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「文学」について

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 昨日の予告通り、「文学」の話をします。
 
 まだ、十連休から仕事に適合出来ていないのがあれで、以前みたいに休憩中に執筆することができないんですよね。
 題材となる本は読めているし、だいたいなにを読むのかは決めているんですが、まぁまだグズグズだから、帰りの電車でポチポチ書くのもいいかなと思ってます。
 
 んで、本題。
「文学」とは?
 なんなんでしょうね?
 僕は話すのは好きなんですが、なんか熱持って話されるとなんか僕が段々と冷めていく。
 言ってしまえば、政治の話に近い気がする。だれがどの思想を推していて、どういう風に好きとかを集団で討議している様子は、なんか僕は違う気がする。
 いや、勝手にやってて欲しい。
 僕は、レビューを読んでいただければわかるけど、ノンポリでやっている。好きな作家と言うものがいない。いるが、嫌いという訳分からない状態になっている。
 だからかもしれないけど、自分に信念をもって、これが好きだからこうなんだ! って語る人を見ると、おーすごいっていう気持ちになる。
 
 僕は文学史が好きで、だれとだれが関係あって、こことここはこういう派閥で、みたいななのが好きだ。
 どこかで僕は物見遊山な感じがする。
 今も派閥じゃないけど、グループを見るとちょっと首を突っ込んでしまう。
 
 でも、文学って権威あるものだと思うのは、僕だけなのかな? 僕はまだ文学は権威主義的なところがあると思うんですよね。頂点に大御所の作家がいて、段々ランクが下がっていって、一旦、新人賞受賞者で、ピラミッドは途切れるんですよ。そこまでは、正三角形なのに、その下は、ガンダムのドムみたいに、インディーズ作家と括られる者達が、有象無象の量いて、大きい台形を作ってる。
 どこぞの誰かが、「とうに古びたコンテンツ」とツイートして、プチ炎上したけど、僕はそれには、先の理由で納得している。「文学」は「古い」。それに反抗する人たちは、血気盛んで自分たちで「新しい」「文学」を作って行くのではないだろうか。
 そもそも、僕が知っている純文学の定義が古びた文学の定義だ。文芸誌に掲載されたのが純文学だと。また、既成の価値の反転や新しい視点での価値付けだの、まあまあ、言いたいことはわかる。要は「新しいもの」を要求されているという事だ。
 でも、小説家は、新人賞で選考委員のお墨付きを貰わないとデビューできない。それはどこでもそうだが、それが権威主義的のように見えてくる。音楽でも、オーディションがあってそれを受けてプロデューサーに気に入られてデビューする。
 構造は一緒だが、小説の方がエグ味を感じると言うか、選考委員が権威の上にふんぞり返っているように思える。その下で選んでいる出版社の社員も偉そうにしてそうなイメージがある。
 まぁ、被害妄想かもしれないが。
 
 でも、「文学」とはなにかを聞かれたときに、みんなの心にあるものが答えですっていうのが、一番無難なのはわかるし、わかりやすい。みんながみんな、プロになりたいわけじゃないし。でも、表現者として、なにかを持っていて、それを誰かに見せたいという衝動や自信やエゴが集まって、同人誌即売会は行われ、プロになりたい一心で応募してくる人たちが新人賞に応募してくる。
 結局は、小説は芸術なのだと、ここではたと気づく。
 そりゃ、みんな死にものぐるいだ。
 みんながみんなの中で一番を獲りたいんだ。
 静かな戦争なのだ。
 それを天国にいるお釈迦様のように、出版社の人やプロの作家は上から見ているんだ。
 あぁ、無情だな。
 

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