見出し画像

自分を不機嫌にする張本人は自分自身と気づくまでの4年間【これまでのnoteまとめと索引】

さすがにnote内に記事が溜まり過ぎたので、索引的にまとめた記事を、一つ作っておこうと思いました……が、いつもの年初みたいに代表的な記事を並べる「だけ」だと、「またかよ!」と思われそうなので(笑)、ちょっと今回は趣向を凝らして見ました。
この4年程で考えたことをここに「一つの文章として」まとめ、(ンなことできるのか?と思いながらも書いてみました。笑)で、記事内の要所要所にリンクを貼って、もし読んでいて「そこを詳しく!」と思っていただくことがあれば、そこからリンク先(これまでの私の記事)に飛んでみていただく、と、そういうまとめ方を試してみました。

(では、本文をどうぞ!)

このまとめ記事の元タイトルはこうだった。

-「三毒」を制す為の処方箋を自分なりに探した日々-

一言で言うなら、「自分を不機嫌に、更に言えば不幸にしているのは、自分自身が発生させている『三毒』だったのだろうな」ということである。

「三毒」とは。

さん‐どく【三毒】
〘名〙 仏語貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つ煩悩むさぼること、怒ること、理非のわからないことの三つ。

精選版 日本国語大辞典』より


これらの「毒」は、世の中や他者を毒する面もあるが、何より、「自分自身を毒する」というそれこそが問題なのである。

『それにしても何故、わざわざ「自分を害する成分」を、「自家発生」させねばならんのだ?!?!』
と、思ったわけである。

そうなのである。
外から入ってきた毒なら、余っ程複雑怪奇なものでもなければ、身体も心も「体外排出」しようとしてくれるのが自然だし、(それには時間がかかる場合もあるかもしれないが、その場合でも必ずその「日にち薬」は効くはずなので、)自ずと最後はそうして「処理されていく」ものなのである。

では。
それとは別に、何故か「いつまでも体外排出されない類の毒」があることについて。
――そう、「そのタイプの毒」こそが、私を永続的且つ慢性的に苦しめていることまでは、大方見当がついていたのだが。
でははたして、その毒の正体とは?
……と、ここ何年間も考え続けた結果。
「私の中からなかなか出ていかない類の毒」とは、「自分自身により自分の内側からわざわざ発生させ続けている類の毒」なのでは?と気づいたわけなのである。

で、上記の「三毒」という考え方を知るにつけ、なるほどなるほど、先人はよく言ったものだな、突きつめて考えれば、自分を苦しめている「毒の正体」は、この「三毒」に行きつくな、と感じたわけなのである。


・日常生活に支障をきたさない程度には健康で
・食べるものに困ってもいないどころか、だいたい毎食美味しいものを食べられていて
・寝る場所に困ってもいない

――そんな自分が一体何故、何に、毒されてここまでどんよりとした気持ちにならなければならないのか?!なり続ける羽目に陥っているのか?!?!

ええいっ!どうなってんだっ!
自分のことながら、あらためて理解しようとすればするほど理解に苦しむぞっ!
何なんだよっ?自分っ!!

と、即ち思ったわけである。(笑)

そして、そんなふうに「自分が本来の自分でいられなくなる」くらいなら、もう何もいらなくない?とも、ふと思ったわけである。
――不機嫌になり、ある種の「鬼」みたいになってまで、これ以上何かを求めなくてよくない?更なるものを望まなくてもいいんじゃない?と、そう思ったわけである。(何故なら、それはただただ「損だから」である。笑)

餓えた鬼」みたいな精神でいると、結局、「使えない・回せないもの」を延々と「溜め込むだけ」なのだ。
で、溜め込むと、重くなるのか、それが殊更に(回せばいいのに)回せなくなるというか、ますます回らなくなるというか、言うなれば「目に見えて停滞していくなあ」という感じになるのである。
――一言で言うなら、「沼地化」していくのである。


……。

とはいえ。

これらの「毒」は、どうしたってゼロにはできないのも現実である。(この世には「沼」だってそりゃああるでしょうよ、ねえ?――現実に生きる「人間だもの」。笑)
だから元タイトル、あえて「解毒」「効く」とはせず、「制する」としたのである。


何ならこれまで私は、一種の毒とはいえ、「欲」も、「怒」も、それはそれで必要な部分もあるともあるいは書いてきた。

まず、「何も欲しない」と、どうも自分の生物としての生命力自体が弱まる気がするし。

そしてまた、「何に対しても怒りを抱かない」となると、そこに目を付け嗅ぎ付け利用してやろうと群がってくる輩が(ごく少数ではあるけれど、でも)この世には存在するので、やはりせっかくこの世にて自身へと配分された「自分の身体とそれに付随する限られた時間とエネルギー」を、自分で守るそのためには、「怒」もまた必要な感情であるとも思うのだ。

で、――それらを踏まえた上で。
(必要な側面はあるにせよ、それでもやはり、)「欲」については、わざわざそのせいで自分の気分までもを自らどんより沈ませ澱ませ濁らせることのないような「欲」であって欲しいし、また、「怒」については、わざわざ感情を爆発させて機嫌を修復できないくらいに粉々に破壊することのないような「怒」であって欲しいよな?と、こういう結論にいきついたわけである。

だってそういう機嫌ひいては自らを、破壊しないタイプの「欲」や「怒」にしておかないと、行きつく先は自分自身とその持ち時間を――何なら顕著につまりわかりやすくその健康までもを――害する・傷つけることになるからである。
私は、「健康至上主義」なのであるからして。
(「健康至上主義」←ここ、試験で出るから赤線引いておいて!笑)

例えば胃に潰瘍ができる原因になり得るような、そこまでの「欲」や「怒」は、自分でもバッサリとお断り!なのである。
――何で生きていく上で何より大事な「胃」に(「食い意地至上主義」でもある。笑)、わざわざ「自ら」穴を開けないといかんのだっ?ええっ?

