他人の意見に従うということ─ 「推し」は絶対的な目標 道標 全 すべてだから─

自分で選択するとろくな事がない気がするから、やっぱり親の言うことを聞いておけば良かった

誰かに保護されている環境で過ごす制限された場所の方が、リクスがなくてきっと安心なんだ
私なんかが勝手に動こうとするからこんなことになるんだ、人様の意見に従い続ければ良かった

自分の行動で何かしら、残るような傷を負ってしまった人、

もしくは、自分がやりたくないことを人に言われて従って行動した結果、それなりにこなせた時、

人は、その行動を正当化しようとして、きっとそんな風に思うんだと思います。

「人の意見に従う」というのは、

商品を買うのに誰かのレビューを参考にするというところから

自分の将来の進路を学校の言われるままに進むということまで

結構幅も規模も様々だと思います。

そして、ちなみに書いている私は

上記の、身近な商品から将来まで全部他人の意見が「正しい」と思って20歳まで来ました。

「他人がわざわざ言ってくれるのだから従わないと相手が可哀想」
「私の選択なんて正直ダサいし恥ずいんだろうから、とりま他人の意見に従っとくのが良いか」
「この状況であまり程度の低いものを選んだらバカにされるし、私の無能具合を露呈することになる」
「今までと同じような環境で、社会的にもそれなりに良いって言われてるし、従っといたらいっか」
「せっかくの機会だし、そもそもこうやって口を出してもらえる事が恵まれてるよね感謝しなきゃ」
「他人に干渉して貰える私、注目される価値のある人間なんだ」

正直、そんな気持ちでいたように思います。

だから、1人でいる人に対しては「誰にも構って貰えない人間なんだ、可哀想だ」って思ってたし、(それはそれで「人に構われている私が、その人を構ってあげることで救ってあげなきゃ!」とも同時に思っていた)

逆に、私がひとりでいる時は

周りから「あの人1人で可哀想…」って思われているのではないか、周りから侮蔑されているのではないかと不安で不安でたまりませんでした。

だから、そんな1人にならざるを得ない時間を耐えるために

「私にはこの人がいるから大丈夫!!この人こそが真理、この人さえ私のもとにいてくれれば他の人、人間関係なんてどうでもいいから、この場で何て思われようと構わない」

と、思えるような所謂「推し」を作り出したのだと今になって思うのです。

今まで「推し」という圧倒的崇高な存在が私に誕生したから、ほかの全てがどうでも良くなった(友達とか学校とかまわりの人間関係とか)のだと思っていましたが、

実は、この理論自体がそもそも逆で、

ずっと周りに対して警戒を張っていたり、上手く馴染めている感じがしなかったりするから、突如「私の何かを埋めてくれる存在である推し」に出会うと、一気にのめり込む、それが全てになるのだと、今になって思ったのです。

でも、あくまでこの「上手く馴染めてない感」というのは、あくまで主観の問題だと思います、傍から見たら普通にそれなりに過ごせていても、当の本人が「私だけ浮いてるバカにされてる」って思ってるパターンは多いはず。

同じような経験、されてる方いますか?

私はこれが、世間的に言う「推し」への最上の在り方だと思っていましたが、他の人の話を聞いた時に「もしかして私にとっての推しの存在って、偏ってる?」と思うようになりました。

他の方のお話も聞いてみたいです。

良かったら、コメントください。

わかるって方、自分は違うけど、そういう考え方もあるのかって思っていただけた方のスキも大歓迎です、嬉しいです!

ではでは

ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました!



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