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檸檬読書日記 川端康成よ、こんにちは。 11月20日-11月26日

11月20日(月)

最近「内田」と見ると、全部が「内田百閒」に見えてくる。「内田」が目に入り、えっ!と驚いてもう一度見ると、大概違う。百閒ではない内田さんだった。
かなり重症だ。

そして何故か「百田尚樹」を見ると「内田百閒」に見えて、2度見してしまう。2度見して、あぁ百閒じゃないやと少し落ち込む。
百田尚樹が悪いのではない。個人的に『カエルの楽園』好きだし、ただ自分が悪いのだ。
眼科行こうかな。それとも、内田百閒に取り憑かれているということで、墓参りかな?



京極夏彦『書楼弔堂 破曉』を読み始める。

明治20年、東京で日々フラフラとしながら過ごしていた男・高遠は、ある日不思議な本屋・弔堂と出会う。
そこはあらゆる本が集まり、本を弔うために、誰かにとっての1冊になるため、訪れたもの達に本(道)をしめしていく。


「迷うと云うのは余計に好いじゃないか」
「そうですか」
「そうだ。(略)世に無駄はないさ」
(略)
「(略)世に無駄はない、世を無駄にする者がいるだけだと--」


「文字も言葉も、まやかしでございますよ。そこに現世はありませぬ。虚も実もございませぬ。書物と申しますのは、それを記した人の歩み出した、まやかしの現世、現世の屍なのでございますよ」
(略)
「しかし、読む人がいるならばそれの屍は蘇りましょう。文字と云う呪符を読み、言葉と云う呪文を誦むことで、読んだ人の裡(なか)に、読んだ人だけの現世が、幽霊として立ち上がるのでございますよ。(略)それが--本でございまするな」
「本は、幾らあっても良いもの。読んだ分だけ世界が広くなる。読んだ数だけ世界が生まれましょう。でも」
(略)
「でも、実のところはたった一冊でも良いのでございますよ。ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば、その方は仕合わせでございます」


そのたった1冊を見つけてみたい。
もしかしたら自分は、見つけるためにたくさんの本を読んでいるのかもしれない。
いつか、見つかるのだろうか。

それにしても、最初から引き込んでくる。
京極夏彦の本を読むのは初めてで、少し固めの文に最初は戸惑ったけれど、慣れるとスラスラ読める。何より、少しずつ手繰り寄せるように、惹き込んでくる。




11月21日(火)

朝から足を負傷した。
足の小指を強打。痛い。またやってしまった。学習しない自分に呆れます。
鬼のような天使も「何度負傷すれば気が済むのだ。狭い所で走るな」とチクチクしてくる。仰る通り。

正座も曲げることも出来ないよ。そして違和感。
まあでも、まだ歩けるから良いか。



田辺聖子『文車日記  私の古典散歩』を読む。古典エッセイ。

この本、紹介されているのを読んで気になっていたら、少し前に古本屋で運命的に見つけたもの。

古典の作品についてかなりの熱量で語られており、あまりの熱に少し置いてけぼりになった。
これは、古典好きか慣れた人でないと、もしかしたら厳しいというかきついかもしれない。それでもたくさんの作品について知れるし、自分は知ってるものが多かったから楽しめたが、どうだろう。
自分も知ってたとて置いてけぼりで、半分くらい分からなかった。でも、置いてけぼりとて、田辺聖子さんの古典愛がかなり伝わってきて、好きなものについて語るのを聞く・読むのは、相応にして楽しい。分からなくても、なんだか嬉しくなる。

何より、言葉が良い。言葉のチョイスが素晴らしい。
特に蕪村を説明する際の言葉。


私は(略)、一句また一句とよむたびに、本を一冊よんだような、豊醇(ほうじゅん)な酩酊(めいてい)を与えられます。蕪村の句は、さながら一篇の小説と同じ重みに感じられたりするのです。


「豊醇な酩酊」
なんて素敵なのだろうか。くらくらしそうだ。

この方が訳された『源氏物語』もそうだったが、読みやすさの中にキラキラと輝くものがある。
訳された『源氏物語』の中で最も読みやすいと言われただけはある。(世間ではなく、古典の先生がそう言っていた)
確かに、他の方の『源氏物語』は1巻か頑張って2巻までは行くのだが、毎回挫折したものの、この方のだけは最後まで読めた。

