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アンビバレンス

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どんな形容詞も邪魔だ。
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#短編

愛が旅であるから

愛が旅であるから

東京なのか神奈川なのかわからないな、と二年前にセンター直前対策で塾へ通っていた当時も思っていた。蒲田は、東京都大田区であるらしい。駅で降り立ったときの、鋭い曲線を描くモニュメントと思わず入り浸りたくなる商店街は、見覚えがあった。忙しい受験生の記憶にも残っていたのだ。

もつ刺しが人気の居酒屋で女子大生らしき人物が一人で生ビールとポテサラしか頼まない光景は、滑舌が悪いといちいち叱られている新人店員に

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貴女からの贈り物

貴女からの贈り物

よく実った良質のコーヒー豆を二年以上自然乾燥させ、熟成させたオリジナルのブレンドコーヒーを使用しております、と、和紙に似た質感の、茶色い紙に書かれている。トラファルガー色に一滴、ベージュを垂らしたような、落ち着いた茶色だ。つまり、死を告げるような冬の落ち葉色よりは、ずっと明るく穏やかだ。

その上質さ満点の説明文をひっくり返すと、そちらの面は伝票になっていた。カレーセット、コーヒーは食後、トータル

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あるいは友情という名の

あるいは友情という名の

空が燃えていた。楼閣が浮いていたんだ。蜃気楼の彼方に。迸る放射線を閉じ込めるのに失敗したんだろう。それにしたってあそこまで隆々と解き放たれる光は、稀にしか見れないだろうに。私は目が潰れそうになった。 映像が、乱暴に中断される。母親がカーテンを開ける音が聴こえる。と思ったら今度は、遠縁となった友人が呼ぶ声が聴こえる。幻聴だ。こんなの、夢だ。急に恐怖が襲った。自分が何処にいるのか、わからなくなっ

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ぼくは飛んでゆく

ぼくは飛んでゆく

ぼくは、彼女の兄と同じ日に生まれた。春はまだ遠い、寒い日だった。

生まれた頃、足取りはおぼつかず、目をきちんと開けて彼女を見ることもできなかった。彼女はぼくをそっと抱き上げて、つんつん尖った毛を撫でた。

彼女はいい匂いだ。ミルク味の煙草を吸っているに違いない。彼女のセーターの中に潜り込みたくなるんだ。彼女の柔らかな指先は、ぼくの毛を飛び越えて、ぼくの器官まで愛撫する。思わず声が漏れると、彼女は

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贖罪許さぬ愛

空っぽになったアイスココアのグラスには、溶けきらない氷とココアの雫で汚れたストローが残っている。私はストローを掻き回す。氷が弱々しくグラスにぶつかり、虚しく鳴く。
正面に座る彼女は、煙草を吸う。手巻き煙草だが美しい棒状だ。彼女は手先が器用なのだ。煙が私の肺に入り、私は咳き込みそうになるのを堪える。まるで幸せを逃すのを怖れているかのように。
私は煮え切らない棒状の磁石を思い浮かべる。私と彼女

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カミングアウトしなければ語れない凡庸さ

カミングアウトしなければ語れない凡庸さ

時計の針が十二時を回りトイレチェックを済ませると、私の立場はバーテンダーからお客に変わる。終電までの二十分かそこら、先程まで注文を受けていた当のカウンター席に座り、その日客から注文されたカクテルの中で気になったものを自分で頼む。呪文並みに脈絡がなく種類が豊富なカクテルは、実際に飲んで覚えるのが一番手っ取り早いのだ。それに私は、日本の繊細さが遺憾なく発揮された藝術的なカクテルの色が好きだ。五、六時間

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