見出し画像

檸檬読書日記 漱石の白百合は白にあらず、桃パフェ食し、小説は歩行戯曲は舞踏。 8月12日-8月18日

8月12日(月)

舞い上がっている。
ようやく、ようやく、王城夕妃さんの新刊が出る!
嬉しい。ずっと待っていた。新刊は8年振りだよ。
楽しみ。
ただ、単行本というのが…。この方の全部文庫で持ってるからなあ。文庫が出るのを待つか…。うーむ、悩みどころ。






8月13日(火)

お盆で祖父の家に行って、準備を手伝う。
わっせわっせ。
今年も無事完了。ナスとキュウリはわが家で採れたものを使ったから、きっと乗り心地良い、はず。



塚谷裕一『漱石の白百合、三島の松-近代文学植物誌』を読む。

夏目漱石の白百合の話が1番興味深かった。
白百合といって思い浮かべるのは、大概が純白なものだろうと思う。けれど、夏目漱石の小説で出てくる白百合は、白百合にあらず、らしい。
純白ではない。
そしてこの時代の白百合と書かれているものは、大概が真っ白ではあらずらしい。
白百合となっているものは、匂いが強いという点から、山百合の可能性が高く、山百合とは白地に茶褐色の斑模様、中央には黄色い筋があるのだとか。それはどう見ても、白、百合とは言い難い。
しかし夏目漱石自身が知らずして白百合と書いたかといえばそうではなく、知っている上で山百合独特な「匂い」と「重苦しさ」を使うために中の色を無視し、大雑把に「白い」と表したのではないかと著者はいう。

他にも、白百合を使う作家がいるが、特徴はどれも山百合そのもので。
どう見ても白くはない。だからか、遠目・夜目に見て白いと使う人も多かったのだとか。横光利一や泉鏡花、三島由紀夫など。
遠目・夜目に見れば、地は白だから白く見える、ということらしい。
そうやって上手く山百合の白さを使うとは、いやはや昔の作家には感嘆させられる。白がないなら作ればいいではなく、見える方法を探して使うというね。凄い。

そして白百合、白と百合で思い浮かぶのはキリスト教。それ故に、百合の白さを使うために白百合を使うのではなく、聖なるもの、純潔を表現するために使うケースもあるのではないかとも書かれていた。興味深し。
これから「白百合」が出た場合、どういう意図でもって使っているのだろうと考えながら読むのも、面白そうだなと思った。

何か一つのものに絞って深堀していくというのは、何とも面白い。そういうのって楽しいだろうなあと読んでいて思った。
この方は「植物」だったけれど、例えば「食べ物」だったり「場所」だったり、それを中心に物語を見ていくのも、違う視点になって新しいものが見えてきそう。

本の中で、安部公房『デンドロカカリヤ』が何度も出てきた。それが読めば読むほど知れば知るほど興味を惹かれ…凄く自分が好みそうな感じで…というか絶対好き。
安部公房、名前は何度も聞けど一度も読んだことがなかった。それが不思議なほど、自分がかなり好きそうで…。何故誰も教えてくれなかったんだ…と思ってしまった。(好みを知らないからだよ)
今度読んでみよう。
同時に横光利一の名前と小説も結構出てきて、やはり面白そうだから読んでみたいな。






8月14日(水)


桃パフェ。
桃ゼリーにヨーグルトに生桃。
ゼリーの桃は「山形代表」シリーズのジュースで作ったもの。

本当はここにバニラアイスでもあったら最高だったけれど、生憎アイスを買う習慣がないから…。いつも存在を忘れてたしまう。
まあアイスがなかったとて、この3点セットでもかなり豪華な出来だったけど。桃、凄い。さっぱり爽やか最高。



三島由紀夫『文章読本』を読む。


(略)彼(森鴎外)はあいまいなものに一切満足できなかった(略)彼の精神は汲みたての水を入れた鉢という物象を目の前にありありと見、手にとって眺めるような力で見るのでなければ、見る値打がないと感じました。彼は言葉をそのためにしか使わなかったし、言葉をよけいな想像で汚すことが、作品のなかに描いた物象の明確さを失わせることしかならないのを知っていました。鴎外は人に文章の秘伝を聞かれて、一に明晰、二に明晰、三に明晰と答えたと言われております。