本の中には『源氏物語』の話もたくさん載っていて、それもまた良いのだが個人的に『萬葉集』の和歌に惹かれた。


君がゆく海辺の宿に霧立てば吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ
(あなたのゆく先の、海辺の宿に霧が立ったら、あたしのため息とお思いになってね。)


霧をため息と見立てるとは、なんて趣ある歌だろうか。こんな歌を女の人に詠まれた男は、きっと何処へ行っても女のことを思い出すのだろうなあ。霧以外のことでも、もしやあれはと思うのではないだろうか。素敵だなあ。

後は、最近行った諸口神社の弟橘媛の話が読めたのと、個人的に「蟲めづる姫君」の話が好きだから、それも良かった。
自分は古典の中で『源氏物語』と『蟲めづる姫君』『とはずがたり』(この2作は確か『源氏物語』の影響を受けているらしい。それがまた良い)が好きなのだが、とはずだけながなかったのが少し残念。
けれど久々に古典に触れられて、楽しかった。
noteはやはい良いですね。こうやって巡り会えるから。

昔、古典作品の訳をやってみたいと思ったこともあったけれど、これを機会にやってみようかな。(言うのはタダ)




11月22日(水)

プチ旅行。


少しチラ見せ。さあここは何処でしょう。なんて、これで分かったら凄いよなあ。




11月23日(木)

京極夏彦『書楼弔堂 破曉』を読む。


「人が大人になるように、国も文化も大人にならなくてはいかん」
「仰せの通りかと」
「政府が頭ごなしに制度を変えただけで近代化は成し遂げられませんよ。国は、民そのものです。国民一人一人がそれぞれに近代化を成し遂げなければ(略)、やがて欧米に平らげられてしまうでしょう。文字通り、赤子の手を捻るように、です」
「しかし」
この国の民草はそんなに子供ですかなと主は問うた。
「いや--寧ろ子供扱いされているのがいかんと考えております。国民が元より愚かなのではない。学ぶことをさせない。教えない」


今でもきっと、ぐにゃりとするのは簡単なのだろうな。




11月24日(金)

内田百閒もそうだけれど、村山槐多も、自分は無邪気な人が好きなのかもなあ。
まあでも、実際にいたら絶対に近づかないのだろうけれど。
好きなものは遠くから眺めるに限る。



アンネ・フランク『アンネの童話』を読み終わる。


「(略)だれでもときどき憂鬱になるわ、そんなに悲観しないで。
気が滅入っているときに探すのはしあわせでしょ。たとえ自分の感情や満足感をあらわせる相手がいなくても、しあわせは一度見つけて心にしまっておけば、けっして逃げやしないわ」
(略)
「まわりじゅうにきれいなものがあるってわかったら、それまでわたしの心で心配ごとばかり突いていた小うるさい声が止まったの。それからは、これは美しい、これは真実ということ以外わたしには感じられないのよ。
(略)
あとになって、(略)わたしは初めて自分のなかでしあわせを見つけたんだとわかったの。たとえ状況がどうでも幸福はいつもそこにあるってことね」
「それがきみを変えたの?」(略)
「そうよ、わたし満足したわ。いつもじゃないけど。ときどき不平は言うわよ、でもひどくみじめではない。悲しみなんて自己憐憫からくるの。しあわせは喜びからくるのよ」

