女性の生きづらさ ジェンダー論や女性学を通して 徒然

私、ジェンダー論や女性学をやってみたいんですって話をしながら思ったのですが

この辺の学問ってすごく最近になってできたものなのですよね。

「どういう学問なの?」って聞かれて、私も上手く答えられずネットで調べてみたら、「ジェンダー論 いらない」なんて検索ワードが出てくるくらい!笑

ジェンダー論をやってみたい、なんて言いながらこんなこと言って良いのかと思いますが、無駄じゃないかというこの意見、確かに一理あるとも思うのです。

このジェンダー論や女性学って、その扱う内容によるとは思うのですが、正直なところ個人的な部分が大きいと感じています。

例えば、女性と男性の家事や育児の分担についてや、女性の労働環境や賃金状況について、不妊治療についてなどの問題であった場合。

この辺りの問題は、社会的制度や、明確に人々の間に存在する封建的な考え方、明らかな生活苦境など、目に見えて解決せねばならない社会問題として扱うことが可能だと思います。

ただ私の場合は、自分が生活するなかで感じた生きづらさから派生した結果がジェンダー論や女性学に行き着いたという感じなので、あくまで主観を離れられないように感じるのです。

自身の着たい服装を勝手に性的に解釈される、女性ひとりでは危険とされて行けない場所、デートなどでの望まない性行為や妊娠の危険性などのリスクの差。

女性であれば、どれか一つくらい、また一度くらいは感じたことがある疑問ではないかと思うのですが……

男の人みんなが危険だという訳ではないのと同様に、女性がみんな共通して常に感じ、意識しているともとれない問題が多いのかと思います。

ただ、様々な社会のなかでの女性の物理的、心理的生きづらさには、根底にこれらの問題があると私は考えています。これらの女性が感じる漠然としていたもやもやを、まずはひとつの問題として、形を明らかにすることが大切なのかなぁ、なんて

それにしても、今日この辺りの話をしていて、自分自身に、そしてその状況に無性に腹が立ったので、ここに戒めとして記しておくことにします。

それは、ジェンダー論や女性学をわかっていない男性に対し、自分が説明したり、疑問を挙げるなかで、私自身の完全に雑談や個人的な経験や物事を述べてしまったことです。

そして、話の流れがそちらの方に優勢になってしまい、最終的にジェンダー論や女性学の話からただの自分の雑談と化してしまったことです。

私自身、すごく情けなくなりました。自分で学問として取り扱いたいと言いながら、完全に客観性を失っていました。

自分の経験として、勝手に雑談として話すべき内容であって、それをジェンダー論、女性学について知らない人に対し、説明の延長線上で話してしまったことは、その学問の内容に誤解を与えます。

それと同時に、これは完全に自分の邪推ですが、ジェンダー論、女性学を語ろうとする女性に対して、性的な目を向けられる可能性があるなと思いました。

それだけは避けなければいけないことなのに、自分自身が一番嫌なことなのに。

あと、このように私が話してしまったためか、相手に「男性に興味がないの?」と尋ねられました。

相手は何気ない一言であったと思いますが、今日の私の話を通してもし、一般に言われるジェンダー論や女性学がそのようなLGBTQに関する人々のみの問題だと捉えられてしまったのだとしたら。

また、その時には私もそこまで頭が回らず思うように否定できなかったのも悔しい、何をやってるんだろう

本当に反省です。

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