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貴女からの贈り物

よく実った良質のコーヒー豆を二年以上自然乾燥させ、熟成させたオリジナルのブレンドコーヒーを使用しております、と、和紙に似た質感の、茶色い紙に書かれている。トラファルガー色に一滴、ベージュを垂らしたような、落ち着いた茶色だ。つまり、死を告げるような冬の落ち葉色よりは、ずっと明るく穏やかだ。

その上質さ満点の説明文をひっくり返すと、そちらの面は伝票になっていた。カレーセット、コーヒーは食後、トータル1630、日付は12/25。

忘れていたはずなのに、否応無しに思い出す。
店内では、クリスマス限定ベルギービールのメール・ノエルが宣伝され、手脚の異様に長いサンタクロースが、出来損ないの黒電話のような意味不明な機械に、どっかりと腰を据えている。サンタクロースの赤帽子は剽軽なくねり方をして、天まで届けと伸びている。
店内の壁の窪んだスペースに、松ぼっくりが置いてある。銀色の造花もあるが、半分以上は本物の松ぼっくりであるらしい。

目を撫でるような優しいライトが、半円形の天井から複数ぶら下がっている。クリスマスツリーの飾り付けにピッタリな、人を内部からあたためる光だ。無防備に垂れ下がっているように見えるが、実際は、ライトを支える太めの直線と、朝顔の蔓のようにその生命線に器用に絡みつく線があり、決してブレることはない。まるで、蜘蛛の糸。ちょうど今、鞄に芥川龍之介全集が潜ませてあることを思い出す。

この吉祥寺駅徒歩数分、地下に位置するコーヒーホールは、クリスマスの喧騒から身を隠すには丁度いいはずだというのに。どこまで行けど、東京はクリスマスに染まっている。

いいや、どちらにせよ、覚悟はできている。私は悲哀漂うクリスマスからは逃れられないのだと、知っている。痛々しいほど、というよりもはや、痛みすら感じることの出来ないほど心身は麻痺し、元から全然詳しくないコーヒーの味が、いくら上等なものであれ、湯気の出るほど熱い液体であることの他に知覚不能な状態に、私は陥っていた。

この地下のコーヒーホールは彼女が勧めてくれた店であり、吉祥寺は彼女が東京で一番好きな街であり、芥川龍之介は彼女の好きな作家であるのだ。

彼女、というのは、私が最もその世界観を知りたいと思える相手であり、今頃東京のどこかで、私ではない誰か年上の男性と、デートをしているに違いない人のことだ。

私は彼女への想いを昂めるためにこうして、芥川龍之介全集を持ち、吉祥寺の、彼女が教えてくれた店に、独りぼっちでやってきた、と言えてしまう。つまり私は、自爆するために外出したようなものだ。
今更嘆くのは無駄なことだ、今朝目覚めたらプレゼントが置いていなかったからといって、お利口にしていなかったこの一年をジタバタ後悔する子どものように、私の心は幼いというのか。

満席以上の店内に戸惑うようにやや覚束ない様子で、若い店員の一人が、カレーセットを持って来た。一目見て、レーズン嫌いな私は、唾がさらりと引いていくのを感じた。

カレーライス用の白いご飯に、レーズン。それも一粒ではなく、ラッキーだとでも思ったのか、七粒も飾られている。えげつない禁忌。それを潔く、この地下ホールでは狂いのない常識だというていで、提供していただいた。
小学校の給食で出されるぶどうパンのレーズンを一つ残らず取り除いていたこの私が、今彼女の勧めてくれた店で、彼女が美味しいと言っていたカレーライスを前にして、避けることなく口に含んだ。そしてカレーのルーとともに咀嚼して、飲み込んだ。レーズンの潰れる感触は、なんだかむず痒い。

早々とレーズンを口内から追い出すことに成功した私は、噛めば溶けるほど柔らかなポークを、存分に味わう。
そうしてロッキングチェアをゆらゆら揺らしながら、ぼんやりと隣を眺める。海賊映画に出て来そうな木製の樽に、靴と鎖が計算尽くされた適当さで置いてある。
何もかもが絶妙なバランスで、まるで彼女のようだ。男女関係において危ない橋を渡っている彼女を、私は応援したいとも、壊したいとも思う。

食後のコーヒーが運ばれてくる。
オードリーヘップバーンがパリを颯爽と歩くシーンで流れていそうなテンポの良いミュージックが、心地よく耳へ入る。私はブレンドコーヒーの素の味を消さないように、控えめにミルクを注ぐ。

洋楽に触れるようになったのも、数ヶ月前まで好んで飲むことのなかったコーヒーを注文するようになったのも、煙草の副流煙にちっとも不快感を覚えることがなくなったのも、すべて、彼女のせいだ。

ただの日曜日がクリスマスとして私の心を抉るのも、目の前で談笑するカップルを見て泣きたくなるのも、こうした哀しみを淡々と描いていながら、どうしてか、笑みが溢れそうになる、この狂った感情が生じるのも、すべて。

彼女が幸せならそれでいい、と言えるほど、私は人間離れした感情を備えることは出来ないが、少なくとも一言で言える感情に支配されることもない。

クリスマスの前には、どんな形容詞も、邪魔だ。雪に掻き消されればいい。

#エッセイ #短編 #小説 #恋 #クリスマス

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