「幸福」


わたしたちはみな同じように生まれました。だれも無力で無邪気でした。みな同じ空気を吸って、大多数の人は同じ神を信じています! それなのに富める人と貧しい人の差が測り知れないほど大きくなるのは、多くの人が、現実にあるこの違いがどこから生じるかわかっていないからです。もしわかっていたら、人間はみな同じだと発見したにちがいありません。だれでも同じように生まれて、そして死にます。浮き世の栄光なんて残りません。富、権力、名声が持ちこたえるのはせいぜい二、三年!
どうして人はこんな束の間のものに必死になってしがみつくのでしょうか?どうして必要以上に持っている人たちは、余分を同じ市民に与えないのでしょうか?どうして地球上でのほんのわずかな年月を、人によっては、つらい目にあわなくてはならないのでしょうか?なにものにもまして大事なのは思いやりをもって与えることで、相手に投げつけてはいけません。だれにだって親しみのこもった言葉を受ける権利があります!
(略)
人間の真の偉大さは富や権力がきめるのではなくて、人格と徳がきめてとなります。みな人間です、欠点短所をもちますが生まれつき徳も備えています。徳を押し殺さないで豊かに育むこと、貧しい人々にも同じ人間であるという感情を持つこと、そこから始めればお金も財産もいらないでしょう。
すべては小さいことから始まります。
(略)
人々はいつも良いお手本にしたがいますから、そのお手本を示してください。そうすればいずれみんなが見習うようになります。人々の心はもっとやさしく広くなって、貧しい人はもうさげすまれないでしょう。
ああ、わたしたちがその高さに達したら(略)世界じゅうが、人間はたがいに思いやりをもつようにできていて、みな平等で、そのほかのなにもかもがはかないと悟るでしょうに。
持たないでいますぐ始められるとは、なんてすてきでしょう。わたしたちは世界をゆっくり変えていくのです!
(略)
なにごともそうですが、多くの人たちはまったく別の方向に正義を探し求め、見当たらないと愚痴をこぼします。目を開いて、いつも自分に正直か確かめましょう!惜しまないで与えられるかぎり与えましょう!いつでもなにかを、親切だけでも与えることはできるのです!すべての人がそうやって、心ある言葉を使ったら世のなかの正義と愛はもっと豊かになります。考えられるかぎり与え、そして受けてください。もっともっと。勇気をもって与えてください!与えて貧しくなった人はいません!
(略)
ひとりひとりのための場所は世界にいっぱいあるし、お金と富と美しいものもみなで分けあうにはじゅうぶんあります! 神はすべての人にたっぷり作ってくださいました! 公平に分配することから始めましょう。

「与えよ」


この本は「童話」と「エッセイ」の2つで構成されている。前半は「童話」で、ほとんどが明るく希望的な話なのに、だからこそ少し辛くなる。
まるで誰かに書いたというよりかは、自分を励まし鼓舞するために書かれたようで、それがヒシヒシと伝わってきて、胸が苦しくなる。

「エッセイ」もあの頃は、というようで、それを壊したと思うと、人の愚かさに嘆きたくなる。
そして、童話もエッセイも12歳から15歳の少女が書いたと思うと、余計にかき乱される。
とてもこの年齢の子が書いたと思えない早熟な文章と思考に驚かされる。いや、そうならざる負えなかったのか。

『アンネの日記』は有名でよく読まれるが、こちらもまた名作というか読み継がれてほしいなと思った。
忘れないために。繰り返さないために。止めるために。

実は自分はまだ『アンネの日記』を読んだことがない。ずっと踏み出せずにいた。でも、やはり読まなくてはなと思った。小川洋子解説本『アンネの日記』も持っているのだが、んー、どちらから読もうかな。




11月25日(土)

京極夏彦『書楼弔堂 破曉』を読み終わる。

読む前は、ただ昔の本屋の話だろうと思っていた。それに妖怪が加わると。
この人の作品は読んだことがなかったものの、妖怪を書く人という浅い知識だけあった。(その知識も、実際合っているかは分からないけれど)だからこの本もきっと出てくるのだろうと思っていたら、読み進めても一向に出てこない。
ただ、匂いはする。それがまた良い。

何よりも、当時の有名どころな人達が出てくるのが良い。あらすじを読まず、本屋の話という知識だけで読んだから、まさか泉鏡花や巌谷小波などの文豪たちまで出てくるとは、嬉しい驚きだった。
中でも、個人的には泉鏡花の話が好き。若かりし泉鏡花の葛藤が良い。

「弔堂」を訪れた者たちは、皆悩み迷いを抱えている。そんな人たちに、主は言うのだ。

「どのようなご本をご所望ですか」

その人にとっての1冊とは、と。そして訪れた者たちは、自分にとっての本と巡り合い、進んでいく。
だが、この本屋で起きた出来事は--

誰も知らない。

明治という時代に生きた人たちの、知られていない秘密を垣間見れたような、ワクワクと沸き立つ、知識も豊富でためになる、文豪好きには堪らない作品だった。

昔昔に買ったものの、放置して1巻しか持っていなかったが、良かったから2巻も買おう。今年だったか、単行本で3巻も出ているらしいから、それは文庫になったら絶対に買おう。
2巻3巻に誰が出てくるのか、読むのが楽しみだ。



