見出し画像

『楊貴妃の里』- 限界集落を救う傾国の美女が眠る地

偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は山口県長門市油谷向津具下久津にある『楊貴妃の里』を取り上げる。


『楊貴妃の里』とは

楊貴妃が難を逃れ漂着したとされる場所

向津具の町並みを見つめる楊貴妃像。

『楊貴妃の里』とは、世界三大美人の一人である楊貴妃が流れ着き、その後息を引き取ったとの伝説がある地。歴史上では、中国が唐の時代(618~907年)、755~763年にかけて中国で起こった安史の乱にて没したとされている。しかし実は、そこで難を逃れ亡命し、756年山口県の向津具半島に漂着したという。その後地元住民は救護にあたったが、既に衰弱しきっていた楊貴妃はほどなくして亡くなった。

そして埋葬された場所が、龍伏山天請寺二尊院(通称、二尊院)の境内にある「五輪の塔」だという。一体なぜ、このようなとんでもない話が残されているのか。

近くの港。
墓の入口。
県指定の有形文化財でもある五輪の塔。

二尊院に残る古文書と2枚の女性の絵

向津具にある二尊院。天台宗の開祖、最澄が開基である寺院だが、ここに残されている2冊の古文書『二尊院由来書』『楊貴妃伝』が発端となっている。この古文書は1766年、当時の二尊院の住職がこの地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめたものだが、そこに楊貴妃伝説の記録があるという。またその後、真偽は不明だが、1987年には二尊院の物置から、端麗な中国女性の姿を描いた2枚の絵が見つかったという報道がなされ、テレビ局が二尊院の墓の採掘を申し入れるなど、地元では騒ぎになったという(『朝日新聞 朝刊』1987年9月16日)。

二尊院は基本無人で、入用であれば掲示されている住職の電話番号に連絡する。

日本各地に残る楊貴妃伝説

熊本県の天草にも同様に漂着した話が残っていたり、愛知県の熱田神宮では墓があるなど、日本には楊貴妃に纏わる伝説が多い。その中で山口県の向津具近辺は、古来より朝鮮や中国などの玄関口として交易盛んな地域であった。その観点では、この地域の特色を生かした説得力ある伝説ともいえる。とはいえ、史実とするには大いに怪しいこの伝説が、なぜ楊貴妃の里として整備され地域を代表する一大スポットとなったのか。

楊貴妃伝説を用いた村おこし

深刻な過疎問題

高度成長期以降、都市部へ人口が急速に移動したことで、農村・漁村地域は全国的に過疎化していった。油谷町(現在の長門市)も同様に過疎高齢化が進み、このままではいずれ消滅の可能性が高い。人口流出を食い止め、活性化を図ることが喫緊の課題であった。

静かな港町。
海の反対には油谷地区を代表する棚田が広がっている。

政府からの資金を得る

バブル経済の中で行われた国の政策「ふるさと創生事業」。地域振興・経済活性化のために1億円を交付するという政策だが、最大のポイントは使い道自由ということにある。これにより各自治体は、公共施設の設置、インフラや観光整備など様々な用途に費やした。油谷町でも、墓のある二尊院周辺を、町おこしと日中友好のシンボルとなることを目的に整備が進められた。そして1993 年、楊貴妃の里は完成した。

住宅街の中にポツンと案内板が出ている。

ちなみに、以前私が撮影し取り上げた、石川県の『伝説の森 モーゼパーク』もふるさと創生事業を活用し作られたものである。合わせてご覧頂きたい。

楊貴妃像をシンボルとする大きな広場

広場のシンボルとなっている楊貴妃像は、中国の西安美術学院に依頼して制作した、高さ3.8m(38歳没にちなんで)の大理石製である。その他、中国伝統様式を思わせる休憩所などが醸し出す異国情緒感が、のどかで日本の原風景的な地域と対比を生んでいる。

