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檸檬読書日記 文房具に、智恵子に、太宰治にすってんころりん。 3月25日-3月31日

3月25日(月)

『宝石の国』ついに完結するのかあ。寂しいけど、これでようやく読めるのは嬉しい。わくわく。
最後どうなるのだろう。

後は次回作が気になるなあ。
まだ本当に終わってはいないのに早い話だけど、次を描くのかも分からないけど…。描いて欲しいという願望を込めて、次が楽しみ。
次はどんな話を、どんな世界観を描くのだろうか。
植物や虫、宝石ときたら宇宙?あれ、宇宙は短編であったかな。それか絵とか、海、魚、海月とか合いそうだな。
わくわく。






3月26日(火)


祖父の家の蜜柑、無農薬(という名の放ったらかし)だから、皮を干してとっておいているけど、干したまま手持ち無沙汰状態。どうしよう。粉状にして陳皮として使おうと思ったけど、この量は多すぎたなあ。んー、まあいいか。(そしてまた放置)



久世光彦『簫々館日録』を読む。

簫々館に集まる作家たち、九鬼(芥川龍之介)や迷々さん(菊池寛)が、語り合いくだらなくも穏やかな日々を過ごしていた。
簫々館の主人、作家の児島簫々(小嶋政二郎)の娘である麗子は、5歳ながらに大人びていて、ふわふわと危なっかしい九鬼に、まだ未熟な心で思いを寄せながら、必死に近づこうと藻掻く。

ほとんど日常の話で、何か事件が起きる訳ではない。それでも、いつまでも影がチラつき、死へと近づいていこうとする九鬼(芥川龍之介)に、視点である麗子と共に落ち着かない気持ちになり、どんどんと物語の中に惹き込まれていった。このまま存在し続けてほしいという望みから、読み進めずにはいられなくなった。

最初は、芥川龍之介や菊池寛など、文豪たちが登場するからと興味を持ち読んだ。
けれど、芥川龍之介や菊池寛(自分は名前を存じ上げなかったが)小嶋政二郎は違う名前になっているからか、だんだんと違う世界の出来事のような、架空の物語のような感覚を覚え、別の物語として楽しんでいる自分がいた。
文豪が出ているとは関係なく、単なる小説家たちによる日常を楽しんでいた。

文豪好きには勿論全員が刺さると思うし、(少し難しい部分はあるものの)文豪知識がなくても十分楽しめるのではないかなと思った。



串田孫一『文房具56話』を読み始める。

文房具を愛する著者による、文房具エッセイ。
こういう文房具があるという紹介というよりも、昔の文房具を懐かしみつつ思い出などが語られている。

帳面の話。


しかし、縦罫の需要が少ないということで、世の中の移り変わりが分かるような気もする。と同時に物は豊富でありながら、本当に欲しいものの買えない時代だとも思う。


本もそうだよなあ。いいなと思っていたのに、すぐに違う本が大量に出て埋もれて消えてしまう。だから買いたいと思った時に買わないと買えないという。
いいものを長くの時代に戻ってほしいものです。

それにしても、文房具で時代が見えるのは興味深い。

後、文房具のことではないけれど


群馬県前橋市の図書館には、詩人萩原朔太郎に関する興味ある資料がいろいろあって、この詩人を研究する人たちがよく訪れるようである。


と書いてあって、その図書館に行きたくなった。研究する訳ではないけど、1度行って見てみたいなあと。
でも前橋かあ。

調べたら「萩原朔太郎記念館」なるものもあるらしい。余計行きたい。
文学館も結構お洒落だし…い、行きたい。





3月27日(水)

髪を切りたい。そう思い続けて既に1週間が経っている。流石にそろそろ切らねば。もこもこ。



串田孫一『文房具56話』を読み終わる。

謄写版の話。


どこの町会でも、また辺鄙な村でも同じようなことをしていたのだと思うが、結局は単純な印刷であったために誰でも一応出来て、しかも電灯が消えても蝋燭の灯で書くことも刷ることも出来た。これが、例えば電動式の複写機などであったら、停電とともに動かなくなって困ったろうと思う。平和な時にあまり発達し過ぎた機械類は、何か一つ欠けると機能は全くとまる。


結局最後は人の手なんだよなあ。
今ほとんどものが電気に頼りすぎて、何かあった時どうするのだろうといつも考えてしまう。例えばお金とか。電子マネーとか、停電して使えなかったら意味ないよなあ。後家の鍵なんかも電気(?頭が悪いからその点よく分かってないけど)で作動する場合、停電したら入れなかったり出れなくなったりとか、色々ありそうだけどなあと思ったり。
まあそもそも、電気が足りないと言いつつ無駄遣い、年中町中が煌々としているのも…うーん。