なるほど。鴎外らしい。


(略)鏡花は自分が美しいと思うもの以外には見向きもしませんでした。鏡花にはそこに一つの物体があるということは、何ものでもありませんでした。水を入れた鉢がそこに存在しても、それが古い汚れた鉢であって、鏡花が美しいと思わないものならば、容赦なく無視しました。


これまた鏡花らしい。だから彼の文章は美であふれているのだろうなあ。1文字1文字、魂が注ぎ込まれている気がする。



伊藤悠『シュトヘル』を読む。(4巻)


生涯をかけた仕事は命そのものになる。
命をかけるべきものになる。


--血や一族のみを守るならば人間は、
永遠に縄張りを奪い合うだけの獣ではないか。


痺れる。



『アンネの日記』を読む。

久しぶりのアンネ。
1ヶ月ぶり。
次は21日だからまた少し空く。
読んでしまいたいけど、読み進めるのも少し怖いから、このペースが丁度良いのかも。



芸人の出川さんが、飲食店に行ったら現金が使えなくて、日本にいるのに日本円が使えないってどういうこと?みたいなこと言っていて、確かにと思った。
使えないやつはお呼びでない感。そして自分は使えないやつです。あらら。






8月15日(木)

言葉って、どうやったら届くのだろう。



ジョゼ・ジョルジェ・レトリア『戦争は、』を読む。絵本。


戦争は、日常をずたずたにする。
「進行していますね」と耳元でささやかれる病気のように。


戦争は、人びとを悲しませ、押しつぶし、黙らせる。


戦争は、私たちの不安が まっすぐにめざすところだ。


「戦争は、」で始まる文章は、どれもずしりと重みがあった。愚かしさをじわじわと感じる。

シンプルな絵、ほの暗くレトロな色合いがまた、曇り空に流れる灰色の雲を見ているようだった。
けれどシンプルさも色合いも凄くお洒落で、何度も捲りたくなる。噛み締めるように何度も読みたくなる。
図書館で借りて読んだけれど、手元に残したいと思った。






8月16日(金)

台風の影響なのかなあ、最近首が痛い。ゴキゴキです。首がやられると頭もやられるぜよ…。



富士山をこれ以上汚さないでほしい。
富士山は日本の宝なのに…。何故あんなに簡単に踏み入っていけるのだろう。
「今は昔、竹取の翁といふものありけり」でお馴染みの『竹取物語』でも、不死の薬があるとされているほど富士山は神聖なものだったのに…。
日本人ってどうしてこうも自国のものを大切にしないのだろう。悲しくなるよ。
相撲もそう。国技が今や見世物となっている。別に相撲好きという訳ではないけれど、日本人としては切なくなる。
こうやって失われ、全てが見世物としてしか存在しなくなるのだろうなあ…。
日本もハワイ化が近い。
国ではなく観光地になるのか…。
日本の中でも、日本語が使えないところとかも既にあるらしいし…いやはや。日本が消えるー。
いやいや、希望を捨ててはいけない。そんなに酷くはない、はず。きっと気づいてくれる、はず。
日本をどうにか守りたい。
から、上は命をかけてでもの人を望みたい。狙われて怖いのは分かるけど、上に立つというのはそういうことだと思うんだよなあ。それに分かっていたことだろうに。
お願いだから背負える人がなっておくれ。
1番人気の言いなり君とデマ太郎は困りまする。でも他もなんだけれど、あの2人よりは…いやでも中国好きマンも怪しいなあ。
あれ、最初なんの話だ?富士山だ…。それまくり。いやはや本当、このままでは富士山も怒ってしまうよ。富士山は登るものではなし。着地。



『カフカ短編集』を読む。
「流刑地にて」を読み終わる。

前の作品同様、少し長めな短編。

学術探検家が流刑地を訪れ、士官から死刑執行のための奇妙な機械の説明を受ける。
士官は崇拝するように、機械について語る。
機械は、囚人をベットに寝かせ、馬鍬に付けられた針で突き刺し、図を刻んでいく。

最初から最後まで、えぇ…!という感じで、恐ろしさがある。毎度お馴染みの何を示しているのだろうという感じだけれど、その分からなさが余計に怖い。

この作品、前の2作品プラス『変身』と少し違う。何か心境の変化でもあったのだろうか。
前の2作品はカフカの顔がチラつき、近かった感覚があったけれど、この作品は遠い。3作品はカフカや主人公自身の不安が滲み、こちらまで届くようだったけれど、この作品は他人の不安を傍観するような感じで、遠い。
だからか余計にひんやりと冷たい。
ポーが人間的な温度ある恐ろしさだとしたら、『流刑地にて』は機械的な冷たい恐ろしさがある。

