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書くことと話すこと

夜になると自分の中にもやもやとしたものがそこにふんわりとあることを感じる。それは冬よりは春に多くなって、暖かくなった気候もあいまって焦りと不安がないまぜになった感情に変換されたりする。私は一人部屋の中にいる。

机に座ってパソコンを開き、ぼんやりした思考から出てくる言葉を打ち続ける。
ぼんやりとしたものを言葉に変換しようとすると、そのぼんやりは少しずつくっきりとしてきてなにかしらの感情であることがわかってくる。さらに打ち続けていくとその感情は普段の生活のなにを気にして生まれたものなのかということがわかってくる。うまくは書けないけれどどうやら私はいまこういう状態なのだということがわかってくる。

歳を重ねれば重ねるほど自分のことがわかると思っていた。
たしかにそれは合っている。けれどどんどん何かが希薄になってくるような感覚もあって、生活に慣れたり、その環境で生きていくことに慣れてしまうことで全体的に意識が希薄になるような気がしてならない。繰り返しの日常の中に私はほとんどいなかったりする。それは不思議な感覚で、怖い感覚で、しっかりと繋ぎ止めておかないと意識が埋もれてしまって私が私であることを忘れてしまうような気がしてならないことがある。自分の意識が常にそこにあるものではなくて、そこに留めおこうとしなければ逃げ出してしまうような存在になってしまったことへの不安。

そんな不安はしっかりと自分の中身を見つめないと見つからなくなったりしていて、日々の生活で蓄積する漠然とした不安の正体はもしかしたらそれなのかもしれないと思いはじめた。文字にすることで、話すことでわかること。

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