今私の家には地球儀がない。(略)だが、小型の地球儀を手に持って、自分たちの世話になっている地球のことを考えるのは、次第に必要になって来た。地理の勉強よりも、今はむしろ地球を想う方が大事になって来た。大切な地球に対して大分、横暴を極めてしまったので、もう手遅れかも知れない。


自分も小さな地球儀買おうかなあ。未だに横暴は止まらなくて、本当に手遅れかも知れないけれど。

この本、読んでいてとても懐かしさを感じた。
あぁ、そういばこんなものがあったなあとか、そういえば今は見なくなってしまったなあと。
特に消しゴムの話は、あるあるで笑ってしまった。消しゴムは安いだけにいじめられやすいと。確かに。

文房具の話だけでなく、文房具から見えてくる背景も興味深く、そして昔ならではの文房具事情を知れるのも面白い。そして今は恵まれているのだなと。昔は文房具も手に入りづらかったらしい。

自分も昔、文房具が好きすぎて(絶対そんなに使えないのに)集めまくっていたから、分かる部分もあったりと、文房具好きにはかなり楽しめる作品になっていた。
文房具好きでなくとも、文房具を通して見えてくるものも興味深いから、色んな人が楽しめる作品なのではないかなと思った。


そういえば、未だに使い切れない文房具たちがあるなあ。消しゴム、鉛筆は、一生かかっても使いきれなそうな量あるし、ノートも50冊以上ある…。いや本当、何でこんなに買ったのやら。完全に取り憑かれていたな。
ペンも凄い量あるんだよなあ…。どうしよ。(どうもできない)






3月28日(木)

無性にミステリーが読みたくなってきたなあ。



高村智恵子『智恵子紙絵』を読む。

上の本を読んだ際、後ろのにこの本が載っていて、興味を惹かれて図書館で借りて見てみた。
(『文房具56話』の中でも、「高村智恵子さんは、あの切絵にマニキュア用の鋏を使ったということであるが」と高村智恵子が切り絵をやっていたことが書いてあった)

精神病者には簡単な手作業をするのがいいと医者に言わ、夫である高村光太郎が千代紙を渡したところ、切り紙を始めたのがきっかけだったらしい。


(略)切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である。

高村光太郎


どの作品も大胆でシンプル。細かく線を作ることはあまりなく、どちらかというと紙の面積の方が多い。それなのに、とても繊細さを感じた。繊細で美しく、智恵子本人の性質をよく表しているように思えた。

モチーフには果物や花を使っているものが多く、それらが全て高村光太郎が贈ったもので、そう思って見ると微笑ましく、絵がより輝き美しく見えてくるようだった。

この本の中には、切り絵に関してのエピソードものっている。
病院に光太郎が来ると知ると、智恵子は身だしなみを整え、彼のために綺麗な座布団を用意する。


ほどなく伯父さま(光太郎)が入っていらっしゃった。
「御機嫌よう。」
祖母(智恵子)は、それはそれは嬉しそうなお顔をなさって伯父さまの大きなお膝にだかれる。(略)


そして


(略)うやうやしく紙絵作品を出してお目にかける。
「ほう。」
と伯父さまは美しさに驚きながらごらんになる。そばで祖母は目を細めて嬉しげになんどもなんどもおじぎをして伯父さまをみていられる。


その光景を想像するだけで、身悶えしそう。なんて微笑ましく可愛らしい人だったのだろうか。
それだけに、その後の出来事には胸がギュッと締め付けられた。

絵だけで、智恵子が残した文字はない。けれど光太郎への愛が凄く伝わってくる、とても素敵な作品集だった。
そして、高村光太郎の引用には続きがある。
 


(切抜絵を)私に見せる時の智恵子の恥ずかしそうなうれしそうな顔が忘れられない。


同時に、光太郎の智恵子に対する愛も感じられる作品だった。



毒が薬になるように、使い方なのだろうなあ。
手を加えれれば、薬も毒になる、ということなのかなあ。
いいものはいいものとしてそのまま使うのが1番ですよ。きっと。

とはいえ本当にあれが原因なのかはまだ分かってはいないんだよなあ。それなのに凄い叩かれようだけど。
チクチクでを考えたら雲泥の差なのに。どれだけバンバンいなくなっていることやら。それは全く触れないのになあ。
そう考えるとたまたまで、後からどんどん出てきたのも、もしかしたらこれのせいかもしれないという心理なのかも、なんて。





3月29日(金)


