【文学賞っていつからあるの?】文芸公募百年史part3
第3回 大朝1万号記念文芸
第3回は6.21に更新予定でしたが、遅れました。すみません、お待たせしました。
今回は、田村俊子を発掘した「大朝1万号記念文芸」を取り上げます。小説にもドラマがありますが、小説のような人生もあるんだなあという話です。
樋口一葉につぐ女流作家を発掘
前回、明治37年に大阪朝日新聞が実施した「創刊25周年記念懸賞長編小説」を紹介したが、大阪朝日新聞は明治43年にも懸賞小説を公募している。
6年後では創刊31年でキリが悪そうだが、この年はちょうど創刊から1万号があり、これを記念して公募タイトルは「大朝1万号記念文芸」だった。
1等賞金はなんと破格の1000円。6年前の賞金は300円だったから3.3倍。
前回、明治時代の300円は現在の100万円と書いた。それは1円≒3800円という計算だったからだが、別の資料には1円≒2万円とあり、この比率でいうと、賞金1000円は今の2000万円ということになる。現在、文学賞の最高賞金は『このミステリーがすごい!』大賞の1200万円だが、これを軽く超える! 当時も大注目公募だっただろう。
この1000円を射止めたのは、田村俊子「あきらめ」だった。瀬戸内寂聴も共鳴し、『田村俊子』を書いているあの田村俊子だ。
俊子は明治17年生まれ。樋口一葉につぐ明治期の女流作家であり、幸田露伴の門弟でもある。また、受賞する前年の明治41年には、新たな表現の場を求めて、日本初の女優・川上貞奴の女優養成所1期生となって舞台にも出ていたという。多才な人だったようだ。
別れ話をしていたら、受賞の知らせが!
俊子は懸賞小説に応募したくて書いたのではなく、夫に書かされて応募したという。
夫は田村松魚かつおという幸田露伴の高弟で、一時期は活躍し、明治36年から6年間、アメリカに留学している。これがいけなかった。帰国してみると日本の文壇は自然主義文学全盛期になっており、松魚はすっかり時代遅れの作家になってしまったのだ。
食うに困った松魚が目をつけたのが、妻の俊子だった。俊子とは明治42年、未入籍ながら結婚しているが、松魚は同門の俊子に才能があると見込んでいたようで、尻をたたいて小説を書かせた。俊子は乗り気ではなかったようだが、それでもなんとか書き上げ、くだんの「大朝1万号記念文芸」に応募する。松魚の鼻先にはきっと賞金1000円がチラついていただろうね。
しかし、応募しただけでは賞金は得られないから、二人は生活苦から毎日ケンカばかりしていたという。「生活費は?」「仕事がないんだ」「もう別れたい」「じゃあ出ていけよ」ということになり、話がまとまってまさに俊子が家を出ようとしたとき、郵便が来る。それが受賞の知らせだったというのだから、なんとも劇的だ。
生き方そのものが小説なような半生
懸賞小説が別れを止めてくれたわけだが、受賞後、明治文壇の寵児となっていく俊子に対し、松魚は鳴かず飛ばずで、二人の関係はすっかり冷めてしまう。そんなとき、俊子の前に現れたのが年下の恋人、鈴木悦。トルストイの『戦争と平和』を完訳したことで知られるジャーナリストだ。ただ、鈴木悦には妻があり、俊子も未入籍ながら夫がいたのでダブル不倫。これを世間が許すわけもなく、二人はカナダに逃避行する。
なにそれ、映画かよ!
鈴木悦は帰国後の昭和8年に亡くなっているが、その3年後、俊子は作家の窪川鶴次郎と恋仲になる。これも不倫関係で、鶴次郎の妻はなんとあの佐多稲子だ。つまり、俊子は佐多稲子の夫を寝取ったことになるわけだが、佐多稲子はそんな三角関係の俊子没後に創設された田村俊子賞の選考委員を務めている。恋敵でもあったが、恋に暴走する俊子をどこかで憎めないと思っていたのかもしれない。ちなみに鶴次郎と出会ったとき、俊子は50代だ。
恋多き俊子はその後、単身中国に渡り、太平洋戦争末期の上海で脳溢血のため倒れ、三日後、帰らぬ人となった。生き方そのものが小説なような半生は、終わりも劇的だった。
波乱の人生は露伴に師事し、田村松魚と出会ったことから始まったが、懸賞小説というものが俊子の人生の岐路となっているのは確かだろう。以前、公募ガイドのキャッチコピーとして「人生変わっちゃうかもマガジン」を掲げていたことがあったが、俊子はそれを地で行った人だった。
「文学賞っていつからあるの?文芸公募百年史」
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