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あるいは友情という名の

空が燃えていた。楼閣が浮いていたんだ。蜃気楼の彼方に。迸る放射線を閉じ込めるのに失敗したんだろう。それにしたってあそこまで隆々と解き放たれる光は、稀にしか見れないだろうに。私は目が潰れそうになった。 映像が、乱暴に中断される。母親がカーテンを開ける音が聴こえる。と思ったら今度は、遠縁となった友人が呼ぶ声が聴こえる。幻聴だ。こんなの、夢だ。急に恐怖が襲った。自分が何処にいるのか、わからなくなったのだ。

思い切り暴れたはずの足が空ぶって、白く無機質な壁に打つかった。目覚まし時計より大きな、ドンっと、鈍い音がした。そうして、目が覚めた。

朝だ。さっぱりと晴れた、清い朝だ。夢と余りに不釣り合いで、私は心なしか汗をかいていた。冬なのに。
一年の最後の月の25日だ。寮の共有キッチンで賞味期限の切れたパサパサのパンを嚙り、ニュース番組をつけた。この時間はニュース番組しかやっていないのだから、選択の余地はない。CMになると、耳の奥底の神経にタコができるほど聴いたクリスマスソングが、今日もかかってきた。その通りだ、クリスマスが今年もやってきたし、コンビニのチキンは文句なしに美味そうだ。そして、それが、何だって言うのだろう。

私は夢でまで休まらないのだし、それに、何と言っても。想いを掛ける相手は、今頃ベッドにいる。私が知るはずのない男性と。けれど、彼女の相手であるその男性は、彼女の口から幾度か名前が溢れた人だ。そしてそれは、無駄に豊富な私の想像力を刺激するには、充分な情報だった。おかげで私は夜も眠れず、眠れたと思ったら悪夢に苛まされる。

好きな人が自分ではない誰かと性なる夜を過ごしたと考えてみる哀しみは、キリストでも耐え難いだろう。喜怒哀楽を超越し、倦怠感に包まれる。

二人がどのように過ごしたかなど、私が知る術はない。知りたいとも思わない。後から断片的に、彼女から情報を得る可能性がある、というただそれだけなのだから。

彼女が恋愛関係ならびにそれに近い男女関係にある相手の話を私にするのは、アンビバレンスな感情を引き起こす。
彼女がそうした話をできるほど、私を信用してくれているということ。その憐れなほど純粋な喜びとは逆に、彼女は決して、私が彼女に求めているような感情を持ち得ないのだ、だからこそ私にそんな恋愛や性愛の話を持ち出せるのだという、徹底した事実。絶望といっても足りない。

あれは、いつものようにカフェで雑談していたときのことだ、こんな僅かな出来事でも私にとっては、記念にも記憶にも記録にも残る立派なデートなのだけど、彼女は私のことを指して「友達」という表現を使った。他に言いようがないから、というのでもなく、本当にそうとしか思っていないという感じで。

それだけのパーソナリティスペースに入り込めているのであれば、私は喜び感謝するべきところだろう。というのに、なんでこうも息苦しく、適切な言葉が見当たらないが、多分、悔しい、のだろう。

好きな人から発せられる「友達」という言葉ほど、切なくさせるものはない。何と言ってもそれは、無邪気な笑顔そのままで、空は青いと言うのと同じような自明さで、ごく自然に、発せられるのだから。

手を伸ばせば触れられるほど側にいるのに、誰よりも遠い。彼女は蜃気楼の彼方にいる。魅力を放出する楼閣だ。私は夢でも居場所を失い、彷徨い、彼女を求めている。寝ても起きていても同じことなのだ。
けれども、同じ愛という枠組みで語れるのだから、友情も恋愛も同じことなのだ、と言い切ることはできない。友情と他の感情の境界を外そうとどれだけ努めても、思い知らされるのだ。彼女自身によって強く。

性別も年齢も超越する人になりたい。その願いは、一年が終わろうとする今、自分の意志でも、ましてやサンタクロースでも叶えられることのないものだ。

それでも、問い続けよう。
私のままで、どこまで近づけるだろう。

#エッセイ #短編 #小説 #セクシュアリティー

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