謎の白い花。(でも、サクラの仲間ではあるらしい)
歩いていたら風か鳥か、落ちていたから(有難く)拾って飾ってみた。綺麗。近づくと結構強烈な匂いが押し寄せてくる。

それにしても、なかなか上手く撮れなくて悔しい限り。



太宰治『如是我聞』を読む。

嵐山光三郎『追悼の達人』に出てきて気になっていたが、その頃は落ちてなかったから、読みたいと思いつつも後まわしにしていた。
けれど『十二月八日』を読んで完全にすってんころりんしたから、折角だから読んでみた。

読んで、また印象が覆された。

内容は、殆どが愚痴と悪口。
それは読む前から分かっていたし、最初はその愚痴愚痴具合も面白いなあと読んでいった。けれどだんだんとその中に嘆きや苦悩が見え、それがとても自分には衝撃的だった。
だから彼は、いなくなってしまったのだろうかと思えて。


国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる。あの人たちは、大戦中でも、私たちの、何の頼りにもならなかった。私は、あの時、あの人たちの正体を見た、と思った。


日本という国は、昔から外国の民衆の関心の外にあった。(無謀な戦争を起こしてからは、少し有名になったようだ。それも悪名高し、の方である)


民主主義の本質は(略)、「人間は人間に服従しない」あるいは、「人間は人間を服従出来ない、つまり、家来にすることが出来ない」それが民主主義の発祥の思想だと考えている。


彼らは、その世の中の信頼に便乗し、あれは駄目だと言い、世の中の人たちも、やっぱりそうかと安易に合点し、所謂先輩たちがその気ならば、私たちを気狂い病院にさえ入れることが出来るのである。
奴隷根性。
彼らは、意識してか或いは無意識か、その奴隷根性に最大限にもたれかかっている。


太宰治の目は、何処までも冷静だ。
自分には、正常に見える。でも、世の中というのは、正常が正常にならない時がある。ある考えが多数だった場合、それがどれほど異常であろうと、それこそが正義で正常で正しいになる。少数は、少ないだけで異常になってしまう時がある。(必ずしも、多数が間違っていて、少数が合っているという訳ではないけれど)

だからこそ、太宰治は苦しんだのではないかなと、自分は感じた。
周りがおかしくなり、自分は惑わされることなく見えているというのに、そんな自分を周りは否定し、反対に周りはおかしさを肯定し、絶賛さえする。
そりゃ絶望するし、こんな不条理な場所にい続けたくないと思うよなあと、しみじみ。

規制がなくなり、言えるようになって、溜めていたものがボロボロと出てきたのだろう。
いつまでも変わらない、自分は合っているはずなのに肯定してもらえない怒りが、そこかしこから滲み出ていた。
こういう人は、本当に生きづらいだろうな。
思考を停止してしまえば、周りに合わせてしまえば楽だけど、そうすることでの危険性が分かるからこそ、そうしたくない。けれどもそれはとても茨の道で、苦しさも伴う。
寧ろ彼は、強い人だったのかもしれないと思った。強いからこそ、他人の弱さも自分の弱ささえも許せない。許せないからこそ、苦しい。


人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)


それでも最後まで貫いて、生き抜いてほしかったと思わずにはいられない。

ただこの話は、後ろ向きになるものばかりではない。それがまた、太宰治の魅力でもあると思う。
愚痴ばかりだと、読んでいてうんざりとしそうなものだが、太宰治の愚痴はいつまでも見ていたいと思える。

例えば


(略)ただぷんぷん怒った八ツ当りみたいな文章になったけれども(略)


怒ったことを「ぷんぷん」とか書いているのだ。途端に可愛い奴めっと思ってしまった。
そして文章自体も、基本的には礼儀正しく淡々としているのに、感情が高ぶると途端に口が悪くなるのも、自分はなんだか憎めず、所々砕けた物言いも面白くて好きだなあと思った。

ただ後半(4部構成になっていて、最後の4)は、完全に愚痴100%で、ありゃりゃという感じ。
冷静に周りを見れる目を持っているのに、怒りが頂点までくると途端に視野がぎゅっとしてしまうらしい。

4は、志賀直哉に批判された怒りと、恵まれているのにとう嫉妬、嫉み、そして恵まれている羨ましさが爆発してしまって、読んでいて少し落ち着いてくれと思った。滅茶苦茶なことになってるぞと、けれどその滅茶苦茶さも読んでいると面白くなってくるから、不思議だ。


「暗夜行路」
(略)いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。


結局のところ、羨ましかったのだろうな。自己肯定したくて、他人からも肯定してもらいたかったのかもなあと。
そんな、弱くも必死に抗おうとした彼の強さが、やはり良いなあと思った。抗うことで見える輝きが、良いなあと。
この短編、エッセイを読んで、より深く落とされてしまった。





3月30日(土)