そうしてオープンした当初は多くの観光客で賑わったそうだが、バブル崩壊後は瞬く間に閑散としていった。加えて2005年、油谷町が合併し長門市となってからは徐々に手入れされることがなくなり、放置状態が2011年まで続いた。

今は目立った汚れは見えない。
中央の像から見て、左の瓦屋根の建物が本堂。
のどかな町で際立つ唐突な中国建築。

地域活性化の祭り、楊貴妃「炎の祭典」の開催

2007年、二尊院第60世住職に就任した田立智暁氏。後継ぎとなるべく各地で修行後、帰郷した田立氏が目の当たりにしたのは高齢化し衰えていく長門市と、地元住民から届く荒れ果てた『楊貴妃の里』への批判だった。危機感を覚えた田立氏は地元関係者とともに2010年、NPO「フューチャー長門」を設立。村おこしと地域づくりとして、祭りを企画立案する。

二尊院には昔、修験行者である山伏が大勢入山しており、柴燈護摩という修行が行われていたという。その寺伝をもとに、楊貴妃鎮魂の思いを込めた火渡り神事と位置付け、2011年、楊貴妃 「炎の祭典」を開催する。以降は現在に至るまで(コロナ期間を除く)、毎年10月に行われる地域の一大祭りなった。また、こうした活動が評価され、2021年に二尊院は環境省のエコツーリズム大賞特別賞を受賞している。この祭りについては、いずれ撮影に臨みたいと思う。

美術家ハセガワタカシ氏による、2012年の祭り時に披露された彫刻が設置されている。

ちなみに、二尊院は宗教施設であるが、楊貴妃の里は境内とはいえ公共施設である。そのため憲法における政教分離の原則から、本来は宗教行事を行うことはできず、補助金などの支援を受けたりすることができない。

この点について「フューチャー長門」の近藤乃梨子氏は、あくまで楊貴妃伝説を用いた地域活性化が狙いのため、特定の思想や信仰を助長、促進するような目的の活動ではないとしている。その理解のために、行政や周囲への詳細な説明や関係の構築を地道に行ったことで理解が得られ、今日まで続く祭りとなった。

その目的は、地元の人たちと一体となって、地域資源を見直し、向津具ならではの多様な文化と豊かな自然を活用し、人々が訪れ、住みたくなるような魅力ある地域づくりに貢献 することであった。

(中略)楊貴妃「炎の祭典」は、特定の宗教を援助、助長、促進又は圧迫、干渉する目的や効果を持つものではないから、宗教的活動ではない。しかし、主催者の意図が 公益的活動であったとしても、主催団体の構成員や協賛に寺社や寺社関係者の名が連なる だけで、宗教的活動ではないか、との疑義が生じることがある。祭りの核が神事や仏事で あったとしても、前述の判例で示されているように、宗教的活動かどうかを検討するにあ たっては、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断しなければならない。このように、画一的な判断ができないからこそ、公益的活動としての開催意図を誤解なく伝えることが重要であるとともに、日ごろから行政や関係諸機関との信頼関係を構築しておく必要もある。

近藤乃梨子『楊貴妃伝説で村おこし』集団力学 2013年 第30巻

終わりに

地域振興への希望と活力を与える世界三大美女

中国メディアでは度々、なぜ日本に楊貴妃の墓があるのかと報じている。中国にとっても大切な偉人であるからこそ、そのような伝説が日本にあることが疑問なのだろう。一方で、国境を越えて日本各地に伝わるほど、それだけ古くから楊貴妃が親しまれてきたということである。その点では、楊貴妃伝説は当時の価値観や認識がわかる地域史料なのかもしれない。

地域を盛り上げる資源として、改めて日の目を見た楊貴妃伝説。助っ人外国人の如く、今後も継続して地域振興に貢献していってもらいたい。

グーグルマップでも楊貴妃ロマンロードと表記される。驚いたが、そのお陰で道に迷うことはなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?