映画も)だから、教えてもらえて本当に良かった。ありがたい。

本当は『センチメンタルな旅』(写真集)も見たかったのだけれど、図書館で借りようと思ったら既に借りている人がいるようで、泣く泣く予約することに。見れるのは少し先だな。残念。






8月25日(日)


ふおぉ…。良いクッキーをもらってしまった…!
『shodai bio nature』のクッキー。
4種類あって、左上から「アーモンドフロランタン」「メープルグラスフェッド・ビスケット」「グラスフェッド・ビスケット」「カカオフロランタン」が入っている。

今回は「アーモンドフロランタン」と「グラスフェッド・ビスケット」を食べた。

アーモンドフロランタン
グラスフェッド・ビスケット。アイスティーと共に


「アーモンドフロランタン」は甘さも丁度よく、キャラメルの香ばし具合も絶妙。アーモンドもキャラメルもクッキーもザクザクッとして、固めの歯ごたえがあって、かなり好みの食感だった。

「グラスフェッド・ビスケット」はバターの風味と香りが最高で、これまた歯ごたえが良く満足感がある。
どちらとも甘さ控えめなのも、良き。
ここのお菓子、


『オーガニックと自然素材は心と身体に美味しい』を大切な方へ、愛する人に

を掲げていて、食材に拘っているのも嬉しい。その分高めではあるけれど、その価値はある。
こういうところ今本当に少ないから、応援してどうにか支えたいなあ。


国木田独歩『運命論者』を読む。

映画『東京日和』の中で、国木田独歩の『運命』という本が出てきた。
読みたいなあと思ったら、自分が所持している『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』という本の中にこの『運命論者』という短編が入っていた。『運命』という本も短編集であり『運命論者』も入っているようだったから、読んでみることに。


「貴方は他人の秘密を覗(うか)ごうて可(よ)いと思いますか」と彼は益(ますます)怪げな笑味(えみ)を深くする。

最初からドキッとした。

内容は、運命に翻弄されて苦しむ男と、その男に偶然出会った男が、その運命の経緯を聞く話。

きっと『東京日和』を観ていなければ、「秘密」の部分にこんなにも引っかかることはなかっただろう。けれど、映画の中で登場しただけあって、少し繋がる部分もあり、まるで秘密を覗いてしまったようにドキドキした。


「(略)貴様(あなた)、運命の鬼が最も巧に使う道具の一は『惑(まどい)』ですよ。『惑』は悲(かなしみ)を苦(くるしみ)に変えます。苦悩(くるしみ)を更に自乗させます。」


国木田独歩、初めて読んだけれど、なかなか好みかもしれない。
何処が違うのかは分からないけれど、ポーの人間味的怖さとは違う、和の要素が含まれた人間味的怖さを感じた。 

内容的にはありそうなのに、展開の運びが巧みなのか、最後にはハッとさせられた。でもよくよく考えればそうだよなあと思うのだけれど…やはり上手いのだろうなあ。(まあ、自分が鈍感なだけかもしれないけど…)



『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む。
「森茉莉と三島由紀夫」編を読み終わる。 

父親としての森鴎外の話。

子ども達に対して甘く優しい父親だったようで。


森 (略)昼間私が起きている時間は、たいがいドイツ語の本を読んでいるだけ。ですから、私はいつでも側に寄ってなんでも話せたし、膝にのったり、肩にのったり。
(略)
三島 でも、読書を中断されて叱られるようなことはなかったのですか。
森 それはもう、私がいけば絶対私の時間。父は葉巻が好きで、いつも葉巻を手にしていましょう、それで私が行って膝にのると、葉巻の灰が落ちるとまずくなるというので、そおっと抱いてくれたり、それから葉巻をおいてから抱きあげたり……。


なんともほっこりさせられた。

妻(森茉莉からしたら母親)との喧嘩も、若いカップルのようでクスリとした。あなたは私でなくてもいいのだから、私でなくちゃという人に嫁ぎなおす、といった妻に対し笑って、お前はわがままだからどこへ行っても追い出される、それならここにいた方がいい、だって。ひゅう。

森鴎外像、良い意味で覆された。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様に素敵な出会いがありますよう、願っております。
ではでは。


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