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ぼくは飛んでゆく

ぼくは、彼女の兄と同じ日に生まれた。春はまだ遠い、寒い日だった。

生まれた頃、足取りはおぼつかず、目をきちんと開けて彼女を見ることもできなかった。彼女はぼくをそっと抱き上げて、つんつん尖った毛を撫でた。

彼女はいい匂いだ。ミルク味の煙草を吸っているに違いない。彼女のセーターの中に潜り込みたくなるんだ。彼女の柔らかな指先は、ぼくの毛を飛び越えて、ぼくの器官まで愛撫する。思わず声が漏れると、彼女はぼくの頭部を撫でて微笑む。ぼくだけに向けられる彼女の目。くしゃっとした笑顔。その瞬間、ぼくはこの空の下で一番の幸せものだ。

ヴェロキラプトルみたい。
彼女はある日、ぼくを見て言った。彼女なりの褒め言葉だったと思う。彼女は随分おもしろいんだ。
ある時期、彼女は『ジュラシックパーク』を三ヶ月間、毎日観てた。わざわざポップコーンとコーヒーを用意して正座しながら観ている日もあれば、編み物をしながら観ている日もある。もし彼女が手を怪我したらいつでもぼくは彼女を舐めてあげるのだけど、器用な彼女は映画を観ながらでも手作業ができてしまうんだ。
彼女は毎回、同じシーンで興奮していた。テレビの中のお姉ちゃんが、恐竜の登場にビックリして、手に持った緑のゼリーをぷるぷる震わせるところ。
ねえ、緑のゼリーだよ?!赤でも青でも黄色でもなく緑の、しかもプリンでもなくゼリー。緑のゼリーって?!スピルバーグこれやりたかったんだろうな~。緑のゼリー!ぷるぷるって。

ぼくは彼女の興奮はわかるけど、言ってることはさっぱりわからなかった。彼女が嬉しそうだからぼくも嬉しくなっただけだよ。それで満足。

ぼくはちょっぴりオトナになって、燃えるような赤いヘアスタイルで、外を駆け回ることができるようになった。家の周りは豊かな森で、近くの学校からは映画ソングのリズミカルな音が聴こえる。ぼくはそれに合わせて、飛ぶように跳ねる。彼女が映画好きなおかげで、ぼくも多分詳しくなったんだ。毎日毎日、とても楽しかった。このまま続くと思っていた。

あれは、彼女がバイトで夜遅い時期だった。終電で疲れ切った彼女が帰ってくるのを、いつものようにぼくは心待ちにしていた。名前を呼んで、撫でてもらうために。ぼくは早寝早起きだけど、彼女のためなら遅くまでそっと起きて、彼女の胸元に触れるつもりだったよ。そしてやさしく抱いてほしかった。
そのときだ。ぼくはうとうとしていて、気づかなかった。真っ暗闇で目が二つ、閃っていたんだ。刺すような光だっただろう。だけどもう、気付いた時にはどうしようもなかった。奴は光の速さで襲いかかってきた。ぼくは小屋から引き摺り出され、鳴き声をあげる間も無かった。翼は折れ、あたたかい血が溢れ、動けなくなった。

帰ってきた彼女は、悲鳴を上げた。ぼくにはそこが天国か地獄か、夢か現実か、なにもわからなかった。それでいい。

泣かないで。ぼくが人間だったら最期にそう絞り出せたかもしれないのに、残念だな。

でもぼくは知っている。彼女がぼくをとても大切にしてくれたこと。ぼくが生まれたばっかりのとき、お菓子のひよ子さんと一緒にお皿に乗せられて撮った写真、彼女はずっと待ち受け画面にしていた。ぼくが立派なトサカを持つようになってからも、いつまでも変わらない愛で、ぼくを撫でてくれた。ぼくは幸せだったよ。

#小説 #エッセイ #短編

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