米澤穂信の少市民シリーズ新刊出るんだ。わぉ。楽しみ。
米澤穂信さんの作品の中であのシリーズが1番好きだから嬉しい。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。

日本人はいい人ばかりだ言われた著者。


しかし、わたしたちは、いい人だと言われただけで安心していられない。わたしはこの間観た映画『ハンナ・アーレント』の話をした。ナチス政権下のドイツ人を第二次世界大戦中の日本人に置きかえてみれば、よく分かる。悪魔でも天使でもない平凡な日本人が、兵隊にとられて、自分の頭で物を考えるのをやめてしまった時、彼は無残な殺人を犯してしまう。他所の国へ出掛けていって、罪のない人たちを理由もなくたくさん殺し、戦争が終わると、「あれは戦争だったから仕方なかった。自分は命令に従っただけだ」と言って平然としている。悪魔のような悪人が恐ろしいのではなく、「いい人」でも国の命令で人を殺せることが恐ろしいのだ。



森村泰昌『美術の解剖学講義』を読む。

カルティエ=ブレッソンを読んだ際に教えてもらった本。

美術、写真や歌や絵画や映画などから見えてくるものを面白く、分かりやすく解説されている。
そしてそのどれもいつもとは違う視点から見ていくから、気づきや発見が多く、こうやって見れば良いのかと、それぞれのもつ面白さを引き立たせる方法を教えてくれる作品でもあった。

特に良かったのは、やはり写真、カルティエの話で、この本を読んでまた彼の作品を見たいと思った。より彼の凄さが分かった。

カルティエの作品は、ツインになっているのだとか。全く違うものだが、似た形を同じ枠に入れ、対のイメージを作り出しているらしい。(上手く言えない)
見方が分かった上で見る作品はもっと興味深く、面白いだろうから、近々(といっても先になりそうだけど)見たいなあ。

後写真でいえば、著者の先生であった「アーネスト・サトウ」の話しも興味深かった。
写真を撮るのに三脚を使いたいだろうが、一脚で良い、人間には通常日本の脚があるから、それで三脚になると。面白い。

後は、著者がマネの絵「フォリーベルジェールの酒場」を写真で再現しようとしたことにより、絵自体の矛盾という発見をした話は衝撃的だった。写真で再現しなくては気づけなかったことで、絵は見るだけではないのだなと思った。違う視点だから見えるものがあるのだと。

美術というものを覆させてくれる、より美術が楽しくなる作品だった。





3月31日(日)


チキンビリヤニを作ってもらった。

本番よりも甘味を加えているから食べやすく、適度な甘さとカレーのスパイシーさがたまらなく美味!
バスマティライスもふっくらパラパラ。
ブラックペッパーとの相性も抜群。(かけすぎと言われたけど…正直もっとかけたかったし我慢したのです)

いやぁこれは危険だ、食べてしまう。思わずおかわりしてしまった。
いやぁ、最高でした。ありがたやー。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「志賀直哉」編を読み終わる。

小説家。「小説の神様」の人。とはいえ読んだことないなあ。
後は太宰治が散々に言ってた人という印象。

死ぬ前から死の準備をしていたらしい。今で言う終活というやつか。

88歳まで生きたから大往生ではあるが、仲間たちはそれでもやはり寂しいものは寂しい模様。追悼も落ち着いているけど、しんみり。
ただ、周りも高齢なだけに、追悼がボケボケになってしまっているのだとか。


(略)志賀個人を追悼するというより、晩年の思い出話ばかりだ。ボケているものもある。あまり故人に関係なく自分の近状報告を書いている人もいる。葬式評の人もいる。故人の死のなかに何年後かの自分を見ている。


面白い。


八十歳を過ぎると友人の死は、自分の参考になる。若い人が友人の結婚式に主席して自分の結婚式の参考にするように、友人の葬式は自分の葬式の参考になる。ひとつ違うのは、葬式のとき、当人がいないことである。


なるほど。


ここでわかることは、人は齢をとると自分のことしか興味がなくなる。


確かに。というかどんどん周りを見る余裕がなくなってくるのかも。なんて。


また、志賀の場合は、『暗夜行路』を書いて生涯の大事業をなしとげ、完成された人生であるから、その全容を追悼するのはひどく困難である。


うむ。


(略)評価はすでに確定しており、これ以上論評はいらない。また(略)甘い感傷を排した人であるため、お涙頂戴調の追悼はそぐわない。そういったさまざまなおもわくが、人数は多くてもぼけ気味すじ違いの追悼となってあらわれた。


だそう。(長くやってると、だんだん適当になってくるな…)

この本もそろそろ終わりが近づいてきた。





ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様の食がいつまでも豊かでありますよう、祈っております。
ではでは。

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