と、いうわけで。
健康のために、「三毒」まあまあ控えめで、とにもかくにも何よりも「機嫌よく」を最優先で、私は生きていきたいのである。
――自分で真っ先に自分の身体を大切にしないで、誰にしてもらおうというのだ?
自分の身体と心の最終責任者は、自分自身だ!
(そして「不機嫌」というものはどうしても「それに無関係な人」まで巻き込みがちだしね。)

なので、私の「機嫌を乱すもの」――「不機嫌」の元となるものは、いかなるものであろうとも、問答無用で「モノ扱い」とさせていただくことにしている。
概して、自分の外部からやってくるほうの不機嫌の元となるものは、私の場合、自然現象でも偶然の出来事でもなく、「人が生み出す理不尽や悪意」だったりするので、それなら「そういう人間」については、「人間だと思わないことにする」と決めたのである。
――さすれば、その存在すらも、「雨や風などの自然現象の一部あるいはそれと同列」つまり『本来なら心を持っているはずの「ヒト」ならともかく、「モノ」や「コト」なら、ま、そういう存在も仕方ないと捉えるしかないじゃんね?』とも思えるから。(笑)

と、そんなこんなで。
以上、これまでのnote活動4年間に書き綴った内容を一つの文章にまとめてみ……ようとしたのだが。
――やはりまとめきるのは難しかったので(そりゃあそうよね。笑)、以下にもまた、いくつか私の記事(上の文章中でリンクを付けていない、取り上げきれなかった内容のもの)を抜粋して載せていこうと思う。

(この記事のテーマは「索引」なので、とにかくなるべく、中でも内容が「一記事内にまとまっているもの」を選んだつもりである。)
(そして何より「私自身が特に忘れたくない記事」を選んだというところもある。)

――「そういや、あんな話を以前この人書いてなかったっけ?」なんて思い出して探していただく時にでも、以下の一覧から引っ張ってこられるような、そんな使い方をしていただけたらうれしいことこの上なしです!(……というか、自分でそうやって使うためにこれを作ったと言っても過言ではありません!!笑)



(一応、これでも精一杯、自分なりにですが、大量にある過去記事の中から「厳選」みました!!笑)
(――つまり、どうしてもこれ以上は削れませんでした!!!笑)



Q, 「私は」どう生きるか













Q, 自己あるいは他者をどう眼差していくか








Q, この4年間で「改めて気づいたこと」は?
(目線を「自分の内側」に向けて)















Q, この4年間で「改めて気づいたこと」は?
(目線を「自分の外側」に向けて)












Q, 「何とか生き抜く方法論」は








Q, 「社会や他者」との関係をどう築いていくのか














Q, 「夢」や「希望」をどう扱っていくか







Q, ん?自分の人生も「後半戦」に差し掛かっている??
――「これから」どうする?












A, 私は「言葉」と共に生きていく










いや~、実は年初から試みて、悩みに悩んだわけであります。――「この4年間分を一体どうやってまとめよう??」と。(いや、「我ながら、」短期間に大量に書き過ぎたと思う。――いやいやいやいや、ホンットに、「我ながら、」とにかく記事の数が多かった。大笑)
「いいね」が多い順にまとめるのも――うーん、やっぱ何か違うし。(一度それでまとめようとして途中まで作ってみたんだけど、「何かがっ!何かが違うよねっっ?!?!」となり、自ら却下しました。笑)

悩んだ挙句、自分自身が客観的視点に立って自分の書いたものを見て(言うなれば「編集者的視点」に立ってこれまでの記事を「編み直す」感じで)、そしてそれを「共有しませんか?」と「他者に投げかける意識をもって」作ってみるのはどうだろう?と。(押しつけがましいのは重々承知の上で、それでもあえて。)

これまで、「自分の考え」を述べる時は、意識的に「あくまで自分はこう考えている」の「自分のためのメモ書き」の体で、記事を書くことが多かった。(今でも、そしてこれからも、その姿勢自体は変わらないと思うのだけれど。)
でも、もし、何か精神的に、心理的に、生きていく日々に私が抱えたものと似たような「苦味」を味わっている方がもしいたなら、「私の場合はその苦さをこうして緩和してみましたが、いかがですか?」みたいな形で、まとめてみるというのも面白いかもな?と。
――でも、やるならキッチリやらんとな、「総まとめ」だしな!と。

そしてきっと、私が様々な方々の文章を読んでこれまでそうしてきたように、上に掲出した文章を読んだその場所から、様々な方が、様々なことを、「新たに」考え始める。「その先へ」と考えをそれぞれ進めていく。――それはもちろん、私なんかが思いもよらないことを多分に含むだろうから、そこからまた新たなその先の世界が広がっていくのだろうなあ――と、私は想像している。
(「本」ではないから「扉」がないのは残念ですが、でも、)そこから、人の数だけ、その言葉の数だけ、新たな世界へ通じる「扉」がきっとあるのだと思うし、世界に無数にあるそういう扉の、ほんの僅か一部にでも、私の書いたものが多少なりとも繋がっているようなことがもしもあったなら、それは私にとって至上の喜びなのであります。


ちなみに。

以下に出したものが、私が一番初めに作った「自選まとめ記事」なのであるが。
――この頃と比べて、私の書く内容は、ちゃんと「成長」しているだろうか??


で、これがつい先日書いた最新記事。


「あんまり変わらないよ?」という声が聞こえてきますが――その声は、自分の内側から?外側から?(きっと両方だな。笑)



この記事が参加している募集