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降る雪が、私のために。

昨日の記事の最後を、

「雪にしんしんと包まれる世界」が、あの時、自分を慰め、助けてくれていたことに、私は気づいた次第である。

と、私は締めたのだが。


解っている。

雪は、心など持たない。

そして世界は、別に、意識を持たないし、したがって、「私を慰めようとしてくれている」なんていうのは、所詮、勘違いだ。


――と、これまでは思っていたのだが。


自分の身体の一部が傷つけば――たとえば、指先を少し切ってしまったとして――「私本体」は、それを「痛い」と感じるわけである。


最近の私は、「個別の生物もまた、俯瞰で見れば、自然の一部分」という感覚がある。

――と、いうことは。
私もまた、この自然、または世界の、一部分なのである。


私の身体も、一時的に「私一人が独占的にお借りしている」状態で。

なので、他の「誰か人間」に、自分としては不本意に、他者の作為的にいいように、使われる筋合いはないのだが。
反面、自然に対しては、水をもらい酸素をもらい栄養をもらいなどで、持ちつ持たれつ(というか「持たれつ」のほうばかりだよな)生きているので、そこは「共有」というか。

つまり一言でまとめると。

私の身体は、「私だけのもの」ではないのでは?とも解釈している。
(そこらへんの話は、ずっと前に「何故そう思うか」をここnoteに書いたので、それを繰り返すとさすがにしつこくもなるし、更なる詳細はこの記事では割愛する。)

そうなると、私の「身体」に繋がっている、私の「意識」や「心」も、それらもまた、私だけのものではないのかもしれない。


そういった意味では。

よく詩(詞)の世界で、自然現象として降る雨を描写して、「空が泣いている」なんて言い方をしたりもするが。

私の「心」「気持ち」も、「生物」が自ずと持つものであるのなら、それは「自然の一部」なわけだから、天気なり空気なりと「繋がる」「連動」することは、当然と言えば、当然なのかもしれない。



雪は、私のために、清々しく真っ白なのではない。

雪は、私のために、その夜の光を驚くほど明るく反射しているのではない。

雪は、私のために、この世の音を吸収し、深く静かな夜を作り出しているのではない。

この雪は、私のために、しんしんと降り続いているわけではない。


雪が、「せつない」とか「やさしい」とか、そういった感情を持っているとは、とても思えない。

でも、そうなのである。

現実として、私の心は、「雪の降りしきる世界」と、あの夜、繋がっていて。
(――もしかすると、今でもそれは、「記憶伝い」に、繋がっていて。)


私は「生きている」のであるが、同時に、「生かされている」のであるなあ、なんてことを、思ったりもする。



季節が巡るたび、花が、目を引く色で咲き誇るのも。

その季節ごとに、樹々の葉が、美しく色を変えていくのも。

どう考えても、我々「人間」のためではない。
――んなわけあるか!とは思う。



「生きているもの」たちは、「自分のために」生きるものだし、それでいい。
草は草のために、樹は樹のために生きている、そういうものだ。

当然、植物の実や種や葉は、「私達に栄養を与える」なんてことのために、すくすくと自ら育つわけではない。
(それが動物なら、なおさらだろう。)

空が、どんな空模様でも、いつでも美しいのだって。
海が、凪でも時化でも、いつでも美しいのだって。

別に「私のため」ではないのだと思う。

でも、「繋がっている」のだと思えば、「こちらが自然と勝手にそれらをみて慰められる」というのも、どこか腑に落ちるところもある。

私が、現世にいるうちに、天に返せるものって、何かあるのだろうか。

たとえば、この世に私が与えられる「栄養」って、なんだろう。

(特に自然からはいつでも「もらってばかり」ではあるけれど。)