この作品、朗読好きなカフカが朗読会で披露したようで、だが朗読したところ3人も失神者を出し、その後も席を立って逃げる人も続出したのだとか。確かにこの時代、静かで美しいテナーでこの恐ろしい作品を朗読させられたらそうなるかもな。
でもそのカフカの声で聞けるのは贅沢だなあ。羨ましい。自分もその場にいたかった。



メールって何故こんなにも溜まるのだろう。
いや、溜まる前に整理すればいい話なのだけれど、今度やろう今度やろうと思っているうちにいつの間にか凄いことに…。
8千件以上溜まったメールをヒィヒィ言いながら必死に消している。ほぼ迷惑メールだけどたまに必要なメールもあるからポンポンリズミカルに出来なくて余計に時間かかるひぃ。
今度は、絶対、溜めないように、する!(と、毎度決意しているけど、何度も繰り返しているからあほ。いや本当、今度こそ…)






8月17日(土)

ガチャガチャ、滅多にやらないけれど、たまたま自分の持っている貯金箱の小さい版を見つけてやってしまった。北欧の熊の貯金箱なのだけれど、凄く気に入っているから思わず…。


そしたらそしたら、1番良いなと思っていたやつを当てるという。ついている。
最近ガチャ運が神がかっている。ここまでくると少し怖くなるよ。何か、ある?


背中の投入口もちゃんとあったりと、結構再現率が高い。可愛さもそのまま。

大きい子は考え深げで、小さい子は愛を求めている感じの表情。


並べるともう…。
上の表情の表現はBlueskyで頂いたものなのだけれど、本当にそんな感じに見える。自分には思いつかない素敵な表現。物語が生まれそうではないか。少し切なくて、でも最後はほんわかと心温まるような物語が…。

「大きな熊は拾った小さな熊を見て、この子をどうしようかと考えました。
小さな熊は拾ってくれた大きな熊を見れないまま、自分を必要としてくれないかなと思いました。」

みたいなね。
でも「考え深げ」ではないというね。きっと最後にそうなるのかもね。ただ最後まで書けるほどの力量も、温かな結末に持っていくまでの技量も自分にはないというね。残念だね。潔く諦めようね。はい。






8月18日(日)

三島由紀夫『文章読本』を読む。


(略)小説の文章を歩行の文章とすれば、戯曲の文章は舞踏する文章なのであります。


ほぅ。なんと素敵な表現。
確かに小説は1歩1歩で戯曲は跳ねて回って舞う軽やかさがある気がする。



思い出した。
夏になったら三島由紀夫の『夏子の冒険』を読もうと思っていたことを。まだ買えてもいないよ…。まずい。夏が、終わってしまう。



『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読み始める。
「幸田文と瀬沼茂樹」編を読み終わる。

主に幸田露伴の話。
幸田露伴、昔ながらの父親という感じ。けれど結構遊んでくれたようで。


(略)縄跳びでも、綱渡りでもしてくれました。それから(略)私が二十歳かになったときでしたかしら。鰯の泳いでいるのを見たことがないっていいましたら、「これはいけない」といって、伊豆の三津浜へつれていってくれました。そして船を出してもらいました。囲った鰯ではないんです。畳一枚くらいの小さなグループになって泳いでいるんですね、鰯って。「見ろよ、これだ。これが鰯なんだ」と。鰯というのは、どんなに群れたがって、傷つけやすくって、そして弱い魚かということを、わざわざ見せてくれました。


結構厳しいというのか細かいというのか、だったらしいけれど、それだけ熱心だったのだろうなというのが伝わってきて、ほっこり。
なかなかいないよなあ、見たことないと言って実際に見せに行ってくれる父親なんて。
父親としての幸田露伴の顔をもっと見たいなと、幸田文『父・こんなこと』を読みたくなってきた。せっかく持っているのだから、今度読もう。(と言いつつ、いつになるやら…)

今度はこの対談集を少しずつ読んでいこう。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様にも良い運が訪れますよう、願っております。
ではでは。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?