高原英理・編『川端康成異相短編集』を読み始める。
「心中」を読み終わる。

芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』を読み終わってしまって、何を読もうかと迷っていたら目に止まったのがこの本。今度は川端康成を少しずつ読んでいくことにする。これも短編集だから、少しずつには良さそう。

それにしても、最初から凄まじい。
妻から逃げた夫から突然手紙が届き、妻はその手紙に書かれた注文に従っていく、という話なのだが、恐ろしい。
タイトル「心中」も、読み終わった後にゾワゾワと虫が這ってくる。

たった2ページの短い話なのだ。
それなのに、濃厚に脳に残る。
夫から妻に、遠くの土地から手紙が届く。手紙には、こう書かれていた。


子供にゴム毬をつかせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を叩くのだ。


だから妻は、娘からゴム毬を取り上げた。言葉通り、××を×した。それから同じような手紙が届き…。
手紙の中に隠されたものに気づいた時、心臓を叩かれたように跳ねた気がした。

やはり、川端康成は凄い。
『少年』もそうだったが、相変わらず文章が綺麗で読みやすい。そして「異相」だけあって、その中に危うさと怪しい魅力が詰まっている。
まだ最初で、数ページだけだけれど、既に魅了されている。完全に捉えられてしまった。これから少しずつ読むのが楽しみだ。




11月26日(日)


まだ食べれないけれど、畑に置いておいたさつま芋を少し持って帰ってきた。
何度見ても大きい。真ん中の小さいのと手前の中くらいのが、通常サイズ(良くお店で売っている大きさ)の芋。
細長いのが小町、真ん中2本が紅あずま、下の1本が紅はるか。
後、金時があるのだけれど、持って来るのを忘れてしまった。

これはほんの1部で、まだまだたくさんある。ダンボール3箱分くらいはあるかもしれない。結構あげたりもしたけれど、それでも大量。どうやって消費しようかなあ。
ふかし芋、天ぷら、大学芋、焼き芋、干し芋。芋ペースト。食べるのが楽しみだなあ。



糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』を読む。


「変わらないつもり」の人を、変わらせることは、
ぼくは、ほぼあきらめることにしています。
できることなら、あらゆる人が
「じぶんって変わるものだ」と思ってくれたらなぁ。
「変わる」ことを怖れない人どうしだったら、
人に会うことは、たいていたのしいと思うんです。


人を変えることは誰も出来ないけれど、自分は変えることが出来る。自分だけが自分を変えることが出来る。
他人が変わらないとモヤモヤするよりも、自分が変わってしまった方が、簡単で楽しい気がする。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「岡本かの子」編を読み終わる。

小説家。
相当強烈な人だったらしい。ナルシストで傲慢。そのせいか、色んな人に疎まれていたよう。追悼も皮肉ばかり。
反して、夫・岡本一平の愛は凄まじい。最早盲目的だ。

岡本かの子が死んだ後6日間泣けくれ、放心状態で食べ物も受け入れられず、傍から見ても明らかに憔悴しきった様子だったとか。
それほど愛し、中年でふくよかな厚化粧といった、世間で化物女と言われていたにも拘わらず、一平は終始、かの子のことを「お嬢さん」と呼んでいたらしい。
その上、かの子が2人の愛人を住まわせていても耐える始末。


かの子は一平と、息子の岡本太郎によって美化され、伝説化した。一平のかの子への崇拝は並々ならぬものであった。


岡本一平の話が強烈すぎて、他の追悼が霞む。読み終わった後も、岡本一平のエピソードしか残っていない。


(略)一平の崇拝と献身的愛情の前では、谷崎の嫌悪は無力であり、世間一般の、かの子への嫌悪はいっそう無力である。むしろ、そういった批判や悪罵や蔑視は、かの子の芸術性を高める材になる。一平は、かの子への追悼のなかで、世間が見たかの子の悪いイメージをひとつひとつ消していった。


きっとあるだろうなと思って調べたら、やはり本があった。

岡本一平『かの子記』

凄く読みたくなってしまった。
後、息子の岡本太郎『母の手紙』も凄く気になる。両方探してみよう。




第2弾があるとは思ってもみなかったけれど、とりあえず旅行の記事を作成中。(本当にプチで、旅行と言えるのか少し疑問ではあるけれど…)
今週中には投稿予定。宜しければ。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様の日々が平穏でありますよう、祈っております。
ではでは。

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